神はどこにいるか?
という恐ろしいタイトルで、あえて始めてしまう。
人は古来から、様々な形で神というものを作り出してきた。
我が国を含め、世界各地には未だに様々な神がいる。
それらには実はすべて共通点がある。
そして、その共通点を知る為のヒントは既に我々に与えられていた訳だ。
神という字を、分解してみると。
「示」と「申」という字になる。
「示」という字は自分の考えや物を人に見せることを意味する。
「申」という字もまた自分の考えや物を人に話すことを意味する。
「神」とは即ち、
人々が相互に理解を深めようとする意識の中に宿るものの事だ。
場合によってはそれが宗教のような形になることもある。
相手の考えや物を理解しようとする心がなければ、
相手の「神」を理解することなど到底無理な話なのだ。
逆もまた然り。
神がどこかにいるのだとすれば、それは人の中だ。
神は、
自分を他人に伝えようとする意思の中にこそ宿る。
他人を理解しようとする心の中にこそ宿る。
そういった物なのではないのかと思うのだ。
一つの神を信ずるも、八百万の神を信ずるも、己の中の神を信ずるも。
神がいないと信ずるも自由だ。
しかし一つだけ言えることは、
それらは他人がいなければ、生まれることすら無かった意識に違いないのだということ。
初めに言葉ありき
言葉は神と共にあった、言葉は神であった、
この言葉に命があった、そしてこの命は人の光であった
聖書の中に書かれている、
真理の一端を捉えているであろう一文だ。
言葉などというものがなければ、人は相互に理解を深めようとはしなかっただろう。
逆に言えば、人同士が相互理解を深めようと思うことがなければ、
言葉などというものは湧き出てはこなかった。
相手に自分のことを伝えよう、相手を知ろう、
という意思があって初めて、言葉は意味を持つ。
「言葉に命があった」とはそういうことだろう。
「そしてこの命は人の光であった」
人の光、という言葉をどう理解するかにもよるが、
命は即ち人の光である訳だから、
人の光とは、そのまま言葉の命である「示」「申」の意思であろうと思う。
言葉に命を宿すのは人と人であり、
その言葉は「神と共にあった」とある。
そして「言葉は神であった」と続く。
言葉=神ではなく、言葉≒神なのである。
示
人 言 葉 人
申
感覚的に伝えようとするなら、こうなる気がする。
人と人が互いに言葉や自分の身体を使って、
何かを示したり、申したりしていく中で、
知らず知らずの間に神というものは生まれる。
互いが互いの意思を伝えあうだけで、
相手を理解しようとしなければ言葉はぶつかりあい、神は半身をもがれる。
相手を理解することと、自分の意思を曲げることは全く違う。
他者の考えに思いを馳せずに、
自分の意思だけを撒き散らすのでは言葉に命はない。
「それは違う」という表面的な答えが同じであっても、
相手を理解しようとした上で生まれた答えと、
自分の意見だけを押し通そうとする答えとでは、
まったく本質が異なるものである。
「示」と「申」。
どちらも伝えるための文字である。
だからといって押し付けがましい言葉であると理解するのは短絡的というものだ。
伝えるという物事の根幹には、
相手を理解したいという心があるという事を忘れてはならない。
理解なくして伝えることなどできず、
伝える意思なくして理解することもまたできない。
相克する理由が陰と陽のように複雑に絡み合っている。
しかし同時に、伝えることだけに捉われてしまって、
半身をもがれた神ばかりがこの世界に満ちていることも事実である。
人は古来から、様々な形で神というものを作り出してきた。
我が国を含め、世界各地には未だに様々な神がいる。
それらには実はすべて共通点がある。
そして、その共通点を知る為のヒントは既に我々に与えられていた訳だ。
神という字を、分解してみると。
「示」と「申」という字になる。
「示」という字は自分の考えや物を人に見せることを意味する。
「申」という字もまた自分の考えや物を人に話すことを意味する。
「神」とは即ち、
人々が相互に理解を深めようとする意識の中に宿るものの事だ。
場合によってはそれが宗教のような形になることもある。
相手の考えや物を理解しようとする心がなければ、
相手の「神」を理解することなど到底無理な話なのだ。
逆もまた然り。
神がどこかにいるのだとすれば、それは人の中だ。
神は、
自分を他人に伝えようとする意思の中にこそ宿る。
他人を理解しようとする心の中にこそ宿る。
そういった物なのではないのかと思うのだ。
一つの神を信ずるも、八百万の神を信ずるも、己の中の神を信ずるも。
神がいないと信ずるも自由だ。
しかし一つだけ言えることは、
それらは他人がいなければ、生まれることすら無かった意識に違いないのだということ。
初めに言葉ありき
言葉は神と共にあった、言葉は神であった、
この言葉に命があった、そしてこの命は人の光であった
聖書の中に書かれている、
真理の一端を捉えているであろう一文だ。
言葉などというものがなければ、人は相互に理解を深めようとはしなかっただろう。
逆に言えば、人同士が相互理解を深めようと思うことがなければ、
言葉などというものは湧き出てはこなかった。
相手に自分のことを伝えよう、相手を知ろう、
という意思があって初めて、言葉は意味を持つ。
「言葉に命があった」とはそういうことだろう。
「そしてこの命は人の光であった」
人の光、という言葉をどう理解するかにもよるが、
命は即ち人の光である訳だから、
人の光とは、そのまま言葉の命である「示」「申」の意思であろうと思う。
言葉に命を宿すのは人と人であり、
その言葉は「神と共にあった」とある。
そして「言葉は神であった」と続く。
言葉=神ではなく、言葉≒神なのである。
示
人 言 葉 人
申
感覚的に伝えようとするなら、こうなる気がする。
人と人が互いに言葉や自分の身体を使って、
何かを示したり、申したりしていく中で、
知らず知らずの間に神というものは生まれる。
互いが互いの意思を伝えあうだけで、
相手を理解しようとしなければ言葉はぶつかりあい、神は半身をもがれる。
相手を理解することと、自分の意思を曲げることは全く違う。
他者の考えに思いを馳せずに、
自分の意思だけを撒き散らすのでは言葉に命はない。
「それは違う」という表面的な答えが同じであっても、
相手を理解しようとした上で生まれた答えと、
自分の意見だけを押し通そうとする答えとでは、
まったく本質が異なるものである。
「示」と「申」。
どちらも伝えるための文字である。
だからといって押し付けがましい言葉であると理解するのは短絡的というものだ。
伝えるという物事の根幹には、
相手を理解したいという心があるという事を忘れてはならない。
理解なくして伝えることなどできず、
伝える意思なくして理解することもまたできない。
相克する理由が陰と陽のように複雑に絡み合っている。
しかし同時に、伝えることだけに捉われてしまって、
半身をもがれた神ばかりがこの世界に満ちていることも事実である。