崩れていた体調も大分回復してきて、
ようやっと届いていたパソコンの
セッティングができるくらいには復活しました。
とりあえずプライベートと仕事や雑務用の部屋を分けようと思いまして。
一緒にしておくと、
どちらにも良い影響がないことが痛いほど分かったので。
プライベートタイムが仕事中みたいになって、
仕事中にプライベートタイムみたいになる。
知らずに消耗していってしまうのですねー。
最近はカーテン開けっ放し生活、
加湿器で湿度ある朝の訪れを満喫しております。
コツはあれですね。
全部を完璧にこなそうとしない。
少しずつ出来る範囲で手をつけていく。
一日で全部やろうとしない。
出来ることを出来るだけ精一杯。
すると山積しているやるべきことが、
多少解消されていって、道筋が見え始めてくるんですよね。
大した人間でもないのに
大した人間と同じことをしようとするから出来なくなる。
大したことをしなくても、少しずつやっていけば、
最終的には大したことになってることだってある。
コツはコツコツ精一杯と気の持ちよう。
自分のペース、自分の特性、自分で把握できるようになれば、
自分ができることの判断が早くなる。
無理して頑張っても能率が悪くて他が疎かになっては意味が無い。
ひとつの事だけやって生活できりゃいいんですが、
人生そう簡単にはいかんもんですから。
だったらやるべき時に一つのことに集中できるように、
有意義に時間を使っていかんと結局人生の無駄遣いになってしまう。
あらゆるものを無駄にしない為に自分をどうコントロールできるか。
自分という奴は、
どんなジュウよりも制御が難しいかもしれませんけどね。
人生は最後の武器なのだ無駄弾は撃つなよワルサーP38(筋肉少女帯 - ペテン)
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普段は季節の変わり目なんかが多いのですが、
今年は乾燥に気を使うのを忘れて風邪をひいてしまいまして。
その反省を踏まえて、
ここ数日は「寝起きの喉に潤いを」を合言葉に、
私のお部屋では加湿器が久々に元気に活躍中なんですねー。
(やたらと流暢なのが嫌なヘルスケア系のセールストーク風)
ハロゲンヒーターとコンボで、
ストーブとやかんのコンボを再現しています。
実際、今日の寝起きは冬場とは思えないほどの湿度ある目覚めでした。
買われた当初は活躍していたTANITAの湿度計も久々に見えるところに。
現在室温が24度前後、
湿度が55%といったあたりで比較的よろしい数値。
アロマオイルと一緒に加湿されていく部屋。
うちの加湿器は吸水が面倒なのが難点です。
しかしこんなに快適なら、
もっと早く加湿器の存在を思い出しておくべきだった。
買った当初は今ほど乾燥してなかったのかなぁ。
注文していたパソコンがようやく届いたんですが、
風邪で身体がダルいので、
ようやく届いたパソコンも組み立てられておらず、
まだ起動させられていないのが心残り。
経験則的に、ここで気を抜くともう1段階しんどいのが来るので、
栄養ドリンクと防寒と湿度管理でしっかり対策したいと思います。
そういえばブログ内容が、
どんどん浮世離れしちゃっている様相をていしてきたので、
普通の話題というか世間の話題にも少々乗っておきますw
政治や暗い話題にはなるべく触らないようにしていますけど。
PSPの後継機にあたるNGPが発表されましたねー。
有機ELも綺麗ですし、凄まじいスペックです。
気になるのがPSPとの互換だったりするんですが、
機種名もポータブルの名残りを残すのみで、
採用されたのは独自規格のフラッシュメモリ。
推して知るべしですなぁ。
背面タッチパネルは面白そう。
そういえば3DSってもうそろそろ発売なんですね。
個人が携帯できる裸眼立体視がすぐそこまで来ている。
どんな未来世界の到来ですか。
ストーブとやかんのコンボが未だに幅をきかせるこの時代に。
未来からの贈り物が沢山届いておりますのう。
ただ、ペース早過ぎる気がしなくもないですよ。
今あるものをじっくり、
ちゃんと使っていく精神性も育めるとなお良い気がします。
前回書いた分から、さらに期間があいてしまいましたが。
このブログはライフワークでありますので、
良き時も悪き時もほとんど全て表層にあらわれております。
なるべく暗い記事は書きたくないので、
暗くなりそうな時は書かないようにしてますが、
それでも読んで暗い気分になってしまったよという方には、
ごめんなさいチョップ。
さ、では早速、俺に影響を与えてくれた方々の紹介をば。
奥井亜紀
自分自身、なぜ今までこの方の名前を出さなかったのか不思議なくらい。
普段の記事では結構書いているので、
書いたつもりになっちゃっていました。
奥井亜紀さんは俺に音楽のきっかけを与えてくれた
この上ない恩人であり音人です。
人生で最初に買ったCDは「Wind Climbing~風にあそばれて~」
再会したのは∀ガンダムのED「月の繭」で、
まさにターンA(AKI)させて頂き原点回帰とあいなりました。
アルバム「DENIMUM」以降はずっとファンをやらせて貰っています。
「大樹」で失ってもなお根を張り天を目指す意志を教えてもらって、
自分の母が亡くなった時は大樹が本当に支えになってくれました。
ライブではいつも素晴らしい感動を頂いていますし、
今またポケモンの「心のファンファーレ」などで、
小さな子供たちに大切を届ける歌を歌ってらっしゃいます。
俺にとっては目指すべき指標であり、
母のような慈愛を頂いた方でもあります。
偉大すぎる。
自分の音楽の理由の根本に位置する方です。
木村明浩
いまや言わずと知れたバッファロー吾郎の木村さんですが、
この方がお笑いを通して見せてくれた熱量にしびれて。
未だにこの方への尊敬の念が絶えたことはありません。
完璧な人じゃないし、無条件に大好きとかそういうことじゃなく。
この方の姿勢に心を打たれて救われた人は相当数いるはずなんです。
特にそれは生真面目な性格でお笑いを志す人間であればあるほどに。
関西というのはその場その場の瞬発力が要求される、
いわばガチンコのアドリブ合戦なんだろうと思うんですが。
バッファロー吾郎さんは竹若さんも木村さんも真面目な方で、
しっかりと組んだ世界の中で遊ぶことが好きな方々だとお見受けします。
それゆえにバッファロー吾郎の性質を理解している周囲がなければ、
どうしても空回り感というか、処理できないままにされてしまう。
しかし熱量のあるところには、
覚悟と信念を持ってお笑いに挑んでいく姿勢。
その熱さとキャラクター性のギャップであったり、
ツボを心得た言葉選びや空気の運び、
ひっくり返るような浅い笑い。その深さ。
そして弄られて本領を発揮する、
芸人さんたちの中にいてこそ輝く芸人さん。
ちゃんとお笑いのことを考えているからこそ面白くなる。
俺はこの人が大好きで尊敬してるんです。
藤田和日郎
この人のマンガで何度泣いたか分からない。
子供が読む漫画誌で一線で全力で描きつづける。
「子供のために」とおそらくは
「自分のために」がマンガで同居できている方なのだと思う。
伏線や構成が見事だとかギミックがすごいだとか、
褒めるところは沢山あるんだと思うんですけど。
そこはもっとよく見ておられる方がいると思うので。
俺はこの方は熱さと空虚が同居している方なんじゃないかなと。
ある種の諦観のようなものがあって、
しかしそこに自分の心の雫を一滴おとしたときに、
グニャグニャにかき乱したくなってしまう衝動と、
そのかき乱してしまう
己の精神性を誠意を持って作品にしているというか。
内省的な衝動をエンターテイメントにするために、
どのようなアプローチで形にするのか。
キャラクターに生命が宿っていることを疑いもしないような、
切迫性を持ってマンガに取り組んでいる気がします。
心や実態のないものが何かを獲得していったり、
自分は一体なんなのか?という疑問に対して、
自己完結しないようにキャラクターの力を借りているような。
すべてのお話が終わったときに、
やっとそのお話が自分に残すものの意味を知るような気分。
それを子供が手に取れる少年誌でやり続けることは凄いことだと思う。
といったあたりで、今回は終わりたいと思います。
長々とお付き合い頂いてありがとうございました。
もし興味を持たれた方は是非。
※あくまで、かごめ歌に対する個人的な考察です。
かごめ かごめ かごのなかのとりはいついつ出やる
加護女 囲め 籠の中の鳥は、
と書けば、
天岩戸隠れのようにも思える。
かごめかごめの遊び自体も、
儀式としてグルグルとまわって
アマテラスの気をひこうとしている様子に思える。
夜明けの晩に
夜明けの晩、明けの明星のことだろうか?
明けの明星、宵の明星、暁の明星、なんだって構わない。
金星はVenus。
女神の星、象徴する文字は「♀」。
金星の地名には女神の名前が沢山ある。
ルシファーの象徴でもある。
ルシファーは天使でありながら魔王性を持つ。
女神の星から堕天したのだとすれば、
荒ぶる魂がゆえにアマテラスに隠れられた
スサノオにも似ているかな。
鶴と亀がすべった
童話にならえば種族の違いによる、
鶴の恩返しや浦島太郎での亀の恩返しの結果、
価値観の相違による悲劇が訪れ、
恩を返そうと頑張ったが種族の違いにより狙いをはずし、すべった。
もしくは鶴と亀のように
知的に変化したものを籠目紋(六芒星)で封印したか?
囲みの中にいるのは鬼とされるものねぇ。
うしろの正面、だあれ?
自分の過去を振り返るのを怖がっていては前に進めない。
さあ、過去と向き合って前を向こうということかな。
間違ったとしても、それを間違いにしてはいけない。
その為に、うしろの正面は誰かと問うているのではないか。
本当は見えているはずのものを見ないふりをしているのではないか。
たぶんそれじゃあ前には進めないんだよね。
隠れてないで出ておいでと言えないのは、
どちらが間違いを犯したのかわからないから。
男と女だってもともとは違う生命かもしれないよね。
けれど子供を産める。
男と女の混血は鬼子かのう、悪魔かのう。
大切なのは互いを理解しようとする心だけだと思うんだけど。
子供の頃、鬼になるといつだって楽しくも寂しい気持ちだった。
たぶんお釈迦さんはね。
僕らなんかの説法にだって、うんうん、そうかそうか。
などと言いながら答えて、
もう少し頑張れるように背中を押してくれると思うんだ。
だから釈迦に説法できるような人間になりたいんだ。
だって素敵な人なら、
その素敵な人と素敵なお話をしたいじゃないか。
そのお話自体に何の意味もなくたって。
たぶんそれでいいんだ。
その為には自分もそんなような人であろうと努力しなくてはね。
後悔して、前を向いて、歩いて、考えて、考えるのやめて。
はなして、知って、知ろうとして、知って、知らないことを知って。
言葉の無意味さを言葉でといて。
その言葉が残ることの意味性が生まれて。
宗教とは拠り所ではなく、
生き難い世の中を生きていく為の生き方の手本であって
誰しもを平等に救ったり願いを叶えるようなもんじゃない。
(と思う。)
ましてや拝金主義になりさがっていいようなもんでもない。
(と思う。切実に。)
あやかろうとして手を伸ばしたり、
その癖、自分の身の回りの世話も自分ではできなかったり。
いったい誰にどんなことを助けてもらおうとしているの?
おっとっと釈迦に説法だったかな。
さ、これってどんなお話でしたでしょうか。
まあ今年は兎に角 頑張ります。
白い炎と残虐の終り
せわしない迷路
月の照らす牢獄のとばり
重い槍をどう使おう
辛辣な棘は
もうすでに星を貫いていて
残ったのは音だけだった
生物を食べるということに対して、
本気で向き合うと感謝以外の感情は湧き上がらない。
生命の想い出を人という身体をつかって循環させ、
「ありがとうございます」と思う。
草食動物は植物を、肉食動物は肉を。
雑食の動物は食物を。
捕食することが日常であり循環のサイクルだ。
しかし人は、それらを頂くときに、
手を合わせ、思いを馳せ、感謝の心を持てるし、
言葉にもすることができる。
この世界が循環の中にあるのであれば、
吾々人間の役割は愚かさを嘆くよりは、
この満ち溢れた楽園に感謝をする以外にないのではないか。
美味しいご飯。
暖かいお風呂。
美しい風景。
笑い合える友人。
支えあう仲間や家族。
御先祖様やありとあらゆる全て。
これらは最初から当たり前にあったものじゃないし、
今の世界でもそれは夢のまた夢だという現実があるらしい。
知ったような口をきくつもりもないが、
不満や足りないから感謝の心を忘れてしまうくらいなら、
最初から求めすぎなければいい。
いま自分が享受できいる幸せを見つけることこそが、
心の冒険であり探検なんだろう。
食卓には全てがある。
食べるために
殺してしまったことに対する免罪符を得たい訳じゃない。
だが、せめて食べるために殺してしまったのなら、
誠心誠意、その生命に対して尽くしてこそなんだろうと思う。
例えば俺の前世がライオンだったとして、
多くの生命を蹂躙し食べて、死ぬ間際に。
その生命の記憶にたいして感謝の心を表したいと思ったとき、
その魂は人というそのような役割をもった存在へと転生するのではないか。
めぐりめぐって、感謝の気持ちを伝えるために生まれてきた生命。
それが人間なのかもしれないなと思う。
菜食主義でもなんでもかまわない。
しかし、そこに世界の記憶が宿っていると思えば、
俺はどんな食べ物にだって命はあるとしか思えないんです。
この家畜はいいけど、あれはダメとか、植物は脳がないから大丈夫とか。
あれやこれやと言い訳をつけたり、
そこに隔たりを作ったり、これは食べていい、これは食べちゃだめ、
なんてことを人が決めていいようなことだとは思えない。
食べられるものは食べられるし、
食べるのならば、たとえどんな食べ物であろうと全身全霊で感謝したい。
その為に、精一杯、生命と向い合って食べ物を提供する人に出会うと、
これまでの自分の人生観を改めさせられます。
真っ当に生きようと努力すれば、
真っ当に生きている人と出会う機会に恵まれる。
家の掃除も自分の部屋からじゃなく、
水回りやキッチンといった、いわゆる自らの周りの根源。
根本である源流を改善しなければいけない。
家の近所の川が汚いので上流を探して、
ゴミ拾いやらちょっとずつできることやってみようかな。
日曜日に今後の目標を決めるといい気がしますね。
太陽の指針へむかって、
今、必生のサンアタック!
波乱万丈でいいじゃない!
透 明
の
ゆ ら ぎ
体 温 の
あ え ぎ
湯
気のゆ い
くえ は ど な
こか ゃ
じ
き っ
と
懐
か
し
い
場
所
へ
と
俺にとって音楽の本懐は言葉だけでは伝えきれない「何か」を、
心へと届けることだと思っているわけで。
「何か」のなかの一つは「面白い」ってことだと思うんです。
面白いっていう言葉は、
目の前がパっと明るくなるような瞬間の感覚の言語化らしく。
それは閃きや気付きってことだと思います。
曲を作ってから気付かされることだってあるし、
把握しきれないからこそ膨らむし広がっていく力がある。
もちろん作り手として、その「何か」が何であるのかを、
しっかり把握しようとする必要性はあるかもしれませんが、
根本は「なにがなんだかよくわからない」という所で。
人間はいつだってそんなところにいる。
だからこそ言葉とは真剣に向かい合わなければいけない。
言葉の力を信じて、言葉だけで伝えきれないことを、
なんとかして言葉にしてやろうとする。
自分の中から外から。
その言葉に出来ないものを漠然と捉えるように手を伸ばす。
その瞬間にもう何かにすでに包み込まれていたことに気付くような。
俺はたぶんいつだって
そんなものを形らしきものにしようとしている。
眼に見えないからって無い物だと切り捨てたくない。
切り捨てられてしまった者たちの想いを代弁させてもらっている。
音楽とはきっと見える物しか見ようとしない者たちへのメッセージなんだ。
言葉もまたそうであるはずだ。
今日は免許更新に行ってきます。
お部屋のお片づけというか模様替えも、
今月中にはなんとかなりそうな感じになって来ました。
裁断機を買っても裁断する勇気がでずに、
まだほとんどデータ化できていない自分もいるので、
少しずつやっていきたいと思います。
iPadみたいな端末持ってないってのも大きな理由ですね。
まだ購入に踏み切る頃合いじゃない気がして、
少し様子を伺っています。
身体の歪みも気になるし、
免許の更新終わったら整骨院に行ってこようかなぁ。
アナログ時計とデジタル時計の時間がどんどんズレていくし、
あたらしいアナログ時計でも買おうかのう。
たしか小学校か中学校の頃に縁日でとった奴だったような気がする。
あれやこれやと課題が出てくる出てくる。
全部いっぺんに完璧にこなそうとするから不備がでる。
どれもこれも少しずつ、
出来る範囲だけちょっとずつ進めていくと、
どれもこれも少しずつ改善されていく。
当たり前のことなんでしょうけど、
とかく忘れやすいことでもある気がします。
嬉しいことといえば苔玉がぐんぐん成長してくれてます。
苔玉と愛犬のおかげでなんとか日々を楽しくおくれているかな。
さ、風呂はいるべ。
俺もしかすっと自覚できてないだけで、
恋愛にたいしてコンプレックスがあるのかもしれん。
ということに27歳にして気がついたのか…
先日、風呂で友人とそんな話になって、
自分から告白した相手には壊滅的にふられているということを、
口に出して言った瞬間くらいから。
あれ?
俺が恋人さがそうとしない理由ってもしかして、
対人恐怖症とかにあるんじゃなくて、
その辺にあるんじゃないだろうなと思ってからは、
それが気になって仕方なくなってきた。
俺って恋愛にトラウマとかあんのかな。
上手く女性を好きなることができない理由が、
俺が心を閉ざしてるところにあるんだとしたら、
これはなんとかして克服しないとまずいかもしれん。
少なくとも恋愛がなくても生活は回るし、
今の我が家の状況でスマートな恋愛ができるとも思わないが、
それにしてもビビって逃げていることに、
自分自身が気づかないフリをしているだけだとしたら、
なんというか恥ずかしいなと思ったんですよね。
対人恐怖症は対人恐怖症としてあって、
それは相手が男性だろうが女声だろうが、
ド緊張しちゃんですけども。
それとは別に恋愛に臆病になってるんなら、
なんかちょっとマズイかもしれないなあと。
人生経験上、大部分を占めるはずの恋愛。
そこにのめり込み過ぎなかったから見えた部分というのも、
確かに自分自身を振り返ると少なくはなかったと思うんですが。
なるようにしかならないんですが、
自分が素敵だなと思った相手には
素直に気持ちを表わせる人間でありたい。
そういう努力、怠ってきたのかもしれないなあと、
色んなことを持ち帰って考えたときに、
深層意識にあるそういうものが、
良きにつけ悪しきにつけ行動を決定づけているのかもしれない。
今年は愛多き年にしてみたいな。
さ、一月もすでに後半ですが、
例年に比べるとかなり濃密な一年になりそうな予感がします。
まあ俺一人では無理ですし色んな人の協力があってのことですが。
大晦日に今年のキーワードにしたい単語を書いておいた。
勤勉、実直、誠意、体現、進歩。
そうありたいと思って行動すると、
確かにそっちに向かう力が得られることがわかった。
とってもありがたいことに。
そして、これらを内包する抱負。
うーん。。。
「心穏やかに、飛ばす」
ってところでしょうか。
色々と飛ばしたいと思います。
下ネタじゃありませんってw
そういや最近低俗な記事を書いてませんでしたが、
27にもなると逆にカキたくなってきますよね。
いや下ネタですが。
パパがバーバのあたまにバーバのパンツを投げつけた。
うーん、笑い話にもなりゃせんぞ。
親父は俺が幼い子供のままだったら、
その姿を見せてどんな教育をするつもりなんだろう。
さすがに「なにしとんねん!!」と怒鳴りつけてしまった。
いや設定や空気が違えばコントですがねw
もう孝行する母のいない身としては、
そういう親子の姿を見るのは切ない。
50を過ぎても子供は子供のままだ。
祖母は祖母で親父のことを子供のように扱わない。
腫れ物に触るように対応する。
おそらく原因は親父と祖母の根本的な関係性にあり、
それは俺が口を出せるような問題じゃない。
だから俺は俺に言えることしか親父や祖母には言えないし、
見せることができない。
自分の母親が老いてボケて、
おちぶれたように見える姿は辛いのかもしれない、
しかしそれで80すぎた母親に当り散らす親父を見る
自分の息子のことも考えることができなくなるものだろうか。
まあもともと俺の立場にたって物事を考えてくれる人じゃないけどさ。
愛情はたっぷりそそいでもらったけど、
それは親父なりの愛情だったし俺も感謝はしてるけど変だった。
たぶん親父が祖母から注いでもらった愛情も変だったんだろう。
だから今になっても甘えたい気持ちがあるのかもしれないが、
甘え方を間違っちゃいけないと思う。
みんな自分のことしか考えていない。
なんでこうなってしまうんだろう。
みんなでなかよくすることが難しいのはどういう理由だろうか。
自分のことしか考えてないくせに、
他人のことにばかり口を出す。
大なり小なり思い当たるフシはあるんだけどね。
誰かを怒鳴りつけて
本当に暖かい何かを得たことがあったのだろうか。
また親父が怒鳴り散らすのを聴きたくないので、
祖母と親父を合わせないように、晩ご飯を作って食べさせた。
このまま家のことを俺が全部やるようになって、
全部できるようになって俺は成長できるかもしれない。
だけど親父と祖母はずっと
そんな親子らしくない関係のままで死んでいくのだろうか。
すっげぇ切ないっす。
これからはマンガのレビューとかは、
Circle Mountain Cycleっていう自分の好きなものを紹介する、
Amazonの簡易ネットショップでやっていこうかと思っています。
ただ紹介するだけじゃなくてなるべくコメントを書いていくつもりです。
マーケットプレイスに出品したものなんかも並べていけたらいいなと。
この先どれだけのものを出品するかわかりませんし、
長い記事を書きたくなったらまとめてブログのほうで書くと思いますが。
レビューをそっちでやる理由は効率的なのと、
なんとなく自分のショップでポップ書いてるって感じがして好きです。
ショップ名はトミノスキーがバレてしまうかもしれませんが気にしないでw
良かったと感じた物や好きなものを紹介したいだけなんで、
そっちで見るだけ見て頭に入れて帰っていただいて、
直接地元のお店なんかで買っていただいてオッケーです。
むしろ地元にお金が廻るほうが良いんじゃないかなとか。
Amazonの莫大な利益からちょっとおこぼれ頂いても、
どうせまた俺はAmazonでの買い物に使ってしまうだけでしょうし。
あはは。
あと写真とかも出かけたときに結構とってるんですが、
アップしたりとか紹介の手間を考えるとブログでってのは面倒だったんで、
Twitterとも連動しつつ
twitpicを使ってみることにしやした。
よければ見てね。
右側のブログパーツにするのは以下のサイト様を参考にさせていただきました。
助かりました、ありがとうございます。
「
Twitpicのサムネイルをブログとかに貼り付ける研究。」
ロトサプトフンネルの書
第ジュウジ章 -ゴドゾーメロイとアギラの邂逅- カモツレヒア篇より
カモツレヒアはニフルのミタマ運ぶ想い出の箱。
目覚めたゴドゾーメロイはシンパルにラブンドレーベンし、
イリグアントと成ったが、
そこはかつてゴドゾーメロイが望んだ世界とは程遠い場所になってしまった。
己自身のせいで事象は拡散し、
歪みに歪みに世界は笑顔すら忘れ去ってしまった。
ならばイリグアントの望む世界は氷の世界の向こうにあふれる笑顔だった。
レプトザウハリの実は爆ぜて飛び散って星々となり、
事象の歪みを時間と空間と呼ぶことでセイレツさせた。
ゆえにイリグアントたる己は呼吸を閉ざした世界に根ざす。
ネフェロスの民にはもう間違いを間違いにさせぬよう、
存在を割ることにより塔の崩壊とし、
つねに答えを問う世界に分身させ己を知らしめようとした。
それゆえに知性は薄くポツポツと宇宙全体に散らばった。
争いや諍いは数多く起こったが、
それでもアギラの意志は残った。
子孫は殺しあいながらも愛しあい憎みあい感情をぶつけあって、
互いを知って、よくお会いしますねなどと声をかけあい。
六所を回ったという。
歪んだ事象の整列の果て、
その、さらなる未来にシュデローグの魂を転移させ
ポグザミ衆を弔う役割を与えることとした。
シンパルはイリグアントでありゴドゾーメロイである。
イリグアントとなったことでゴドゾーメロイは闇より転じた。
転じて天児た。
しかしシュデローグは幾度も間違い、
イクスハプラオのオミエロトノスを探し出しては、
アギランゴドレゾブフテーベルシュタンテュを手にかけた。
母なるアギランゴドレゾブフテーベルシュタンテュを殺めては、
それを悲しみ哀れむオミエロトノスの嘆きもむなしく、
イクスハプラオの地へ突きたてられてしまう。
レプトザウハリの実はとうに爆ぜて空に散っているというに。
世界を壊し、燃やし尽くし、
それでもゴドゾーメロイとの邂逅を信じ探しては殺した。
イリグアントは氷の諸元に閉ざされ、
アギランゴドレブフテーベルシュタンテュは
その氷をすこしずつ炎で溶かし、
時間と空間をすこしずつすこしずつ広げていった。
子孫たちは悲しくも争ったがすこしずつケンメイに生きた。
繰り返す七つ周期の世界をクリエイトした者の名を、
仮にセブン観察者と呼ぶことにする。
会いたい心を合わせては殺し合わせては知り合わせ。
そうするうちに六所巡りはたった二歩で成ると、
台風の目の奇才に看破されてしまった。
洪水をおこす暇も許されず
セブン観察者はその身に落ちた影の意味を知った。
互いは引き寄せあうために出会ったのだと。
究極の世界は個々の絵の九重によって透明にいたると知った。
ネフェロスの民はその巨大さを失ったが、
卑小な存在であるがゆえに手を取り合う必要を知った。
ソムの酒は海となり、
ポグザミ衆はシンパルを祀り続けた。
トト王は死した後、己の過ちを知り、
イリグアントの住む世界をアギラの火によって、
世界に映し出し続けたという。
全てが溶け、アギラとゴドゾーメロイの出会いへと回帰する。
その邂逅によって全てが始まり、すべてが収束するかといえば、
それは分からないとしか言うことはできない。
交わった道が無限への交叉であることもあれば。
かつてのセブン観察者とヘブン観察者たちの、
平行線のうえをたどる平行線の上のような日々になることも。
ロトサプトフンネルは満腹になってしまって、
もう誰かから何かを奪うような気分になれなくなってしまった。
イリグアントはシュデローグを迎えに行こうと思っていた。
そうするとシュデローグが会いに来てくれた。
ゴドゾーメロイとシンパルはコルクエントし、
シュデローグは台風の目の鬼ニフルの残した歌を、
生涯讃え、愛し続けたのだという。
間違いを間違いとせぬよう。
人というのはどうしようもなく心の生き物で、
生き物というのはナマモノということで。
生きてたって腐ることはある。
ただありがたいことに、
人間は心が腐っても肉体が生きていれば、
何度もやりなおすことができる。
これはこの上のない輪廻性だと思う。
いつだって自分の愚かさに辟易している。
たぶん今の人生は、
俺が人生のどっかで取り返しの付かない間違いを犯してしまって、
それでもまだこの世界で生きることを望んだ心が、
やり直すチャンスをくれたんだろうと思う。
たぶん本当は人生のどこが間違ってしまったのかを俺は知っている。
そこでどういう結末が訪れる可能性があったのかも知っている。
幾度かそういう機会に立ち会うことがあったのだろう。
いや、幾度も。
それでも今、ここに自分が生きているのは、
自分の力でもなんでもない。
ただ望んだだけ、求めただけだ。
空っぽが。
こんなにも満ち溢れた世界へ来て何をするつもりだったのか。
美しいと。
ありがとうと。
ごめんなさいと。
そんなことを言うために、
たぶん帰ってきたんだろう。
自分が何度も腐敗して死んできたとして、
これからも腐敗してしまうかもしれないことを恐れて、
何もしないとしたら、俺は何のためにやり直しを望んだのだ。
ゲームのように間違えて繰り返す。
しかし恐らく代償は要求されていたのだろう。
自らのやり直しの為に、他を犠牲にすることで。
だとしたら俺はなんという底知れぬ愚か者なんだろうか。
自覚なく人身御供を。
腐っている。
本当に腐っている。
だが悲観するものか。
悲観などしてやるものか。
謳歌してやる。
笑ってやる。
つらぬいてやる。
もう次に間違えたら、なんて言葉は使わない。
もう間違わない、もうやり直しはない。
間違ってしまったらおしまいだ。
最後の最後。
これが本当の最後。
間違いは絶対に許されない。
真っ当を全うせよと言葉は言うておる。
それは誰かに対しても
己に対しても同じだけの真っ当さが要求される。
バランスを失うと天秤は一気に傾く。
すると、どうだろう宇宙は歪む。
平らかな心である為には平らかな日常が必要だ。
その為には膨らみと窪みのどちらをも持って、
天秤に自己を溶かす必要がある。
十字架とはその象徴なんだろうと思う。
天秤というクロスをまとい両手を天と地へ。
対極を太極へと。
秤にかけるのは命でも世界でもない。
ただ空の重さだけ。
なのに傾くのは心のせい。
いつも世界の理由はそこにしかない。
事象の配列が歪むほどの愚かさ。
それを心の旅をして、思い出していって。
しかしそれでもなおマトモであることを願う、祈る。
そうある為に、そうできるように生きる。
俺自身が世界の供物であろうが構うものか。
俺がこれまで、
もしそのようなものを求めてしまっていたとしたら、
輪廻など俺で絶ち切ってやる。
もう充分だ、お断りだ。
再会を果たす為にやり直しを望んで、
誰かを捧げるような世界は嫌だ。
届くに決まっている。
この世界からでも。
深い愛の底にいてなお、
必死にもがいている様を誰に見せるのか。
笑って歌って、無理でも笑って。
俺が言いたい大切は以下の動画にほとんどこもっていると思います。
僕も帰ろ、お家へ帰ろう、
出ん、出ん、伝繰り返って、
倍byeばい。
僕らが居る場所、
帰る場所はどこなんでしょうか。
今日は両親が俺を産んでくれた日なので、
自分にできる範囲だが、家を掃除して、
母や曾祖母や二人の祖父や、
会うことはできなかったが若くしてこの世を去った父の兄や、
ご先祖の仏さんに手を合わせる。
さきほど母の実家から電話がかかってきておめでとうを言ってもらえた。
こちらこそありがとうございますだ。
母を産んでくれて本当にありがとう。
おかげで今おれは生きている。
その祖母が入院したそうだが、思ったほど悪くないそうだ。
うちの親父と状況が良く似てるが本当によかった。
3月か4月くらいまでには会いに行きたい。
友達も一緒に遊びにきてねと言ってくれた。
よし!!!
まずは俺の、俺たちの証を立てる。
CD作るぞ!!
そして持って行くぞ、届けるぞ佐賀へ。
己が産まれた地に立ち返る為に。
「頑張ってね」
自分たちも大変だろうに労る心をたまわった。
なんとも慈悲深い声だった。
頑張ったよと言う為に、俺は何ができる?
今日できること。
明日できること。
ずっとやること。
努力が大切なのではなくて、
努力していく過程には
自分に必要なピースが落ちているから、
努力は重要なんだろう。
何か身につけなければ努力がムダになってしまう。
そう思うから目を凝らす。
だから何か見つかる、身につく。
必ず報われる努力なんてもんはないかもしれないけど、
報いなんてもんを要求しなければ
努力は全部自分の為になってることには気付ける。
それが結果的に誰かの為になることだってあるかもしれない。
奢ること無く自分の為を思えば、
誰かをないがしろにはできなくなる。
今の自分を作ってくれたのは、
自分以外の全てだとわかるから。
憎むべき対象ですら
「べき」ものとして自分の為に存在している。
そこから学べることはそこはかとなく大きく深い。
「人を殺したい 衝動を抑えるには」
というキーワードで偶然このブログにたどり着いた方がいたようだ。
そんな記事を書いた記憶はないので、
ワードが偶然一致して来てくれたのだと思います。
もう一度来てくれるかどうかわかりませんが、
いちおう、それについても書いてみたいと思います。
そのキーワードで検索することができたなら、
きっと人を殺したくないと思っているんでしょう。
それなら大丈夫です。
きっと大丈夫。
対象の人物と距離をおくか、
自分の心のレイアウトをなるべく、
自分自身が心地良いようにコントロールする方法について、
少~し気楽に考えるだけで、ちょっとだけマシになると思います。
自分の限界は本当の自分が一番良く知っています。
たぶん限界を迎えるまでは人間は大丈夫なようにできていて、
そして限界を超えたら、
もう少しだけ強くなることができるようにもなっている。
ご褒美ですかね。
人を殺したいと思ってしまうことは、
きっと多くの人が実感をもっていることでしょう。
実行に移すか移さないか、
移すタイプの人間は自分を律しようとなどせず、
検索などすることなく、本能のままにやるでしょう。
心と向き合ったんなら、結果はもうすぐと信じて、
腹に気合いいれて、頑張っていくしかないんすよね。
ま、みなさん一緒に楽しくやりましょう。
追記:どうやら以前に↓こんな記事を書いてましたね僕。
インスタント殺人同じ人間の言うことですから、まあ同じようなことが書いてありますw
音楽が儲からないんだって。
じゃあようやく、やりがいのある時代が来たんだね。
儲けようと思って音楽はじめてるんなら、
それが理由で人の心に届かないんじゃねーの!!
多くの人に聴いてもらいたいから売れて欲しいと思うのは健全。
儲からないからやる意味のない音楽なら、
最初からなくていい。
俺はそう思う。
辞めざるを得ない状況というのはあるだろうし、
実際の現場では
お金が先で動いている人なんて数えるほどしかいないだろうと思う。
もしそうじゃないなら、
音楽を腐らせたのはそんな心根に違いないと言っておく。
音楽やる上でお金はとっても重要で必要。
そういう意味では俺もお金をないがしろにしないようにしたい。
報酬としていただいたお金や、
「これで何かを買いなさい」と渡して貰ったお金は、
とってもありがたいと思う。
それは証明であったり、そこに心がこもっていたりするから。
使い方にも気を使おうと考えられるなら、もっと良いはず。
音楽それ自体は存在しているようで実は目には見えない。
CDという形になっても、
音という振動は心に届けるためのもの。
でなければ音は目に見えているはずだし、触れられるはず。
本当は眼に見えているし、包まれているのだろうけど。
そういう風になっているのなら音楽の理由は、
お金儲けの為のツールじゃないことは明らかじゃないか。
心の伴わないお金に価値はない。
それと同じで心の伴わない音楽にも価値はない。
だから、たぶんそんなお金なんて抱え込んでたら、
音が鳴らなくなる。
素朴な琴のように、明るさの中におけば。
秋の美しさに耐えかねて鳴り出してしまう。
そんな自然な音楽をやりたい。
音楽の本質はそこにあるはずだ。
なら、それをやっていくだけだと思う。
とおく なりひびく おと を ききにいこう
ね いっしょに
さ いこうよ ね
ほら いっぽめだ
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皮膚呼吸というものがあることは広く知られていると思う。
例えばその皮膚呼吸ができない状態が長く続くと、
生命は呼吸ができなくなり死んでしまうだろう。
地球という星が一つの生命体であり、
我々もまたその惑星を構成する因子だとして。
吾々が生活するために必要な、
アスファルトというのは星の皮膚呼吸を遮っている。
それでは息が詰まるだろう。
世の中は息苦しくは、
生き苦しくはなかっただろうか。
古来より、人は呼吸法をとても大切にしてきた。
それは生命のすべてが生きているからであり、
息をしなければ死んでいると見なされるという
そんな世界の上にいるからじゃないのかな。
世界各国で地面が陥没するという事象が相次いでいる。
地球だって生きているはずだ。
呼吸をするために必死なだけなのかもしれない。
2011年になる少し前くらいから、
身体が楽になって内外からのエネルギーを感じるようになった。
このフルサトは少しは楽になってくれたのだろうか。
陰謀だ終末論だなんだとおためごかしを言うのは結構だが、
自分たちが住みやすい世界だけを考え、
他から搾取し、蹂躙することを当然とする世界。
木々は必死に幹を伸ばし、葉を広げ、根を張って。
息苦しくも耐え難きを耐え、息も絶え絶えになってなお。
同じ生命を持つ息とし生けるものたちと共に、
生きていく為に頑張ってくれているのだとしたら。
吾々人間はなんと愚かなのだろうか。
知性による恩恵を自分たちのみが享受できると思い上がり、
知的生命体は人間以外にはいないと宣う。
己より高い知性を持つ存在のことを、
吾々程度が認識できるものか。
そんな思い上がりがこれまで何度あやまちを犯してきたのか。
他者を蛮族と呼び、思い込み、殺し合い。
分かり合うための心と言葉を持っているにも関わらず、
何の努力もせず、信じようともせず、期待もせず。
ただただ自分のことだけを考えて閉じる。
過ぎたることは過去のこと。
今がよければそれでよしという考えは、
世界すべてを巻き込む自殺行為としか思えない。
自分が死んだら世界はおしまい。
そんなはずはない。
自分の子どもがいなければ、
その先の世界に対しての責任感は放棄してしまっていいの?
今自分がこの世界に産まれてこられた奇跡を思わないのか。
それは吾よしの精神だけでなく、
より良い未来を望んでバトンを託しつづける精神を
育んでくださった先達がおられたお陰のはずだ。
過去も未来も同じことだ。
必要なのは今の自分が、過去と未来を想い。
それらを繋ぐために一体どんなことができるのか。
もし生まれ変わったならどんな世界だったらいいなと思うのか。
それを実践する以外に、人間程度の生物にできることはない。
自分たちが過ごしやすくするために不自然な世界を作っておいて、
その世界から歪みを見つけて槍玉にあげて責め立てる。
頭おかしいんじゃないか。
まず自分の心に問う。
これは俺が悪いのか?
自分が嫌だと思ったことから目を背けて、
放っておいていること。
別に大きなことじゃなくていい。
身の回りにある、そういう小さな、しかし自分にとっては切実な。
そういうものをないがしろにしてしまっていてはいないか。
俺はある。
ごめんなさい。
こんな世界の一端を担ってしまってごめんなさい。
それでもまだ呼吸は続いている。
ありがとうございます。
望みはある。
希望とは吾々が見出し、
共に歩む存在たちへと思いを馳せれば。
きっと。
そう信じて、自分に出来ることを精一杯。
隆起する大地に命を感じないか。
たゆたう海に源を感じないか。
景色を揺らす風に何も感じないか。
姿形の違う多くの生命たちから学ぶことはないか。
死を実感することは難しい。
しかし生きているということを実感するための教材は山ほどある。
自分がやられて嫌なことはするな。
そんな言葉を大人が子供に言っているのを何度も見てきた。
大人は本当にそれを実践できているだろうか。
俺はそれを本当に実践できているだろうか。
胸をはって子供の頃の自分にこれからの未来を渡せるのだろうか。
んで、なんで俺はここ最近、
こんな恥ずい記事ばっかり書いてんでしょうね?
たぶん振り返れば目を背けたくなるほどにダサい、
自分の恥を出しとかないと心の声が聞こえないから。
心の外にあふれる声が聞こえないから。
死と花の声。
外の声、人の声。
先ほど車の中で一人で突然、爆発したように号泣しました。
青春の蹉跌のテーマPART3が車の中で流れていました。
エディのピアノが染みます。
壮絶な言葉。
失ってしまっても、いつだって始まっている。
間違ってしまっても、笑ってくれる。
きこえなくても、はなしかけてくれている。
明在系と暗在系。
影はいつだって一緒に立っている。
何をもって影とするか。
おかげさまで、僕は陽の光に彩られた影人間。
自分以外の見えている影は
己が受け止めきれなかった光のすべて。
自身以外のすべて、すなわち自身を縁取る全て。
見えないものは音色で伝えることができるはずだ。
例えば、僕がすでに死んでしまっている
幽霊(スタンド)のような存在だとして、
この言葉が誰かに届いているとしたなら。
進んでいくだけだ、生きているようにしよう。
聴こえてるはずの声を聴こえないようにしないようにしよう。
なんと透明な夜空っ!
星が満天に、夜の隙間から覗き込んでいる。
まるで光の釣り糸で地球が夜の天秤から落ちぬようにと。
この惑星を支えてくれているようだ。
見ていることに反応するように、
流れ星が一つ、
カペラとアルデバランの間を滑るように流れた気がする。
今日はレコーディング。
俺は上手く行きませんでしたがその他の部分はよかった。
自分が自分の曲だと思っていたものに対して、
自分自身が一番ないがしろにしていたのかもしれない。
まだまだ未熟さが今後のモチベーションへとつながるのだから、
それはむしろ悔しよりは、楽しめるようになりたいと思う。
僕は、小学生の頃は不登校児で肥満児でガキ大将気取りで、
そのくせ打たれ弱くてコンプレックスが沢山あって。
喧嘩っ早いというかキレやすい不安定な性格だったと思います。
それでも家に友達を沢山呼ぶのが大好きでした。
両親が共働きだったというのもあって、寂しかったんでしょうかね。
一杯遊びに来てくれる友達がいたといえば聴こえはいいかもしれませんが、
結局は僕の家は親もいないし、結構好きにやれる場所だったんで、
都合のいいたまり場のようになっていました。
中学校くらいから、
女の子から露骨に嫌悪感を表されるようになりました。
今思うと、その頃の自分はすごくヒステリックだったように思います。
家庭の事情とか、周囲の状況とか、
言い訳を探せば沢山あるのかもしれません。
けれど恐らく、原因はやはり僕です。
斬りつけられたら斬り返す。
そのやり方しか知らないのが幼いということで、
斬りつけられないように自分をどうすべきか。
という方に頭を向けられないんです。
自分の価値観を否定したくないから。
それに幼いというのは自分の獣性を押さえ込めない、
理性に乏しい時代です。
まだ言葉にできない多くのフラストレーションが、
知らないうちに自分の中に蓄積されていき、
最終的にそれが表層的に現れます。
けれど、そんな中学時代に多くの出会いがありました。
男の友人たちは太っていようが構わず僕と接してくれましたし、
僕自身、太っているということに対する
コンプレックスはあまりなかったように思います。
小学校くらいまでは持っていたかもしれませんが。
知らず知らずに溜まったストレスを解き放つすべを知らず。
周囲にぶつける、調子にのる。
そんなことをするといつも自分に
何かが跳ね返ってきていたように思います。
うちの中学校は少し悪めの学校だったので、
ガキ大将時代を経てきた僕が最初に頭を打ったのはここです。
僕達の育った地域とは「悪い」という概念が違う奴らが沢山いました。
それでも最初に僕をあだ名で読んでくれたのは、
そんな悪いとされる奴らの中の一人だったし。
その後も僕と仲良くなっていったのは、
どちらかといえば素行がよろしくないとされる奴が多かったように思います。
けれど、みんなで一緒になって悪さをしたようなことはなくて、
ただ一緒に楽しむことが好きな関係を作ることができた。
それは不良だけじゃなく俺のような半ばオタクや、
音楽好きの奴、スポーツ好きの奴、色んなタイプの人間と知り合いました。
大切なのは彼らに僕を認めて貰えたことと、
僕が彼らを色眼鏡で見ずに認めることができたこと。
その両方がとても大切なことなんだと思うんです。
今はもう亡くなってしまった大切な友人の一人が、
彼女ができないと悩む昔の僕に言ってくれたことがあります。
「いつかマルのそのままを認めてくれる子はきっとおるで」
そんな言葉をかけてくれる優しい人でした。
心に刻みました。
みんなから認められていて人の心を掴んで離さない。
そういう人間だったと思います。
彼のその言葉があったから、僕はまず一歩、
相手に心を歩み寄らせるという本当の意味を知った気がします。
そして高校に入ると、また新しい友人たちに恵まれました。
O「そういう所なおさなあかんでマル」
と優しくたしなめてくれる友人がいました。
F「気ぃついてへんやろうけど、そういう所おもろいで自分」
そんな風に自分が気づかない所に気づいてくれる友人を得ました。
Y「今日はワルちゃんの日やな」
心のコントロールが苦手な俺が、
他者に対して毒性が強くなる時があることをネタにしてくれるツレがいました。
一日中パソコン選びに付き合ってくれて、
親身になってアドバイスしてくれるような友人も。
そしていつからか苦手になっていた女性との会話も、
少しずつ仲良くなっていく過程でできるようになっていきました。
自分を開くとは、自戒することで見えてくる門のこと。
このままの自分ではダメだ、どう変わろう?
自分はどんな人間を尊敬しているだろう?
そんなことを常日頃から考えて、自分の中に取り込んでいく。
意識的であろうが無意識的であろうが。
まだまだ対人恐怖症からは簡単に抜けだせそうにもありませんが。
それでもこのままでいいとは思わない。
門の向こうに何もなくても。
ひらけた空があれば、もうそれだけで充分だと。
そう思えるだけの穏やかな心になりたいと思う。
今の自分があるのは、
自分なんてもんが矮小で卑小だったからだと思っています。
両親や友人や大切な人たちが模範となり、
鑑となって示してくれた「何か」を汲み取り、
自らの血肉とする
自壊せぬよう。
自戒し自開するように心がけたいと思います。
自分に対して歩み寄ってくれていないもの、
自分が少し努力しなければ理解できないもの。
わからないこと、わからないもの。
そういうものに対して、
平気で「つまらない」とか「オワコンw」とか言ったりするのは、
少し性急過ぎるし、何かを発信しようとする心に対して失礼だと思う。
もちろん自分自身で判断を下すというのは大切なこと。
しかし、その判断を下すためには、
自分で打ち立てた証を持つ必要があるのじゃないか。
他人の意見に左右されたり、
誰かの評価を気にして意見を変えているようでは話にならない。
それどころか他人の尻馬に乗るだけで一人前気取り。
たとえお天道さんが許しても人がそれを許しちゃいけない。
自分がそれを許しちゃいけない。
誰かに対して話す言葉も、
自分に言い聞かせる言葉も。
差異のないよう心がけていきたい。
覚えていて欲しいのは、
自分が努力して理解しようとする行為は、
それ自体が何者にも代えがたい学習行為だ。
多くの場合学校教育とは、競争力を養う場であって、
基本的には口をあけてエサを掘り込んでもらっているだけの場所。
多くのことを考察するための素地さえできれば、
本来なら自らが学ぶべきことを決めるべきなのだろう。
もしくは、
その中から自分が学ぶべきことをどう取り込めるのか。
いや、というよりも子供は無意識にそれをやっているはずだ。
何故か?
でなければ生きて行くことはできないし、
協調性なんてものが養われていくはずがないから。
何をすべきかを決めかねているのなら、
今自分がそこで何ができるのかだけを考えればいいと思う。
俺はそうする以外には生きていくやりかたを知らないです。
人生を順風満帆に過ごさせるためのレールなんてこの世界にはない。
あなたの為だけにアジャストされた世界なんて、
どこを探したって見つかりはしないのと同じこと。
だからここで頑張るんだろう。
門をくぐるかどうかは己で決めてくれ。
お口の中にエサを入れてと鳴く鳥は
飛ぶこと忘れて求めるばかり
飛べるんだから飛ばなくてもいいよね
おいしいエサをちょうだいよ
ほらママ、僕においしいエサをちょうだいよ
かわいい我が子にエサを運んでは
抱えきれない余剰分、命を削って空を舞う
そしていつしか堕ちてしまう
腹をすかせて待つ鳥は、もう十分に飛べるのに
あなたはいったいどんな鳥?
わたしはどんな鳥だっただろう
空を
母を
誰かを見ているだけで飛べるつもりになっていた
この痛みにかけて
もう翼はいらない
ただひたすらに歩いてゆく鳥になる
そういえば昨日、
PC-Takeさんでパソコンを注文しました。
家の中の雰囲気をガラっと変えようと思いまして。
仕事部屋とプライベートルームを分けないと
なんか精神的におかしくなっちゃうので。
今使ってるパソコンは継続して使いつつって感じです。
もう久々のPC購入ですから、ちょっと奮発気味で。
噂のIntelの新型アーキテクチャSandy BridgeのCore i7-2600Kにして。
さらにマザーボードをP8P67 DELUXEにすることで、
SSD+HDDのHyperDuo環境を実現する構成にしてやりました。
うひょひょひょっ!作業能率が上がればいいなぁ。
CPU入荷の都合上、2~3週間くらいはかかるっぽいので、
それまでに家の中の模様替えを
終わらせておければ良いかなと思います。
それにしてもPC-Takeさんの対応は完璧だった。
これまでいくつかBTOでパソコンを購入してきましたが、
今のところ個人的にはPC-Takeさんの対応は見事です。
しかも新技術を実現するパーツなんかは、
自分で組むと謎の不具合が生じたり色々と大変なんですが、
パソコンのことをしっかり理解してる
スタッフの方(店長さん?)のようで、
これは、お任せしても大丈夫だろうという安心感を、
対応の端々から感じることができた。
パーツの選択肢が非常に多く、
多少パソコンの知識があれば自分にあった構成を考えやすく、
そうでない方の為に、店長おすすめの構成があったりと。
痒いところに手が届く親切なBTOショップといった感じ。
自分の店にプライド持っている感じも良いし。