蔦からまるQの惑星 レビュー #2 レセプター(受容体)
ニ. レセプター(受容体)
アウェーインザライフで愛への準備を済ませたところで、
レセプター(受容体)は愛と罪と罰のはじまりだ。
すべては、すべてを受け入れることでしかはじまらない。
受け入れることでしかすべてがはじまらないのか、
すべてがはじまったから受け入れるしかなかったのか。
それとも受け入れたいからすべてをはじめたのか。
物事の順序は曖昧だ。
昔ポーランドの修道院、戒律厳しい尼僧等がトランスおこして大乱舞
これは17世紀にフランスで起こった史実が元の歌詞。
尼僧ヨアンナという小説やそれを原作とした映画などに詳しい。
情欲と悪魔と恋と愛と磔、そして歴史や宗教などをテーマにしている。
悪魔憑きの尼僧ヨアンナと彼女を愛した神父スーリン。
歌詞の中ではスーリンという名は出てこないがヨアンナを愛した神父は登場する。
先日都会のまんなかで踊る集団アイドルがトランスおこして大逃走
一方こちらは大槻ケンヂの創作の現代。
同じような出来事が時空を超えて同時に起こっている状態を演出したかったと、
大槻ケンヂ本人が言っているが、
それは10曲目のゴミ屋敷の王女のラストの語りにおいて、
より明確に意図して演出されている。
時を超えて同時に。
この感覚観が重要だ。
創作世界であるから別世界。
しかし時間は流れて現代。
だが似たような事象は同時に起こる。
SF的でもあるし運命的でもある。
悪魔憑きとはそういうものかもしれない。
罪の意識に溺れるのは甘やかで時にひどく悪魔的だ。
ヨアンナは戒律厳しい尼僧であり抑圧的な立場にあった。
ゆえに本能では情欲を求めていたのかもしれない、
その本音と建前の中に巣食うものが悪魔だ。
求める心に悪魔は忍び寄る、どちらが先かは重要ではない。
その罪を罰して欲しいと望む心はマゾヒスティックな悦びであるかもしれない。
それは虫喰う花のような欲深い様でもある。
虫喰う花のよう甘い香りで釣って罪受け入れろと囁くよ 愛はレセプター。
悪魔憑きの尼僧ヨアンナは欲望に忠実であっただけかもしれず、
その悪魔を祓う為ヨアンナへの愛に殉じようと死を受け入れようとする神父も、
ただ己の本能の欲望に忠実であっただけかもしれない。
踊る集団アイドルが神様よりも好きな人がいるんだもんと逃げ出したのも、
恋に殉じようとする欲望に忠実な様であり。
その様をマスメディアが悪魔憑きのようだと叩く様もまた悪魔憑きのようだ。
だがすべてを受け入れる 愛はレセプター。
もしすべてを自分が呼び込んでいるのだとして。
悪魔憑きなんてものの原因が自分なのだとしたら。
悪魔に「あい」に「こい」と言っているのは自分自身なのだとしたら。
踊れ踊れよ大乱舞
逃げろ逃げろよ大逃走
受け入れるなら悪魔の恋 神様よりも
さて次の曲へ参りましょうか。
アウェーインザライフで愛への準備を済ませたところで、
レセプター(受容体)は愛と罪と罰のはじまりだ。
すべては、すべてを受け入れることでしかはじまらない。
受け入れることでしかすべてがはじまらないのか、
すべてがはじまったから受け入れるしかなかったのか。
それとも受け入れたいからすべてをはじめたのか。
物事の順序は曖昧だ。
昔ポーランドの修道院、戒律厳しい尼僧等がトランスおこして大乱舞
これは17世紀にフランスで起こった史実が元の歌詞。
尼僧ヨアンナという小説やそれを原作とした映画などに詳しい。
情欲と悪魔と恋と愛と磔、そして歴史や宗教などをテーマにしている。
悪魔憑きの尼僧ヨアンナと彼女を愛した神父スーリン。
歌詞の中ではスーリンという名は出てこないがヨアンナを愛した神父は登場する。
先日都会のまんなかで踊る集団アイドルがトランスおこして大逃走
一方こちらは大槻ケンヂの創作の現代。
同じような出来事が時空を超えて同時に起こっている状態を演出したかったと、
大槻ケンヂ本人が言っているが、
それは10曲目のゴミ屋敷の王女のラストの語りにおいて、
より明確に意図して演出されている。
時を超えて同時に。
この感覚観が重要だ。
創作世界であるから別世界。
しかし時間は流れて現代。
だが似たような事象は同時に起こる。
SF的でもあるし運命的でもある。
悪魔憑きとはそういうものかもしれない。
罪の意識に溺れるのは甘やかで時にひどく悪魔的だ。
ヨアンナは戒律厳しい尼僧であり抑圧的な立場にあった。
ゆえに本能では情欲を求めていたのかもしれない、
その本音と建前の中に巣食うものが悪魔だ。
求める心に悪魔は忍び寄る、どちらが先かは重要ではない。
その罪を罰して欲しいと望む心はマゾヒスティックな悦びであるかもしれない。
それは虫喰う花のような欲深い様でもある。
虫喰う花のよう甘い香りで釣って罪受け入れろと囁くよ 愛はレセプター。
悪魔憑きの尼僧ヨアンナは欲望に忠実であっただけかもしれず、
その悪魔を祓う為ヨアンナへの愛に殉じようと死を受け入れようとする神父も、
ただ己の本能の欲望に忠実であっただけかもしれない。
踊る集団アイドルが神様よりも好きな人がいるんだもんと逃げ出したのも、
恋に殉じようとする欲望に忠実な様であり。
その様をマスメディアが悪魔憑きのようだと叩く様もまた悪魔憑きのようだ。
だがすべてを受け入れる 愛はレセプター。
もしすべてを自分が呼び込んでいるのだとして。
悪魔憑きなんてものの原因が自分なのだとしたら。
悪魔に「あい」に「こい」と言っているのは自分自身なのだとしたら。
踊れ踊れよ大乱舞
逃げろ逃げろよ大逃走
受け入れるなら悪魔の恋 神様よりも
さて次の曲へ参りましょうか。