言葉以前の代物
観点の手に入れ方。
六芒星とは△と▽を合わせてできる図形のことで、
一般にはダビデの星や籠目紋などとも呼ばれる。
▽は陰を表し、△は陽を表す。
陰陽の2気が交じり合い6つの点が現れることから、
2+6で八卦を求めているとも考えることができる。
つまり太極図とよく似た思想構造であると言える。
また6は六感を表し、
陰陽が和合する中心に存在するヘキサゴンは、
六感を基礎とする人間的な観点の象徴であると考えることもできる。
ゆえにピラミッドアイは六芒星的観点の、
陽の気を表す象徴とも考えることができる。
陰陽思想を基にした易経に詳しい繋辞伝において
「仰いでは以って天文を観、伏しては以って地理を察す」
とあるように、
天から降り注ぐ陽の気は天文であり、
地から立ち上る陰の気は地理であると考えられる。
人は恐らくその中間の存在である。
中間とは陰陽思想的に捉えれば、
即ち無であり空である。
何もないからこそ観測しうる。
仏教において、
自我を無や空に至らせる修練をするのは、
恐らくは天文と地理を太極的な観点にて観測する為である。
古事を学ぶことによって浮き彫りになってくるものの多きこと。
フルコトとはもしかすると降言と記すのかもしれない。
言葉はもともと一つの物であり、
それが天文であったと考えることができる。
天へと至る塔のことをバベルの塔と呼び、
それを作ろうとした人間には天罰が下され、
言葉は分けられ、人は混乱の世を生きることとなる。
しかし、
それはキリスト教的な善悪二元論においての価値観であり、
陰陽思想的に捉えるのならば、
バベルの塔とは地から天へと向かう力のことであり、
それは陰の気の象徴でしかないだろう。
天から降り注ぐ一つの言葉は分けられ、
地には「理」が根付く。
これはすなわち「言割り」ではなかろうか。
人は天文を観、地理を察することによって観点を手に入れる。
この観点は太極である。
太極とは無極のことであり、両義を生ずる神の視点である。
言葉以前のものは今も我々を打ち抜き大地に降り注いでいる。
さて、書きながら自分でも整理できていない部分が沢山あるなと思いつつ、
これくらいでやめておかないと、頭が茹で上がってしまいそうだ。
六芒星とは△と▽を合わせてできる図形のことで、
一般にはダビデの星や籠目紋などとも呼ばれる。
▽は陰を表し、△は陽を表す。
陰陽の2気が交じり合い6つの点が現れることから、
2+6で八卦を求めているとも考えることができる。
つまり太極図とよく似た思想構造であると言える。
また6は六感を表し、
陰陽が和合する中心に存在するヘキサゴンは、
六感を基礎とする人間的な観点の象徴であると考えることもできる。
ゆえにピラミッドアイは六芒星的観点の、
陽の気を表す象徴とも考えることができる。
陰陽思想を基にした易経に詳しい繋辞伝において
「仰いでは以って天文を観、伏しては以って地理を察す」
とあるように、
天から降り注ぐ陽の気は天文であり、
地から立ち上る陰の気は地理であると考えられる。
人は恐らくその中間の存在である。
中間とは陰陽思想的に捉えれば、
即ち無であり空である。
何もないからこそ観測しうる。
仏教において、
自我を無や空に至らせる修練をするのは、
恐らくは天文と地理を太極的な観点にて観測する為である。
古事を学ぶことによって浮き彫りになってくるものの多きこと。
フルコトとはもしかすると降言と記すのかもしれない。
言葉はもともと一つの物であり、
それが天文であったと考えることができる。
天へと至る塔のことをバベルの塔と呼び、
それを作ろうとした人間には天罰が下され、
言葉は分けられ、人は混乱の世を生きることとなる。
しかし、
それはキリスト教的な善悪二元論においての価値観であり、
陰陽思想的に捉えるのならば、
バベルの塔とは地から天へと向かう力のことであり、
それは陰の気の象徴でしかないだろう。
天から降り注ぐ一つの言葉は分けられ、
地には「理」が根付く。
これはすなわち「言割り」ではなかろうか。
人は天文を観、地理を察することによって観点を手に入れる。
この観点は太極である。
太極とは無極のことであり、両義を生ずる神の視点である。
言葉以前のものは今も我々を打ち抜き大地に降り注いでいる。
さて、書きながら自分でも整理できていない部分が沢山あるなと思いつつ、
これくらいでやめておかないと、頭が茹で上がってしまいそうだ。