今でそうなのがうんこかおならかわかりません
いっそだしておしまいなさい
もしも間違っていたらどうするのですか!
屁みたいなものだと思えばいいのです
うんこを漏らしたと後ろ指をさされてしまうじゃないですか!
う、後ろの穴に指なんて、ス、スケベなことを言わないで下さい!
え!?それはあなたでしょうに!この糞坊主!!!
フンッ!
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心にて。
在り方を消す。
しかし在る。
深く世界へと潜る
めまぐるしい奔流へ
そして静謐たる混沌へと漂着する
無心にて。
在り方を探す。
しかし無く。
分かれた世界へと戻る
めまぐるしい輪廻へ
そして聖櫃たる肉体へと転生する
回転に終りはなく
真円の世界を繰り返す
円周率のつづくかぎり世界は終わらない
そう作られている
ここは神焉の夢にすぎないから
逃げ込んだ偽りの螺旋の坩堝だから
逃げないと決めたなら。
輪廻を断ち切り、なすべきをなそう。
こんな自分がいやだ
そんな俺を見てくれ
僕はここにいる
オイラは好きになれないから
誰かが愛してくれないか
そのかわり世界のすべてを愛してあげよう
浅ましすぎて反吐がでる
こんな俺を見てくれよ
愛されない僕を好きになっておくれ
大好きだ
大好きだ
大好きだ
おぞましいほどに
愛されたくて愛することを選んだ
もう殺しておくれ
もうそれは手遅れ
光が差し込む
その扉の向こうへ?
行こう
行こう!
それはいったい誰のため。
月に弓
空には矢じり
ふりそそぐ
時に罪
人に絡みつく
巻き付いた蛇
オーロラと虹と惑星
神の空
深淵と真円
とびこえろ
指先をその向こうへ
月に海
空には砂塵
翼の大樹
雨と夢の為の日々
認識の拡散
多元の放射
存在の集約
接続の螺旋
人間の重層
書くべき言葉が見当たらないから、
すこし黙っていた。
俺は枯れてしまったのかと、
すこし震えて怯えた。
湧き上がる。
降り注ぐ。
何もないゆえにある。
あるはずのないものがある。
沈黙のビッグバン。
待ちに待った新居昭乃 弾き語りLIVE TOUR 2010 ~Little Piano~
大阪は5月9日と10日であります、両方行きます♪
数年前から色々ライブとか見に行くようになり。
自分が好きな人のライブにはなるだけ顔を出すようになりましたが。
二日連続は初です!
違う人のライブで二日連続はありましたけどねー。
新居昭乃さんのライブはソラノスフィアが初めてで、
DVDも買いまして、もう数え切れないくらい見てます。
めったに生で見れないこともあり今回は思い切りました。
月曜日にライブに行けるのも、まあ自由な仕事の特権であります。
いやはや社会不適合者の烙印を紋所かなにかと勘違いして生きてますなぁ。
もはやタダの木偶の坊でござんす。
ムッハッハハハハハ!(閣下笑い)
黄門+木偶+閣下=助さん格さん彼らを木偶人形にしておやりなさい…
さ、ということでね!
一応今のところ参加予定のライブは他に3つです!
6月19日に奥井亜紀のマジカルミツマルサマーツアー。
6月27日に筋肉少女帯の蔦からまるQの惑星ツアー。
7月17日にJAM ProjectのMAXIMIZER~Decade of Evolution~ツアー。
ウヒャヒャヒャ!
最近はダウナー気味でしたが、ようやくコンディションが戻りつつあります。
色んな所でパワー貰って。
今度は還元できるようにパワーアップしたいもんです。
まだまだ26歳なんて若造。
とはいっても実際何もできてないと焦燥感はありますが。
それでも死ぬまでに何か一つでも、
誰かの心に残るような人間になれればいいなと切に思います。
この世界は生きた証を残す場所としちゃなかなか良い旅行先。
闇に帰るまでは輝きの中でアホのように楽しそうに踊ってやるのです!
タイトルで引かないで欲しいが、
伊勢神宮の太い木々を見て感じたことを書いただけです。
エコがどうこうとかっていう内容は書いてませんので。
あしからず。
さて。
先日、人生3度目の伊勢神宮に行ってきた。
あの神木とでも呼ぶべき大木の数々。
ただ時を経ただけとは思えないような力強さ。
神宮内にある木をよくみていくと、
若い木の根っこ辺りに積み石がしてあったり。
巨木の内部に空洞があったり。
木の周囲にそれを取り囲むように違う木々の枝々が、
絡みあうようにしているのが見える。
ふと、もしかすると伊勢神宮のこの凄い景色は、
人の手が入った自然の姿なのではないかと感じた。
悪い意味ではない。
人と自然が共生する為の知恵がそこにはある気がした。
永い年月をかけて成長する木を、
より太く、より強固な大木として力強くする為に、
何本もの木々を一本の木へと融合させていく。
木の成長を見越して苗を植えたり、
その木をどの木と融合させようとしているのか。
太陽の動きなども考えながら木々の成長を見守る。
恐らく気が遠くなるほどに永い間。
そんな人達がいたのではないだろうか。
そう感じられる気配が佇まいにはある。
一本を成長させるというよりも、
数本の木だったものを最終的に一本の木にしてしまっているような。
なんとなくそんな感じを受けた。
豊富な水の力によって石や大地が苔むすことで、
土自体も豊かになるし多くの動植物にとっての豊かな土地となる。
その自然の循環の中に人が入り込む為には、
無い知恵を振り絞って考える必要があるのかもしれない。
食べ物を肥やす方法だけでなく、
多くの動植物と共生していく為に。
豊かな大地の力と水の流れと太陽の力がなければ、
成し得ないことではあるだろうが、
少なくともそれが可能な場所であるのなら、
伊勢神宮のような豊かな自然も手に入れることができる。
ということの証明なのではないだろうか。
もし人の知恵の力でそれが可能なのだとすれば、
人が人に何かを託すという気持ちも理解できなくない。
生死なんてものを超越して全てを循環させていく為に。
森林伐採がどうしても必要なのであれば、
人は木々を育て、豊かな土壌を育ませればいい。
これから先も力を借りてゆく為に、
人の力で出来ることは人がやればいい。
その為に自然と対話する方法を、
人が模索していけるなら、今からだってまだ遅くはないと思う。
素早く建造物をつくる建築技術もいいが。
永い目で自然と暮らしていたであろう古代の人々のテンポと考え方からも、
充分に学ぶことはあるだろう。
即物的な交換にしか能力を発揮しない金じゃ解決できない問題だ。
そこに必要なのは自然と共に生きるという意識であって、
自分達だけが徳をしようとか、
自分達だけに都合のいい環境を目指していたのでは成立しない。
循環の中にヒトを投じるならば人は何ができるか?
周囲の環境の把握し、
どのような成長を促すことができるか。
知恵はそれを考えることができるかもしれない。
あまり干渉しすぎるのではなく。
効果的な循環構造を整えることで、
自然の力を借りて自然の成長を促進させるような構造を探る。
そういうことをやってみせるのが人の知恵であって欲しい。
伊勢神宮の大きく高く伸びた木々に囲まれながらそう感じた。