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インスタント殺人
- 2008/07/25(金) 06:58:28
犯行予告ほど無様なものはない。
「これから誰々を殺します」
本当に殺さなければならないほど憎いならば、
そんな事を書いている余裕などない。
結局は誰かに自分を注目させたいだけだ。
俺は阿呆ではないので、人を殺してはいかんなどと言うつもりはない。
本当に殺したいほど憎い人間がいるなら殺せばいい。
しかし殺したなら、それは自分の命でもって贖え。
残された人間にとっては、そんなもの何の贖罪にもならないが。
人が本当に人を殺したいほど憎まねばならない時、
それは本当にどうしようもない時だ。
我慢できるのなら、人は我慢するのだ。
それをする為に我々は命の尊さを学ぶし、
モラルというものを共通認識として積み上げていく。
故意の殺人というものが起きる時、
それは多くの場合モラルという共通認識の器から
殺人への衝動が溢れてしまったということだ。
やれ〜〜が悪影響だ、やれ〜〜は教育上よくない。
そんな風にして過激なものを子供たちから遠ざけて、
本当に犯罪は減ったのだろうか?
臭いものにフタをした所で、
世の中には見たくないもの醜いものが溢れかえっている。
誰からも殴られず、誰も殴らず、そのまま大人になって
「他人の痛みがわかる人間になれ」
と言われて、何の説得力があるというのか。
「人が人を殺したいほど憎む」
それは世間が思っているほど大した感情ではない。
人間生きていれば、そんな衝動に苛まれることが何度もある。
しかし皆それを抑え、我慢し、何とかやりすごしてきたに過ぎない。
それが出来る人間と出来ない人間がいる。
恐らく推測でしかないが、この出来ない人間の潜在的な数は
過去と現在を比較してもそれほどの差はないのではないだろうか。
つまり最終的に人を殺してしまう人間と、
なんとかそれを踏みとどまる人間の潜在的な絶対数は、
実は変わっていないのではないか。
これらはある種の病気のようなものであると考えるからだ。
だが、かつてと現在で変貌して来ている点がある。
それは殺人衝動のハードルが下がって来ていることだ。
最終的に殺人衝動を抑えることができない人間の絶対数は変わらなくとも、
人を殺したいと思う動機のハードルが下がった為に、
単純な動機で殺人を犯す人間が目に付くようになった。
この原因は昔より「傷み」や「人の死」が生活圏から遠ざかったからではないか?
そして命に対し無責任であるからではないか?
人間の死に生々しさがない。
傷みに実感がない。
そして、それらは例えばゲームや漫画やインターネットで過激な映像を見た所で、
簡単になくなってしまうようなものではないはずだ。
もっと根源的な問題だ。
例えそれらが悪影響を及ぼすようなものであったとしても、
大切なのはそれを見た人間が、
それを自分にとって悪影響かそうでないかを判断できる力があるかどうか。
その力は小学4年生ごろには充分に備わっているはずのものだ。
大人の役目は子供たちがその年頃になるまでに、
子供たちに自分なりに判断し取捨選択する力を養わせることだ。
決して大人の都合で、これは良い、これは悪いなどと判断し、
勝手にフタをして良いものではない。
何故人を殺したいと思ったか。
「むしゃくしゃした」「誰でもよかった」「怒られたから」
そんな程度の理由で人を殺せる化け物を作り出したのは一体誰なのか。
もう一度個々人が考える必要はないだろうか。
自分には関係ない、そう思う心から歪みは始まっている。
その無責任さが簡単に人を殺す。
たまたま自分が殺さない側の人間だっただけで、
何かひとつネジが違っていたら自分もそうなってしまっていたかもしれない。
命に対して無責任な殺人者、
それと同質の無責任さを誰しもが抱えている。
そのおぞましさは忘れてはならない。
宮崎勤のようなタイプの人間じゃなくても、
人が殺せる時代が来てしまったのだ。
その原因を我々はもう一度しっかり考え直さなくてはならない。
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- From: ブログ界の正論 |
- 2008/07/25(金) 21:20:25
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