人が自然の中で生きる為に。
タイトルで引かないで欲しいが、
伊勢神宮の太い木々を見て感じたことを書いただけです。
エコがどうこうとかっていう内容は書いてませんので。
あしからず。
さて。
先日、人生3度目の伊勢神宮に行ってきた。
あの神木とでも呼ぶべき大木の数々。
ただ時を経ただけとは思えないような力強さ。
神宮内にある木をよくみていくと、
若い木の根っこ辺りに積み石がしてあったり。
巨木の内部に空洞があったり。
木の周囲にそれを取り囲むように違う木々の枝々が、
絡みあうようにしているのが見える。
ふと、もしかすると伊勢神宮のこの凄い景色は、
人の手が入った自然の姿なのではないかと感じた。
悪い意味ではない。
人と自然が共生する為の知恵がそこにはある気がした。
永い年月をかけて成長する木を、
より太く、より強固な大木として力強くする為に、
何本もの木々を一本の木へと融合させていく。
木の成長を見越して苗を植えたり、
その木をどの木と融合させようとしているのか。
太陽の動きなども考えながら木々の成長を見守る。
恐らく気が遠くなるほどに永い間。
そんな人達がいたのではないだろうか。
そう感じられる気配が佇まいにはある。
一本を成長させるというよりも、
数本の木だったものを最終的に一本の木にしてしまっているような。
なんとなくそんな感じを受けた。
豊富な水の力によって石や大地が苔むすことで、
土自体も豊かになるし多くの動植物にとっての豊かな土地となる。
その自然の循環の中に人が入り込む為には、
無い知恵を振り絞って考える必要があるのかもしれない。
食べ物を肥やす方法だけでなく、
多くの動植物と共生していく為に。
豊かな大地の力と水の流れと太陽の力がなければ、
成し得ないことではあるだろうが、
少なくともそれが可能な場所であるのなら、
伊勢神宮のような豊かな自然も手に入れることができる。
ということの証明なのではないだろうか。
もし人の知恵の力でそれが可能なのだとすれば、
人が人に何かを託すという気持ちも理解できなくない。
生死なんてものを超越して全てを循環させていく為に。
森林伐採がどうしても必要なのであれば、
人は木々を育て、豊かな土壌を育ませればいい。
これから先も力を借りてゆく為に、
人の力で出来ることは人がやればいい。
その為に自然と対話する方法を、
人が模索していけるなら、今からだってまだ遅くはないと思う。
素早く建造物をつくる建築技術もいいが。
永い目で自然と暮らしていたであろう古代の人々のテンポと考え方からも、
充分に学ぶことはあるだろう。
即物的な交換にしか能力を発揮しない金じゃ解決できない問題だ。
そこに必要なのは自然と共に生きるという意識であって、
自分達だけが徳をしようとか、
自分達だけに都合のいい環境を目指していたのでは成立しない。
循環の中にヒトを投じるならば人は何ができるか?
周囲の環境の把握し、
どのような成長を促すことができるか。
知恵はそれを考えることができるかもしれない。
あまり干渉しすぎるのではなく。
効果的な循環構造を整えることで、
自然の力を借りて自然の成長を促進させるような構造を探る。
そういうことをやってみせるのが人の知恵であって欲しい。
伊勢神宮の大きく高く伸びた木々に囲まれながらそう感じた。
伊勢神宮の太い木々を見て感じたことを書いただけです。
エコがどうこうとかっていう内容は書いてませんので。
あしからず。
さて。
先日、人生3度目の伊勢神宮に行ってきた。
あの神木とでも呼ぶべき大木の数々。
ただ時を経ただけとは思えないような力強さ。
神宮内にある木をよくみていくと、
若い木の根っこ辺りに積み石がしてあったり。
巨木の内部に空洞があったり。
木の周囲にそれを取り囲むように違う木々の枝々が、
絡みあうようにしているのが見える。
ふと、もしかすると伊勢神宮のこの凄い景色は、
人の手が入った自然の姿なのではないかと感じた。
悪い意味ではない。
人と自然が共生する為の知恵がそこにはある気がした。
永い年月をかけて成長する木を、
より太く、より強固な大木として力強くする為に、
何本もの木々を一本の木へと融合させていく。
木の成長を見越して苗を植えたり、
その木をどの木と融合させようとしているのか。
太陽の動きなども考えながら木々の成長を見守る。
恐らく気が遠くなるほどに永い間。
そんな人達がいたのではないだろうか。
そう感じられる気配が佇まいにはある。
一本を成長させるというよりも、
数本の木だったものを最終的に一本の木にしてしまっているような。
なんとなくそんな感じを受けた。
豊富な水の力によって石や大地が苔むすことで、
土自体も豊かになるし多くの動植物にとっての豊かな土地となる。
その自然の循環の中に人が入り込む為には、
無い知恵を振り絞って考える必要があるのかもしれない。
食べ物を肥やす方法だけでなく、
多くの動植物と共生していく為に。
豊かな大地の力と水の流れと太陽の力がなければ、
成し得ないことではあるだろうが、
少なくともそれが可能な場所であるのなら、
伊勢神宮のような豊かな自然も手に入れることができる。
ということの証明なのではないだろうか。
もし人の知恵の力でそれが可能なのだとすれば、
人が人に何かを託すという気持ちも理解できなくない。
生死なんてものを超越して全てを循環させていく為に。
森林伐採がどうしても必要なのであれば、
人は木々を育て、豊かな土壌を育ませればいい。
これから先も力を借りてゆく為に、
人の力で出来ることは人がやればいい。
その為に自然と対話する方法を、
人が模索していけるなら、今からだってまだ遅くはないと思う。
素早く建造物をつくる建築技術もいいが。
永い目で自然と暮らしていたであろう古代の人々のテンポと考え方からも、
充分に学ぶことはあるだろう。
即物的な交換にしか能力を発揮しない金じゃ解決できない問題だ。
そこに必要なのは自然と共に生きるという意識であって、
自分達だけが徳をしようとか、
自分達だけに都合のいい環境を目指していたのでは成立しない。
循環の中にヒトを投じるならば人は何ができるか?
周囲の環境の把握し、
どのような成長を促すことができるか。
知恵はそれを考えることができるかもしれない。
あまり干渉しすぎるのではなく。
効果的な循環構造を整えることで、
自然の力を借りて自然の成長を促進させるような構造を探る。
そういうことをやってみせるのが人の知恵であって欲しい。
伊勢神宮の大きく高く伸びた木々に囲まれながらそう感じた。