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社会とは、森と杜とは人にとって何であるか。

最近の記事を書いていて思い当たったことなんだけど、
「杜(もり)」という言葉はかなり面白い意味を持っていると思う。
「杜(もり)」は社会の「社(しゃ)」という字に非常に似ている。
俺は言葉の起源などもしらないし専門的な知識もないけれど、
社会という場所は人にとっては森のような空間である、
ということはその中で生きる一員として言えるような気がする。

「社会」とは人と人が森の中で偶然に、または必然的に出会うという、
一期一会のような精神観がすでに言葉自体に含まれているような感じ。

森とは、木々が溢れ、葉が舞い散り、虫や鳥が鳴き、
さまざまな生命が生まれては死に、生まれては死にを繰り返す場所。
そして、そもそも人もその中の一部だった。

しかし人は森の生命たちのように自然的な動物ではなく、
社会的な動物であった。
社会という概念が存在しなかった頃の感覚で言うならば、
同種内においてでも多種においても自と他という区別を他の生命よりも重視した。
それがゆえに人は森を出たのだと俺は思う。

つまり森という循環の中において、
自分たちが不純物であるということに気付き始めた者たちが、
少しずつ自分たちなりの「杜(もり)」を違う場所に築き始めた。
「気付き」と「築き」っていうのもいい関係性の音の言葉だな。
気付かなきゃ新しいものなんて築けないもんなぁ。

まあ、それは置いておくとして。
そうした流れの中で森の民としての本能が
自分たちがこしらえた「杜(もり)」に「社(やしろ)」のような物を造り、
土地の神のようなものを祭る精神が来ているのではないかと思う。

「社会」というのは人という種族が自ら作り上げた
独自のコミュニティとしての「杜(もり)」という空間を共有する場である。
という風に考えることもできるのではないかと思っている。

モチーフとして捉えるのであれば、
人が森から出て行き、自分たちだけの世界を作っていくという筋書きは。
キリスト教的史観で言うと、
知恵の実に手をつけたが故に楽園を追われた人、となるのだろう。

しかし森の民の心を忘れずに「社(やしろ)」を祭る心を持ち、
森を離れてしまった自分たちの杜の中にだって、
森の神と同じように杜の神が顕れてくれると信じた民だっている訳だ。

「社会」というコミュニティを人という種のみで成立させたのだと思いたいのは。
本当は人が神に見放されたからではなく、
森というコミュニティに属することができなかった疎外感が根本にある気がする。

それでも何かを信じて、何かを祭ることは、
世界と人という関係性の立体感においては非常に純真な感覚だと思うのだ。

「森」というのは言わば情報の集積のような場所であって、
生死混濁、感覚一杯すべてが圧倒的な情報である。

そして人が作り出した「杜(もり)」という場所もまた、
溢れかえる情報で一体自分がどこにいるやら分からなくなるような所で。
その中で疎外感を感じた人間はより小さなコミュニティで、
「引きこモリ」とう「モリ」に入っていったりする訳なんでしょうな。
それが「遮会」になってしまうというのは皮肉なもんです。
ジ・オッサンセンス。ル・ネッサンスみたいでいいね。

「社会」という言葉は。
「森」を出た人の「杜(もり)」の心を祭る「社(やしろ)」であり、
同時にその過剰な情報の中で、
出会うことのできた人と人や、
自と他の繋がりすべてのことを指している言葉ではないか。

人は人の力だけで森を築けるほどには、
俺はまだ生命の力を授かっていないように思うな。
やはり人と人の間で生まれる力だとか、
人と世界の間からこぼれ出る力だとかは、
神と呼んでもかまわない人以外の力の賜物だと思うのだ。

自然から見放されたのではなく、
人は自らにとっての自然を、自然から学び模倣していったのだろう。
これからその「杜(もり)」がどうなっていくのかは、
「森」にお伺いをたてるのが一番でしょう。
教訓を与えてくれるはずの森という故郷を、
無計画に伐採した文明がどのような末路を辿ったのか。
それは考えるまでもないことだろうと思う。

俺は別にスピリチュアルな話をしているつもりはなくて、
人は人のみで生きることができないのだから、
当然の流れとして人の杜を保つ為の最低限の協力者とは、
なんとか折り合いをつけてやっていくしかないじゃない。
ということな訳だ。

そしてそれはそのまま人の社会性というものにまで繋がっていて。
どれだけ人間社会という場所が嫌でも人は人なのだから、
人と付き合って行かざるを得ないという命題にまで繋がる訳だ。

それゆえに社会なのだ。
という社会観がないと、
人は社会という場所を都合の良い場所だと勘違いする。
最近の世間の動きを見ていても、
そういう根本が抜けているから社会という場所で甘えるのだろうと思う。

世界はそんなに優しくはない。
しかし、だからこそ全ての生命の生死に関して冷酷な平等さを持っているのだ。

じゃあ、そんな所に甘えられるはずなんてないよな。
っていうことに人間が気付かないと多分そんなに先は長くないかなぁ。
だからこそ、その世界が与えてくれるものは遠慮なく頂戴いたします。
という精神性にも繋がっていく気がする。

俺にとってはそれが世界の当然の流れであって、
その根本原理原則からズレていると違和感を感じたりする原因になるのだろう。

という所くらいで終わらせておくことにしよう。

いやはや自分の中でも考えがまとまっていない事を、
ブログにどんどんと書いていくというのは、
漫画家がネームを取らずに筆入れするような感じみたいで、
自己満足度合いが向上してちょっと良い気分になれるので嬉しい。
後で気付いたら勝手に加筆修正するあたりは、
もはや手塚先生の域だよなぁ、などと思う夏の夜更けでありました。

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