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会話の相転移性

会話の速度と密度と質量。

会話というのは言葉の応酬ではない。
自と他との空間にあるものを浮き彫りにするための、
価値観の対峙であり、提示であるのだ。

それゆえに会話というのは本質的に互いには齟齬が生じ、
違和感を残したまま流れていくのが自然なことである。

意思を伝えようとする行為は、
自己内観である意思を、
他者の理解領域に伝達する為に、
如何に繊細で丁寧な言語化を試みようが、
全ては伝わりきるはずが無いという命題を抱えている。

それは個人というのが、
それぞれに異なる性質を孕んでいる為だ。

しかし、多少の齟齬はあれど、
こちらが伝えようとすることの根幹にある意味性を、
相手が少しでも把握したかどうかというのは、
真剣に会話をしていれば、すぐに分かる。

相手によっては全部で10のポイントを整理して話さなければならいのが、
感覚共有や、言語以外の部分での
共通言語のようなものを持っていれば10のうち2~3ポイント話しただけで、
伝えようとする根幹の意味性を把握してもらうことができる。

端的に要点をまとめて話すということは、
一人対不特定多数という場合においては最も重要視されるべきポイントだ。
しかし、対個人同士の場合において。
10のうち3話しただけで相手が本質の一端を理解したと判断できれば、
残りの7をすっ飛ばして、次のステップの会話へと進むことできる。

このことにより会話の速度があがり、
内容の密度と質量が増加する。
さらに把握に対して余白を残している分、
あらゆる方面に会話の発展の余地が生まれることにも繋がる。

このことにより共通言語のようなものを共有する人間同士にとって、
会話は非常にスムーズになり、且つより発展的なものとなる。
余白は自分で埋めて、把握した根幹の部分について会話を進める。
そうすると相互的に時に自己確認のように、
時に新たな価値観と出会いながら。
会話はどんどんと流れ、発展し、
お互いにとっての有意義な時間を生じさせるようになる。

相手が世界と自分の関係をどのように捉えているのか。
自分が世界との関係をどう捉えているのか。
その感覚の共有や提示のし合いをすることによって、
より相互理解は深められ、互いの異なる性質を浮き彫りにしていく。

そして、本気の会話をすればするほどに、
完全な感覚の共有などというのは人間にとっては不可能であるし、
もともとそんなことは不必要であるのだということが分かる。

言葉以外の共通言語というのは、
例えば似た感性であったり、クラブ活動による共同生活によるものであったり、
立場が似たもの同士であったりと様々だ。
そうした言葉以外の共有される共通言語によって、
会話は未完成の概念を浮き彫りにする役割を果たす。

自分と世界を隔てるものがないのだと気づいた瞬間に、
自分という存在の中心は
流れ行く世界の景色の中にたゆたっているものだと気づく。
そして世界もまた変質していく。
自分が変化するのは世界が変わっていくからだ。

そしてだからこそ揺るがない自己というものが必要になる。

世界の変化に合わせて自分を変化させるということは、
自分を貫き通すということへの矛盾点にはなりえない。

変化した世界の中で、
俺は変わらないと言い続けることは、
自分が世界にとって揺らいだ存在であるということの証明なのだ。

世界と自分は同じ領域のものであるのだから、
世界の変化を察知するのと、
その変化に合わせて自分を変化させるのは、
自分が揺るがないことの証明のようなものだ。

そう。
これは俺にとっての「揺るがない自己」を確立する為の論理だ。

そして俺という人間にとって、
その論理は恐らくは間違っていないだろうということだ。
間違っているかもしれないという不安が常について回っているからこそ、
俺は信じて前に進むことができる。

世界とは常に不条理で不安によって秩序づくられている。
秩序と混沌は反義的な意味合いではなく両義的な領域のものだ。

混沌の中にも秩序は存在し、
秩序の中にも混沌は存在する。
秩序は混沌から産み落とされ、
混沌は秩序によって体裁を保たされる。

世界とはそういう場所なのだから。
会話もまた混沌と秩序によって紡がれている。

会話とはミルフィーユのように綺麗に重ね合っていくものではなく、
縒り糸のように、ぐるぐるとねじれながら続いていくものだ。
それでも結果的には一本の糸のようになってしまうものだから、
会話は齟齬もなく終えられたと、
互いがなんとなく感じてしまうだけのこと。

本来はねじれて齟齬を孕みながら会話というのは続く。
そしてだからこそ。
二重螺旋のような縒り糸の会話は
互いを補い合う相補性を持つ。

人間にとってコミュニケーションというものが一体何なのか。
その答えになるかどうかはわからないが、
会話による齟齬と、
その齟齬を補い合うお互いの価値観の対峙こそが、
新しい何かを生み出していく相転移性を持ちうるのだろう。

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