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くそうクラシックって凄まじいじゃねえか!

大掃除してたのにUstream中継の
指揮者マゼール氏の
[ベートーヴェンは凄い!全交響曲連続演奏会2010]に釘付けになってしまう。
4番と3番を通しで聴いてまったく掃除が進まなかった。
時間なんて一瞬で過ぎてしまいますね。
クラシックの底力を見せていただきました。
安いクラシックのCDなんて聴いてたら一生わからなかった。

S席 35,000円 A席 28,000円 B席 21,000円のコンサートを自宅で
とにかく高画質、高音質、垂涎の演奏の品質で楽しめる。
しかも色んな人の反応を見ながら。
クラシックでそういう感覚を共有してるのって、
実際にやっておられる方ばかりで、
個人の趣味で聴いているだけだと、聴き方が偏るんで、
色んな反応を見ながらクラシックを聴くのは有意義ですねぇ。

途中でどなたかが地上波の終焉を感じたとつぶやいてましたが、
まさしく、こういうものがネットで波及していけば。
今の地上波には勝ち目がない。
視点を提供するという意味では多角的な意見が、
リアルタイムでやりとりされる文化的な映像となると。
テレビのような見せ方ではエンターテイメント性が強くなりすぎる。

コンサートの楽しみ方の新しい形の提案としては見事。

指揮、全体から伝わる気迫と集中力。
どれをとっても俺がこれまでに聴いてきたクラシックの演奏よりも心に来ました。

交響曲第4番をちゃんと聴いたのは初めてでしたが、
なぜ今まで知らなかったのかと後悔しました。

エロイカも当然いいですが、
4番から3番へという流れもあってか
4番の包みこむような優しくも辛辣な風合いを感じ、
エロイカへと向かう勢いのようなものはたまらないものがありました。

あんなエロイカを聴いたのも人生で初めてのことでしたねぇ。

はじめて友人に今すぐクラシックをUstで聴けと電話してしまった。
残念ながら見れる状況になかった彼は不幸であろうが。
大掃除がいっこうに進まない俺もまた幸せな不幸もんというやつで。

トイレに行けない地獄という天国を感じました。

さて、17:50から6番と5番がはじまる。
それまでにどれだけ片付けられるだろうか。。。

また音が鳴り出したら集中できなくなるんだろう
ガキの使いは録画で見るとして、
今日はベートーヴェンを観終えて
奥井亜紀たんの年越しUstreamに参加って感じかな。

動画が保存できないのが本当に残念。
いつかは生演奏を聴きに行こうと心に決めた瞬間でありました。

日本の伝統芸能も家元以外の歌舞伎とかはUstreamで配信したら、
改めて見直されるんじゃないかな。
物の見方を知っている人と一緒に楽しむというのは、
何よりも対象を好きになることができるチャンスかもしれない。

有無をいわさず、音楽のみで。
人間の心をあれほどに揺さぶることができるというのは、
クラシックの真骨頂なのだろう。
本来クラシックが持つポピュラリティというのはそこにある気がする。
いやはや感服いたしました。

モニターに向かって拍手をやめることができないほどだった。
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明日を想い全方位へ感謝を放射する。

なんというか結局ギリギリにならないと、
克服できない自分の怠惰さや自分の弱さを知った。
それが今年の俺の最大の収穫。

ギリギリでごめんなさいと号泣しまくって、
久方ぶりに金縛りにあった先日。
「それじゃあ行くね、バイバイ」
と寝ている俺の肩を誰かが叩いたよう気がした。

それ以降、嘘のように心も身体も軽い。

名残惜しそうな声だったように思う。
俺は聞こえていたはずの声を聞こえないふりをして
誰かを悲しませていたのだ。

なんと愚かか。
なんと情けない。
この痛みにかけて、まともであろう。

俺はバカだ。
すいません、ごめんなさい。
ほんとうにありがとう。

オンラインを活用

なんとなく個人的に最近はネットの活用方法が以前より広くなった。
たとえばPaypalなんかで海外の商品を手軽に買ってみたり。

今日はFreak Kitchenというバンドのグッズなんかを買ったりした。
日本のツアーグッズを買うより安価で購入できたりするので面白い。

他にも例えばお米!
今うちでは「河内さんちのお米(あきたこまち)」というお米を
ネットで取り寄せて買ってます。
いわゆる農家さんから直接買わせていただくわけなんですが、
値段は10㎏4,620円ほどでちょっと奮発して買うお米程度の価格。

地元で買えるお米の味に満足されている場合はいいんですが、
個人的には一度このお米を食べたら、
これまで食べてたお米に戻すのはちょっと考えられないっす。

他にももっとおいしいお米があるのかもしれないですが、
当面はこのお米を堪能してみたいと思います。

なんでも効率的に活用できるならそれに越したことはありませんですなぁ。

柚子胡椒と辛子明太子のおいしいのも取り寄せたいなぁ、にへへ。

大晦日になりけり

来年の抱負は来年になってからじっくり決めたいと思うのですが、
今年の抱負は「幸せの中に飛び込め」だった。

だが今年は決して幸せな一年とは言えなかった。
しかし不幸な一年では絶対になかった。
これまで信じてやってきたことが少しずつ形になってきたのだから。
でもそれが無ければ今年の俺は、もうボロボロのグズグズ。
最底辺のどん底野郎。
立ち直ることなど叶わぬほどに
おしまいに向かって行ったことだろう。

すべての原因は自分自身。
ゆえに誰のせいでもない。
けれど今ここにいるのは何かや誰かやすべてのおかげ。

自分の愚かさや弱さに気づくのは、いつもギリギリ。

ゆえに己の弱さと向きあう為に来年の目標になるようなキーワードは、
勤勉、実直、誠意、体現、進歩であろう。
これらを内包した抱負を見つけるまでには今しばらくの時間が必要。

いつか来るその時に備えた言葉。

吾々は割れ割れになった破片、
ゆえに二つ指でピースと唱え。
平和を目指す意志のことをピースと呼ぶ。

二本足で歩いて行く吾々が目指すのは陰陽和合。
清濁併せ呑む器量の獲得。
でなければこのような世界に生まれ落ちるものか。

それは一人では叶わぬ願い。

もともとは一つであったかもしれない。
あたかもそのように言葉は理と断りを突きつける。

吾々はもともと同じものから生まれ派生し
今に生きているとして。
それにもし理由があるとすれば、
吾々は互いが違うものであるということと、
同じものであるということの両方を学ぶために、
この世界に生きているのではないか。

誤解を恐れていてはいけない。
誤解(ごかい)と誤解(ごかい)をかけ合わせ、
互いが違うことを知ることでしか。
相互理解という永久(とわ)への道は開かれはしない。
このままでは永久への途次(とじ)は閉じてしまう。

理解とは。
歩み寄るとはそういうことであるはずで。
理解出来ないもの、分からないものに対し、
臆病になるのも生物としては当然のことかもしれない。
しかしそこで停止してしまっては未来はない。

未知(みち)の先にこそ道は開けると思う。
既知(きち)の物は己を支える土台、基地となる。

基地の中にいれば安全かもしれないが、
静止したように見えるその世界の外には
未知のものが満ち満ちている。

未熟で何も知らぬ素人(しろうと)である吾々が、
何も知ろうとせず苦労の途を退き玄人(くろうと)を評価する。
だが玄人もまた苦労の戸を叩いた苦労の徒。
素人であった心を忘れれば知ろうとする心を忘れる。

なんともよく出来た皮肉だ。
だからこそ人は自戒し、少しでもマシであろうとする。

卑小な存在だからこそ飛翔を望む。
翼を持たぬからこそ、空を見上げ、地に足をつけ、
終わることのない旅路を希望と共に進める。

その営みこそ永久に続く不老不死の妙法、
己が死してなお、そのあとに残る世界が良き場所であって欲しいと願う。
それこそが人が人へ伝えるべき心の根っこであって欲しい。

もし、俺が死んだのち、
この文章を読む者があれば、せめて心に留めておいて欲しい。
人は学ぶことができる生き物だったということを忘れないで欲しい。

知性は一体何のために生まれいでる必要があったのか。
それをもう一度だけしっかりと見つめ直して欲しいんです。
生意気な意見かもしれませんが、どうかよろしくお願いします。

ありがとう

嬉しいことは続くものです。

俺の人生初ライブの最初の曲
明晰夢の位相幾何学」の動画を、
良い曲だからブログで紹介したいと言って頂ける方と出会いました。
(丁度、神社仏閣巡りをした旅行から帰ってきた日でまたビックリ)

当ブログとブロともになって頂いている
黄金の金玉を知らないか?」さんのブログからのつながりで、
かなり以前にコメントさせて頂いたことのあるブログ
せんちょの患い」の管理人のせんちょさんからの打診でした。
(すいません勝手にリンクとブックマークさせて頂きました、ペコリ)

本当に恐縮しきりですが、
こんな風に人様に紹介して頂けるなんて恐悦至極。

曲も本望だと思います、本当にありがとうございます。

せんちょさんの書かれている記事は
とても真摯な言葉でつづられています。
特にせんちょさんの世界構造を推察した模式図は、
俺自身の世界の捉え方と似ていてビックリ。

そこからまたどういう経路だったかは忘れてしまいましたが、

せんちょさんの記事に触発されネットサーフィンをしたんだと思います。
そして「真日本建国」というブログにたどり着き、火水伝文に出会いました。

日月神事に関しては以前から、
ところどころ目を通していましたので知っていたのですが、
火水伝文は初めて知りました。

そしてそのブログ内で紹介されていた
・「火水伝文」の冒頭部分
という記事を読んでボロボロと涙が止まらなくなりました。
ごめんなさい、ありがとう、と何度も心の中で繰り返した。
それは俺が亡くなった母に恥じる行為をしていたからだ。

旧社地の大斎原から熊野本宮大社までを巡り、
その突き当たりとでも言うべき本宮大社の奥に満山社というところがあり
親と子の結びや人と人の縁を結ぶ再生の玉石を祀っている。

母は慈覚遍満信女という戒名を頂いており、
個人的には母との縁を感じずにはいられない旅でした。
旅行の前日に虫の知らせがあって、
親父が倒れるなんてことがあっただけに余計に。

言葉や世界はいつも切実なメッセージを放ち続けている。

もともと知っているはずなのに、
そんな簡単なことにすら気付けないようになっている。
恐らくすべて自分の中に理由がある。

どんな責任の原因も自分以外に求めていては
自分自身が何かを解決する力を手に入れることなど出来はしないのだ。

それを自分の中や外の全てから教えてもらう。
突拍子も無いことのように思うかもしれないが、
まずは自分がどこからきてどこへいく生命なのか。
そんなことを考える必要があるのでしょう。

モラトリアムに一本背負い

来年はようやく。
GhostNotesとして作品が発表できそうです。

このブログを定期的に見てくれている既得な方ですら、
なんのこっちゃ分からないだろうと思いますので軽く説明を。

GhostNotesが何かと言いますと、
やっぱりバンドっていうのが一番近いと思います。
実際はもっと変なもんだと思いますけど。
形式としてはバンドになります。

ただバンドとしてのライブ経験はありません。
奈良のPickさんというバーで一度だけ3人でやりましたが、
バンドとして舞台に出た訳ではなく、
あくまで俺のフォローで一緒に出てもらった形。
そのアコースティック形式の3人編成ライブの一回のみが、
我らGhostNotesの約9年間の歴史だ!(んなわきゃない)

まあそれには色々と事情もありまして、
主に俺が原因なんですけども。。。

もともと俺は中3頃からギターをはじめるんですが、
その頃はあまり色んな音楽も知らず下地ができあがってない状態で
アーティストの曲のコピーもそこそこに作詞作曲にハマってしまいまして。
ある程度の運指練習とコード感覚さえ掴めば、
曲作りはできてしまうのでテクニック上達の速度は低下していく一方。
ギターを趣味でやってる奴と比べたら月のウサギとカメとすっぽん。

それで自分の曲をコツコツ作っては、
幼なじみの中村に聴いてもらったりするだけの日々。
その当時は何もなかった所から、
何らかの方向性を持った音楽が出来上がる。
その不思議な出来事に
自分が関わっていることに興奮しきりでした。

その感動のしびれが未だに俺が音楽を続けている理由。
何もない俺みたいなもんが、
はじめて何かを手に入れた瞬間でした。

いつかは俺もバンドをやろう!と胸に誓ったものでした。
俺みたいな人間でも、
いつかは誇りを胸に人前に立てるようにと。

そして俺が高校卒業したあとくらいに、
たぶん話の流れ的にバンドをやろうかっていうことになって。
中村の紹介で、ドラムの岡本とベースの上谷と出会う。
上谷は後にメンバーを抜けることになりましたが。
現在制作中の音源の中の一つにはちゃんと彼が居ます。

メンバーそれぞれの担当を説明するのが非常に難しいですが、
俺は作詞と作曲とボーカルと滑稽な臆病者をやらせてもらってます。
楽器は個人的にギターを弾きますが音源の中では弾いてません。

曲作りや作詞にばかりに気が行っていて、
楽器との向き合い方を間違えていましたので、
まだ自分のギターは表現力云々の次元に到達してません。
しかし必ず、自分のギターの音も届けられるように、
楽しく演奏している音を響かせる為に。
40歳オーバーにしてギターの練習を始めて、
人前で成長を見せ続ける大槻ケンヂ氏を見習って。
俺もギターの練習をもっとちゃんとしようと思っています。

今、GhostNotes3人による制作体制が、
すごく良い形が見え始めた所というか。

これまでは製作過程の都合で、
(GhostNotesで曲を書くのは俺と中村の二人だった)
どうしてもドラムの岡本以外のメンバーが曲を作って、
それで出来た曲を持って行って、
それに対してどうドラムを叩いてもらうかを、
岡本にお任せするという形でしかやれなかった事が。

それに加えてコーラスに参加してくれたり、
作詞をしたり、今では曲作りにも意欲を見せている。
そして俺がずっと望んでいた、
参加型の制作体制でそれぞれの世界が融合し
面白い形の作品作りが出来ていると思います。

コーラスでは、細く弱い俺の声を支えつつ、
岡本独特の色合いを曲に付加してくれるようなコーラスが出来上がった。

ギターとベースと作曲とレコーディングエンジニアと
打ち込み、ミックス、アレンジをやってくれてるのが中村で。

ドラムとボーカルとコーラスと作詞とメンタルプロデューサーを岡本が。

といった感じですかね。

現在すでに6曲ほど出来上がっていまして、
来年の早いうちには発表したいと思っています。

さあ、行くか。
終わる時まで行くしかない。
笑っていくよ、その時をこえて。

おそらく吾々は指名され氏名を得て使命を果たす役者

仙人風呂へ行くために和歌山に行った時、
人生初の熊野本宮大社へ参ってきました。

恥ずかしながら、熊野本宮大社のことは
浅学ゆえまったく知らなかった。

前日に仙人風呂近くの民宿に宿泊し、
朝早くから車を走らせていると、
導かれるように熊野本宮大社を発見し、
そこで己の由来や今この世界に生きる理由、
魂の一端のようなものを気づかせて頂いた気がする。

誰に教えられた訳でもなく、
自然と足がそちらへ向き、
光の道に導かれるように拓けた場所へとたどり着いた。

あの朝は世界のほうから明らかに反応を見せてくれていた。
とても雄大で神聖な何かがそこにドンと構えているように。

もう言葉は必要なかった。
ただただ両手を広げあらん限りに
神々しすぎて霞んでしまうほどの
鮮やかな世界のエネルギーを分けて頂いた。

「伊勢へ7度 熊野へ3度」という言葉を初めて知り。

現段階で自分の経験上
「伊勢へ5度、熊野へ1度」
という割合になっていたことに驚いた。

もはや疑う気もない。
頑張れ、と言われているのだろう。

それ以外にもあらゆることが、
あまりにもこんな俺を救い上げようとしてくれるように、
優しく、時に厳しく、
信じられないような力を貸してくれている。

それに応えられないような人間になるくらいなら、
それこそ死んだほうがマシってもんだろう。

mizuiro

ヒトカゲ、揺らぐ移ろい
フタカケ、それは合わせ貝のよう

水は濁ってた
飲み干した僕もたぶん濁ってんだ
ふてくされて塞ぎこんだ
濁りをいいわけにして僕は汚れた

花咲く宇宙のいろどりに
いつか僕の色もくわえられるように

今はただ流れていくことのみをイメージ

羽根がバレたくらいで消えんな、肩甲骨砕くぞ。

ども、円山です。
以前から「鶴の恩返し」に代表されるような、
異類との遭遇譚で見るなのタブーを扱ったお話を読むと
言いようのない苛立ちや、もどかしさを感じました。

たとえば鶴の恩返しの鶴は、
翁への本当の恩返しの方法を間違えたんだと思う。

人ならざるものが人に気持ちを伝える時には、
姿を人にかえるよりも、心を人に近づける方が良い。
助けた鶴に自らの羽根を着物にして恩返しされることを、
翁が望んだとはとても思えない。
自由に跳び回って欲しかっただけだ、きっと。

しかし鶴は恩返しをするために
種族をこえて人の姿をして老夫婦の家に現れ、
老夫婦の世話をし喜ばせたのだという。

それほどまでに感謝している老夫婦に対し、
「絶対に、覗かないでください」と含みを持たせて部屋にこもる。
さも好奇心をくすぐられた夫婦がこっそり覗くように、と。
なぜ鶴はそんな誘導をしたのだろうか。
わざわざ人に化けてまで恩返しをしたかったというに。

別れは必然だったのかもしれない。
なればこそ人の姿のままで、
ただの人として別れることができなかった。
助けてもらったことを伝え感謝を伝えたかったのだろう。

そして鶴の姿に戻っている所を老夫婦に覗かれ
自分の羽根を織り込んだ着物を残して飛び去ってしまう鶴。

せめて人でない自分を助けてくれた老夫婦に、
自分のことを覚えていて欲しいと思ったのだろうか。

己が人ではなく鶴だと知ったとしても、
老夫婦がそれを隔たりだとは感じないはず。
それが分かった上での行為としか思えない。
でなければ行動の説明がつかない。

鶴はそれでいいだろう。
感謝の気持ちを伝えることができたのだから。
だが残された老夫婦の気持ちはどうなる?

その鶴の必死な思いに応える術を知らぬ人は一体どうすればいい。
感謝とはお互いが響かせあうからこそ互いに笑い合えるのだ。
お互いが、助けあって感謝しあいたいはずなのに。
どちらかが消えなければいけない世界なんて、
もどかしすぎるじゃないか。

だから俺は恩返しじゃなくて音返しをします。
マルの音返しには見るな聴くなのタブーはありません。

だから、なるべく消えないように頑張ります。

ぼくらは太陽の旅団

太陽の果てまでの見取り図
片道だけの乗車切符

サンズリバーステーション発
天の川急行に乗って
三途の川ステーションまで
ぼくらは太陽の旅団

手をつなごう
はずかしいなら眼を閉じて
誰もいないのにすべてある

つないだ手のぬくもりを忘れないで
それは永久の闇をゆくための残照なのだから

奇妙なできごと むしのしらせ

何か虫のしらせがして、(たまにあるんです。)
もしかしたら地震がくるのかもしれないと思って、
一応、財布と携帯と車の鍵を持って階下におりる。

しかし、さすがに夜中に用事もないのに家族を起こすわけにもいかず、
しばらく待って何もなければ部屋に戻ろうと思っていました。

すると祖母がトイレに起きてきて、
続いて親父も理由もなく起きてきた。
タイミングよく深夜に家族勢揃い状態に。

さすがに何となく嫌な感じがしたんで
ティッシュペーパーが切れているから、
近くのコンビニに買いに行こうと。
3人で出かけることに。
祖母は家に残るといったが、
もしも万が一のことがあっては目覚めが悪い。
少々強引に祖母に犬を抱いてもらい一緒にコンビニへ。

結果的には何もなく。
コンビニからは無事に帰って来れたんですが、
それぞれが部屋に帰ろうとした時、
ついさっきまで元気だった親父が急に目眩がすると言い出して、
あれよあれよと倒れてしまった。

今は落ちついて大丈夫な様子だ。

なんか親父がどうにかなるときには
いつも虫の知らせが来るんですよね。

明日、というか今日は和歌山の仙人風呂へレッツラゴーの日。
前回計画した時はピンポイントで降った大雪に阻まれ無念の断念。
果たして今日は行くことができるのでしょうか。

ちなみにコンビニの話なんですけど、
財布の中身を確認するの忘れてて、
金額気にせず色々ポンポン入れてたら結構いっちゃって、
4126円になりますって言われて
うわ足りるかなと思って、
とっさに確認したら中に4213円入っていた。
4200円で支払って74円のお釣り。

4213円入ってたんですよね。
42と13で縁起がすごく悪いようにも思えます、
円で縁起が悪いのはよくないんでしょうか。

4200円を払ってお釣りが74円だったので、
シニはナシになったってことで良いんでしょうか。
買い物に行く理由は家から出るんじゃなくて、
親父をつれて悪い縁起を使ってしまうことだったのかも。

もしそうだとしたら、
人は、そうした奇跡にたいして、
ありがとうございますと手を合わせるより他にない。

と、無理やりにでもオチつけて、
気分を落ち着けることにします。

もうひと眠りできるかなあ。

時計回りのサラマンダー

のそりのそりと火トカゲがメラメラ燃える火の意志で
陽と陰の営みを生み出して、人影の振る舞いに思いを馳せる。

太陽と言う名で呼ばれる彼は、いつでも深い闇につつまれている。
その闇の中をのそりのそりと一人で歩いている。
しかし孤独ではない、自らの光の届く先までが自分であるから。

歩みとは出会いと別れの狭間のこと。
出会い、少し止まり、別れ。
歩いていく。
そうして火トカゲは旅を続けました。

人影がそのように振舞ったからなのか。
火トカゲがそのように振舞っているさまから
人影が何か学んだからなのかは分からない。

遥かな昔。
火トカゲは誕生の選択の地で、
知恵の実を食さず、生命の実を食べました。

そうして生まれた火トカゲは宇宙を照らす火の意志となった。
やがてその火トカゲの陽光は、
知恵の実を食べた者たちの住む星にも届いた。
そして彼らもまたその光なくしては知恵を振るうことは叶わなかった。

時計は長針と短針によって時を表す。

人影は太陽に感謝し、
火トカゲはともに宇宙をゆくパートナー
照らした世界を彩る影の群に自らを投影して、
また宇宙の廻転のなかに火の意志を投じる。
のそりのそり、と。

少し立ち止まり、
出会いという輝きを味わいながら。
また闇のほうへと。
出会いへ向かって。

のそりのそり。

おんがくとわたし

音楽とは「私」だと思う。
「私」とは時に無限だとも思う。

「私」は個人である時もあれば、
演奏するものたちの事、
想いを同じくする仲間の事、
共感を産む言葉を受け取った人たちの事。
つまり私たちのことで、
わたしとあなたの渡し橋の事。
つながりのこと。

私とはつまり渡しの役割のこと。

音楽とは「渡し」だと思う。
「わたし」とは時に無限だとも思う。

そして私は音楽は楽しいものだと思う。
私は私が楽しいといいなと、いつも思っている。

「東京都青少年健全育成条例改正案」について少し。

条例の話の時ですが、
性的なもの性的なものと槍玉にあげていう大人の方々ね。
この条例成立しちゃったら、
永井豪のような人はもう登場できないかもしれないんだと。
もうしちゃったけどね。あはは。
笑えないっす。

ここはド下ネタの笑いが欲しいっていう時に、
条例を気にして押さえ気味のネタを繰り出すみたいな。
ビクビクして漫画かいてる向こう側を想像してしまう。
漫画からそんなムードは漂わなくても、
条例成立のことを知っていて多少の想像力があれば感じてしまう。

いきなり販売を禁じるのではなく、
これからゾーニングする努力をするという折衝案はなかったのかとか。
今回、反対の意を表しボイコットした出版社の多くも、
なにも変態的なものを子供に見せたいから反対している訳ではないはずだ。

であるにも関わらず話し合う余地がなぜなかったのか。
大人のくせに。
口の使い方と、相手の言葉をしっかり聞くという点において
子供より優れているのだということをして見せずに、
それで青少年に対する教育がどうのこうのと
えっらそうに言える立場なのかと心底から思う。

なぜこんなにもいきなり、
無理矢理に早急に成立させなければなかったのか。
歩み寄る余地のなさがどこにあったのか。

印象操作っぽいことまでしたらしいですが。
何も知らない人やお年寄りばかりだとさぞ楽でしょうしね。
やり口が悪徳業者とクリソツです。
間違ってたらごめんなさいね。

少なくとも現時点から以降、さらなる改正が行われる時まで、
永井豪のような存在は日本漫画界から現れることはないですし。
今後「性的なもの」の解釈が印象操作で広がれば、
手塚治虫ですら危うくなる。
当然、才能は同じだけあったとすれば、
何らかの形で世界に影響は及ぼすに違いないでしょうけど。
それでも今の日本を支えている原動力の何パーセントかが、
ごっそりと抜け落ちたような形になっている気がします。

手塚治虫がいなかった場合の日本なんて想像もできない。
影響の広さのことを言っています。
そのエネルギーが支えた広さのです。
ほんの少しかもしれませんが、それが本の凄さだと思います。
そしてそれは手塚治虫が子供向けの漫画だからこそ、
子供だましをせずに一生懸命本気の球を投げてくれていたからで。

たぶん、その前にも同じように凄い漫画家がいて、
手塚治虫がいて、そこから同じように
その背中を見て漫画のみならずアニメや他にも多くの現場で、
手を抜かず、嘘をつかず、
子供だましを子供だましにせぬようにと、
必死に子供の為を思い作品をつくった多くの人達が生まれた。

子供はね、バカじゃないんだよ。
それを忘れてしまったようなバカな人は
そうだったかもしれないけどね。
子供はちゃんと考えられるし、
大人の世界が粗雑で低俗なものだっていうことも何となく分かってる。
言わないだけ。
または言うための言葉をまだ持たないだけ。
それに次の成長期のころにはその粗雑で低俗な所に憧れたりするんだよ。
そんなもんなんだよ。

過剰になりすぎるのはよくないけれど、
世の中は綺麗な物も汚い物も両方あって、
子供にはそこから何を選びとってゆく人間になってもらえるか。
それを良き方向へ導けるように努力するのが大人のはずだ。

だから大人がすべき努力はなんでも一緒くたに売らないことだったり、
ちゃんと話しあって「青少年」なんていう架空の対象じゃなくて、
それをわかって欲しい相手に見えるところで話し合うべきだ。

ここは大人の見ちゃいけない所だからね~。
いやいや、それをやってる大人をバラしちゃだめじゃん。
っていうね。
子供の頃から頭悪いな大人って思う部分ってそういう所なんすよ。

性的なものなど、この世に存在しなくてもいい。
と意固地になり嘘をついて子供からかくし、
自分たちにあるそうした粗雑な低俗性に気づいてない感じ。

そういう所のほうが下品に見えますね。
あえて成年コミックみたいな感じでいうと、
とんがりメガネの教育ママが裸エプロンで子供に教育してるみたいな。

言っておきますが、すこし知的な皮肉です。

これからは出版を通さなくても
インターネットやテレビがあるじゃないかと思う人も
おられるかもしれないのですが、
本という媒体の持っている広さは、
おそらくパソコンや携帯という電子端末では、
100年かかっても代替することが出来ない資質です。

端末を持っていなければいけない、
それを使えなければいけない、という条件がまず必要ないですし。

本の資質というのは紙と同じで有限なんです。
人類共有の資産といっても良いはずです、
その媒体を有効に活用するためには、
自由で雑多な場所であるほうがいいはずです。
なぜなら人はそういう場所から
素晴らしい物を産み出して来たからでしょう。
抑圧された中からも生み出されるものもあるかもしれませんが、
わざわざ片方の翼をくれてやる鳥はいないでしょう。

あ、いたか。
はーい、
おち、まい。

絶対まだ落ちてないので笑わぬよう。

あーあ。

「東京都青少年健全育成条例改正案」可決されたようで。
あれだけ反対があって押し切るってどういうつもりなんだか。
PTAや国民を騙して可決された条例ってどうなんだろう。

転ばぬ先の杖のせいで転んでしまう典型のようだわ。

自粛自粛で市場が縮小。
デフレで経済もさらに縮小中。
転んだつもりもないのに
立ち上がれなくなってしまうほどにヤバくなっちゃってるよ。

というか着エロみたいなので
幼児を踊らせてるようなのは規制対象外で、
完全に創作の表現物を規制する意図は
青少年以外にあるとしか思えない。

これは既に戦争だよ。
この国を終わらせるのに武器を使う必要などないってことだろう。

仮免だったなんて言い訳にもなりません。

結婚式のスピーチでガチガチ

今日は高校の友人の結婚式でスピーチ。

極度の緊張によりガチガチで暗記した内容ふっとびー、
カンペを読みながら、なんとかかんとかスピーチを終了。
相変わらず俺はノミの心臓だった。

スピーチ終わった瞬間から酒をガブガブと飲んでやったわ!

でもひとつわかった事が。
誰かに自分の気持ちを伝える為に努力することは、
誰かの為ではなく何より自分自身の為になるんだということです。

お祝いの言葉を言った瞬間、言葉は僕を通って振動します。
それは心を持つ人へ向かうベクトルを持った声になる。

届く範囲に放射する。
それは届いただけで終わらない。
反射して跳ね返る。
跳ね返ってくるとは、答えてもらうということじゃなくて。
声を発した瞬間に自分にも聞こえているし、
アクションに対して反応を返さない人がいても、
反応を返してくれないという事がもう跳ね返ってきている。

たぶんそうやって多くのものが跳ね返ってきて、
自分というのは縁どられて彫刻のように形作られてる。

そんな反射を感じたときに自分から自然に溢れてくる、
感謝とはそういうものなんだと思う。

何も要求しない感情の放射。
ただ、おめでとうと言うだけで。
相手は暖かいありがとうを返してくれる。

それは当たり前じゃない。
当たり前じゃないからこそ嬉しいじゃないか。

言葉とは自分に返ってくるようにできている。
だから言葉を使うのは難しいし気を使う。
でも人が言葉を使わなければ、言葉は言葉たりえない。

だったら俺は上手に言葉を使えなくてもいいから、
真摯に言葉を使える人間でありたいと思っている。
スピーチではそれを心がけたつもりです。

至らぬ点は多くあったかもしれないけど。
言い足らぬことは無いようにした。
そして言い足らぬ事を見つけたら、また言葉にすればいい。

俺にとっての真摯とはそういう事です。
伝える努力の放棄は人間の放棄に他ならないもんな。

建前のはなし

なんとなくふと思ったんですが、
「最近の若いもんは」とか「大人はふがいない」とか。
だからダメなんだろうって気がするんですよね。

そんな言葉が際立ってはいかんだろうというか。
大人も子供も移り変わる時代の中では常に同じ未熟者だと思う。
互いが批判しあって、何か良い事があった試があるのか。

もしふがいないと思ってしまうのなら、
ふがいない大人のために若いもんがやらなくては。
と思って欲しい。たとえ嘘でも。
せめてそうあってほしい。

若輩もんの頑張りに応えられる大人であらねば。
と思っていて欲しい。たとえ嘘でも。
建前はそうあって欲しいんです。

社会とはせめてそういう場であって欲しい。
自分が暮らす大きな家の話ですから。

ヒカリあれ?

条例。
文言。
規制。

ほんとうに人がそんなものに縛られたことなどあったのか。
縛ったのは自分自身で、
縛られたと思ったのも自分自身。

表現は湧き出るもの湧き上がるもの、
ゆえに時に自制心を求められる。

社会で生きることを余儀無くさせるくせに、
その社会を不合理な場所にするのも人間。
人間を殺すものは人間だけなのかなと思う。

だが自分に怯えている奴が他者を律せるか。
他者を認めることができるのか。
否定の先に待っているのは狭苦しい管理社会だけ。

新しく認めることよりも
否定することを求める閉塞した環境。
老人ばっかりで
若い世代のことを考えるつもりにもなれなくなったんなら、
この国の行く末はおしまい。

若い世代のことを本気で考えての現状なら、より悲惨。

どうせロクなことにはならんかもしれんが好きな国だ。
俺を育んでくれた土壌だ。
せめて子供くらいは安心して産んで育てられる国がいいけどな。

少なくとも目に見えない言葉に縛られて、
何が「言葉は神であった」だよ阿呆がとは思うけどね。

人にとって言葉は光であったが、
闇に貶めようとしているのもまた人でありんす。

よく聴いた2010ミュージック振り返り

いやはや2010年は珠玉の音楽リリース天国だったように思います。
筋肉少女帯 の 蔦からまるQの惑星、
奥田民生 の OTRL、
くるり の 言葉にならない、笑顔をみせてくれよ、
などなど挙げだすと枚挙にいとまがないほど。

グラミー賞にもノミネートされて話題になった、
Larry Carlton & Tak Matsumotoの Take your pickはカッコイイっす。
松本孝弘の本領はやっぱりこういう方面なんだろうなと思います。

二人のギタリストが楽曲を持ち寄り共同でアルバム制作。
これがとても良くまとまっていて
インスト物として聴かせる作品になってる。
ラリーのバンドに松本が参加という形のようで、
バンマスとしてではなくプレイヤーとしての
松本孝弘のプレイを純粋に堪能できる一枚といった感じ。

CDの方ももちろん
出来ればライブDVDのat BLUE NOTE TOKYOを見て欲しい。
会場の気分や雰囲気が演奏にも乗っているので、
見ている方も自然と表情が柔らかくなります。

今日読んだマンガ

今日読んだマンガと簡素な感想

以前のように今月分とかは不可能な分量なので、
比較的沢山読んだ日の分とか書きたい日だけ書くようにします。
やっぱり面白かったものは色んな人に読んでもらいたいですしね♪

・海月姫 1~6 / 東村アキコ
アニメの先のお話を読んでしまう抵抗感はあったが、
もう辛抱たまらんかったので出てたの全部購入っす。
結果宝物が増えることとなりましたとさ♪


・それでも町は廻っている 8
それ町はすごい。8巻は歩鳥が通用しない!!
短編の鬼、石黒正数のお家芸とも言える豊富なパターン。
この8巻では冴え渡っていたように思います♪
そういえば石黒正数といえば前に出たポジティブ先生に
ツナミノユウのシュメール星人がゲスト出演してて嬉しかったw
  

・DARKER THAN BLACK -漆黒の花- 1~3
順番通りアニメのDTBの1期と2期を見た後に読んでます。
黒の契約者と流星の双子を繋ぐ岩原裕二作のコミック版DTB。
黒(ヘイ)と銀(イン)の顛末や、ホワンやマオについても描かれるはず。

お風呂でメガネをしていないと怖い話

今日の出来事

友達と健康ランドに行ってプールで遊んだのち風呂に。
まずはナノ酸素水テラピー風呂という乳白色の湯に
ひとしきり疲れた身体を浸し。
露天、檜風呂と堪能し、
別料金のサウナゾーンへと足を踏み入れる。
300円をリストバンドで支払い、
まずはクールサウナで火照った身体をクールダウン。
そんな風に熱いサウナとクールサウナを交互に、
サウナを満喫していたのでした。

しかし、そんな僕達にある一人の人物が声をかけてきました。

僕たちはクールサウナで高地の登山はこんなにも寒いのだねぇ、
というまったくどうでもいい知的想像トークを繰り広げ、
小さな落石ひとつが命取りになる登山家は、
まさにスペランカーの気分だろうねと話していたところに。

「懐かしい話してはりますねスペランカーですか…」
うんぬんかんぬん。(誰だコイツは…)

なるほどこういうこともあるか流石大衆浴場。
しかしここは一般人として華麗に一瞬だけ話をあわせ、
寒さに負けた感じでお先に失礼しますとクールサウナを出た。

すぐにクリスタルサウナというサウナに緊急避難。
するとすぐさまスペランカー男が来襲。
自然に我らの隣に座した。
再び会話に割り込んでくる。
どうやら話したいようだ。
メガネをかけていなかったので俺はもしかして知り合いかな?
と思ったがまったく違うことが発覚したあたりで、
スペ男がサウナから退室した。

よかったと思ったのもつかの間、
スペ男がサウナ用の敷きタオルを持参して戻ってきた。
こいつガッツリ話しこむつもりだ!
ヤバイ!
危険を察知した我々は「それじゃお先に失礼します」
と退室しようとするとスペ男が。
「あ、もっと熱いサウナに移動しますか?」
とグイグイ我らグループに入り込もうとしてくる。
見た目はどうやら我々と同じか少し上くらい。
そこは華麗にかわして外に。

すると友人が「帰ろう!」と言い出した。
まあ俺も気持ちが悪かったのですんなり快諾。
脱衣所まで出て二人で何だあいつは気持ち悪いと憤慨。

そのときの友人の言葉に俺は戦慄を覚えました。

「あいつ、まるちゃんのことずっと見てたな…」

KH

きんきょうほーこく。

先日「そらのいろ」という曲をレコーディングしました。
面白い音源になったと思います。
近々、まあ来年ですが、
他の曲なんかもあわせて形にするつもりです。
もしよろしければよろしくお願いしますね♪

このレコーディングが終わった後で、
扁桃腺が腫れ上がり高熱にうなされました。

ちなみに、最近好きなアニメは海月姫でつ。
なんて上質な作品なんでしょう。
腐女子と女装男子を中心に、
往年の恋愛ドラマのような展開を見せてくれて。
毎週見るのが楽しみですねー。

ロボ分はスーパーロボット大戦OG ジ・インスペクターと
Star Driver 輝きのタクトがあるので不足してません

ぬひひ
そういえば新居昭乃さんのリトルピアノツアーが再びあるっす!
11都市13公演という太っ腹ツアー。
次の機会には奈良にも来ていただきたいもんです。

増殖する蔵書を電子化すっか。

増え続ける本に頭を悩ませていたがついに
裁断機とScanSnapを購入しまして、
現在蔵書をちょっとずつ電子化してますねん。

いわば半断捨離とでも名付けようか。
完全に捨て去ることかなわずデータにして残そうとする心。
斬新な残心、それが半断捨離。

まずは外海良基のDoubt全4巻を裁断するために、
一冊ずつ裁断機という名の祭壇へ捧げる。
祭壇の名はPK-513L。
しばしの別れ。
俺は涙をこらえて祭壇に火を灯す(電源ON)。
祭壇の幅に本が入らないので入るように本をカッターで切り分ける。
レバーのロックを解除して一気に背を切り落とす。
束ねられていたがゆえに本と呼ばれていたものが、
バラバラの紙に変わる。
祭壇に神が舞い降りたところで裁断の儀式は終了。

次にScanSnap S1300というスキャナを使って、
さきほど裁断したDoubtをパソコンに取り込む。
かなりの速度で飲み込んで行ってくれるので、
1冊に数分かからない程度の作業。
にょほほ、これで電子写本の完成じゃ。

まあトータルの時間だと1時間くらいは見ておくといいかも。
時間があるときにまとめて少しずつ取り組むしかあるまい。
裁断機出したり、スキャナ出したりで大変は大変でした。

しかしつまるところ、この作業で最も厄介だったのは
俺の「本との別れを惜しむ心」くらいなもんで、
あとは問題なく作業も進んだし、
部屋が広く使えるようになることや、今後を考えれば、
出費に見合うだけの便利さは手に入った気がする。

雑誌や捨てるに捨てられなかった書類を全部データにしてしまえば、
家ん中けっこうすっきりするかもしれない。
まあ裁断機自体がなかなか場所をとる代物ではあるが。
それに本全部をデータ化するつもりもありませんし。
ま、反断捨離にはならないように気をつけます。

溜め込んでもろくなことがない。
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