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祭りとは誰のためのものか。

マスコミによる偏向報道はあったかもしれない。
しかし「自民がダメだったのだから民主だ」
という潜在的な意識によって民主は勝利したのだろう。

なんだか政治はマスゲームのようだ。
政権をとる党など本来はどこだってかまわない。

重要なのは「民意」と「国益」のバランスだ。

即物的な結果を求める民意によって、
民主党は過酷な道を選ばされたのかもしれない。
すぐに結果を出さなくてはならない。

それが偽りの数字の結果報告にならないことを祈る。
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最近読んだマンガ2009年6月~8月

以前のように月ごとに分けてマンガのレビューを書こうと思っていたが、
ここ3ヶ月ほどで読んだ量が多すぎて書ききれないかもしれないので、
まとめて気に入ったものだけ感想を書いていきます。
あまり長くなりすぎないように、
それぞれコンパクトに感想をまとめましたが無理でした。

目次
・GIANT KILLING / 綱本将也☓ツジトモ
・COPPERS / オノ・ナツメ
・それでも町は廻っている / 石黒正数
・デッドマンワンダーランド / 片岡人生☓近藤一馬
・DOLL STAR -言霊使い異本- / 里見蘭☓槇えびし
・ism/i / 夏十耳☓空十雲
・ジャバウォッキー / 久正人
・flat / 青桐ナツ
・Doubt(ダウト) / 外海良基
・ハーメルンのバイオリン弾き ~シェルクンチク~ / 渡辺道明
・数学ガール / 日阪水柯☓結城浩
・step by step / 安永知澄
・童話迷宮 / 釣巻和(原案:小川未明)
・茄子 / 黒田硫黄
・拡散 / 小田ひで次
・イムリ / 三宅乱丈

・GIANT KILLING / 綱本将也☓ツジトモ
個人的には久々のサッカー漫画。
主人公は若干35歳の元日本代表選手の監督。
魅力的な絵やキャラクター陣。
これはもう単純に面白い漫画だよなぁ。
熱がある。
試合中のDFやFWのポジションによって生まれる
微妙な温度差なんかがさりげなく描かれていたりして面白い。


・COPPERS / オノ・ナツメ
最初not simpleの表紙に惹かれて買ったオノ・ナツメ。
もう今や超・売れっ子だ。すごいなぁ。
どんな作品でもソツなくこなす。
このCOPPERSも面白かったけど、
今でもオノ・ナツメで一番好きなのはnot simpleだ。


・それでも町は廻っている / 石黒正数
石黒作品は既にほとんど買ってしまった。
原作付きのアガペはそれほど面白くないらしいので手を出していない。
ネムルバカやPresentformeは面白かった。
全ては探偵綺憚でハマったのがきっかけだった。
この「それ町」では探偵綺憚などで実験された要素を、
上手く連載向けに引き伸ばして使ったりしている。
個人的には好きなノリの漫画なので楽しい。
歩鳥カワイイヨ、ホトリ。本当にアホだな、ホトリ。


・デッドマンワンダーランド / 片岡人生☓近藤一馬
エウレカセブンのコンビの新作。
まだどうなるか分からないが、なかなか面白い。
魅力的なキャラクターを豊富に用意する所に
作者達の性格の悪さが垣間見えるw
テレビアニメ化も決まってるみたいだけど、
最近の規制の中でどれだけできるんだろうか。
てか俺よく考えたらエウレカはコミック版読んでないんだよなぁ。
機会があれば読んでみよう。


・DOLL STAR -言霊使い異本- / 里見蘭☓槇えびし
マガジンZ系の漫画漁ってる時に購入。
一時期のエースコミックっぽいタッチと作風だった。
悪くないんだけど最近の漫画の傾向で、
上手にまとまり過ぎてて面白味には欠けてしまった気がする。


・ism/i / 夏十耳☓空十雲
全部で4巻だった。
恐らくマガジンZが休刊になったので正式な完結ではないはず。
続編の予定もあるという予告もあるしね。
かなり複雑な設定があるはずなのに、
ようやくキャラクター達が動き始めたな、という所でバッサリ終わる。
面白いし絵も技巧的だとは思うのだが、
少し線の魅力にはかける絵だよなぁ。
表紙絵の色彩感覚はかなり凄いと思うけど。


・ジャバウォッキー / 久正人
ここ最近見つけたマガジンZ系の漫画の中では一番の大当たり。
あまり絵には詳しくないので、
どのような方法で描かれているのかがまるで想像がつかない。
切り絵のような陰影の世界で、とんでもなくスタイリッシュだ。
話が進むにつれて作者もその独自の手法を使いこなしはじめ、
7巻あたりでは自己流のデフォルメで描けるようになっている。
そんなことよりリリー・アプリコットは可愛すぎる。
あまり二次元の世界のキャラに入れ込む趣味はないがリリーは良い。
なんてカッコイイヒロインなんだろうか。
話を説明するのは難しいので実際に読んで確かめるのが一番いい。
読めば単純にカッコイイから痺れると思います。


・flat / 青桐ナツ
ほのぼの~。
日本版のフルハウスって感じかな。
あっくんとへーすけの珍コンビの日常。
タイトルどおりにフラットな気分になれます。
迂闊にあっくん可愛い!なんて言おうものなら、
ショタコン扱いされてしまいそうなほどの危うい可愛さですね。


・Doubt(ダウト) / 外海良基
全4巻。そのオチはどうなのよ?っていう終わり方。
ミステリとしてじゃなく
サイコスリラーやホラーとして読めってことだろうなぁ。
シナリオ的には続編を作ろうとしてるっぽいけど。
買うかどうかは分からないや。


・ハーメルンのバイオリン弾き ~シェルクンチク~ / 渡辺道明
ハーメルンの続編、ハーメルの子供達も登場。
絵はそれほど上手くなっていないけど、
ギャグとシリアスのバランス感覚とか。
ギャグやりながらでも
魅力的なシリアスシナリオを作るセンスは相変わらず。
続編ってグダグダになるものが多いけど、
これはもしかしたら面白くなるかもしれない。


・数学ガール / 日阪水柯☓結城浩
俺のあまり得意でないもの。
学園物、恋愛物、数学の全てがつまった作品だった。
輝かしい青春を謳歌しなかったトラウマなのだろうか、
学園物や恋愛物に対してあまり心が動かない。
主軸ではない要素としてなら気にならないのだが、
学園恋愛物がメインで来ると引いてしまう。
数学ガールでは数学という要素が入っていたので、
あまり拒否感なく読むことができた。
けど例として登場する数学の問題は難しすぎて、頭がパンクしそうだった。
でもよく作品に数学を絡めていると思うし、
数学を通して何かを考えるという視点や観点は、
十分読む意義のある提示の仕方だなと感じた。
なかなか良く出来ていた。


・step by step / 安永知澄
これはとんでもない漫画だ。
持っているタッチの種類や、エピソードのパターンといった、
漫画的な基礎力のようなものだっていくらでも褒められる。
しかし、この漫画家のそんな部分を褒めたって仕方がない。
発想の出発点、そして帰着点、次へと進もうとする意思。
哲学を漫画的文法に落とし込む。
などというと安っぽくなってしまうし、
内的実感の視覚化と多面的感情の融合。
とかいうと伝わりにくくなるかもしれない。
巻末にカネコアツシと安永知澄の対談が掲載されているが、
個人的にはこの対談は別冊でやって欲しかった。
この作品は作品内において言葉で語られない方が良い気がする。
どういう風に受け止めるかを押し付けない作風。
日常の中の非日常性を描く。
恐らく誰もが日常の中で感じたことのある微かな違和感。
それが増幅されて、どんどんと広がっていく宇宙観が凄い。


・童話迷宮 / 釣巻和(原案:小川未明)
釣巻和は以前にもレビューを書いた「くおんの森」で知った。
絵は上手いし、コマ構成や視線の誘導など、
漫画の文法を沢山勉強していて凄いなあと思っていた。
何より「くおんの森」の表紙で惹かれたのは色彩感覚だった。
そして、この童話迷宮は漫画では白黒だが、
WEBでカラー連載していたものをまとめたものだというのだから驚いた。
WEBで連載するというだけあって、
どうやら釣巻和はパソコンを使って漫画を描くのが上手い。
機能の使い方、使うべきポイントをしっかり把握している。
ただパソコンを使って漫画を描いているだけではない。
「くおんの森」で気になった短編力は向上しているように感じた。
童話を元にエピソード構成をしているというのも、
短編力向上の理由かもしれないが、
とにかく読者に理解させるだけの力がついているのは間違いない。


・茄子 / 黒田硫黄
茄子を主題に複数の基軸となるエピソードを、
最終的に一本の短編集にまとめる。
文字にして書いてみたら意外と普通だが、
中身を読むととても普通じゃない。
よくもまあ茄子でこれだけ展開させることができたものだ。
そのどれもが異様に面白い。
「茄子」で面白い漫画を描きなさい。
というお題に対する黒田硫黄の回答のようだ。
もしかすると黒田硫黄の物語を作り始める出発点は、
そうした所なのかもしれない。
セクシーボイスアンドロボや大王も面白かった。


・拡散 / 小田ひで次
有体に言えばセカイ系ひきこもり漫画だよなぁ。
文字通り世界に飛び散って引きこもることになった少年のお話。
線のパターンは最近では少し珍しくて、
劇画タイプのエロマンガでよく見られる、
陰影のつけ方がやたらねちっこい線。
作風もねちっこくて、
しかも出てくる女キャラがほとんどブサイク。
それでも主人公にとっては彼女たちは非常に大切な存在だ。
かなり抽象的な世界で。
読者側の理解への歩み寄りを要求するタイプの作品。
かなりエロティックな皮膚感覚や感性が出てきて、
それが作風を構成する重要なポイントにもなっているので。
もしかするとエロマンガも書いてたりするのかもしれない。
今のところ他の作品だと個人的にはミヨリの森が気になっている。


・イムリ / 三宅乱丈
うわーうわーSFだ!ファンタジーだ!本格だー!!!
今出ている6巻まで読んだけど、まだまだ終わりそうに無い…
嬉しい出会いだが、また新刊が待ち遠しい本が増えてしまった。
SFの醍醐味が詰まった作品だ!
絵は少女漫画よりのタッチだよなぁ。
断ち切りの絵でもノンブル(ページ数)をつけられるように、
内側の空白部分に縦でページ数を打っているのは凄い。
ここまで含めてスタイルにしてしまっている。
これは凄いけど気長に待って楽しむしかなさそうだなぁ。


ちなみに過去の感想どもは以下にて。
最近読んだマンガ2009年3月 前編
最近読んだマンガ2009年3月 後編
最近読んだマンガ2009年4月 前編
最近読んだマンガ2009年4月 後編
最近読んだマンガ2009年5月

愛って漢字は良く出来てるなぁ。

愛というものには多面性がある。

人それぞれに異なる形の愛があり、
小さな愛があちらこちらで溢れかえっている。
全てのものに愛を見出すことができる。
だからこそ愛の本質というのも、
それら全てのものの本質と大して変わらない。

はた迷惑なものから、
取るに足らないどうだっていいもの。
履き違えた愛。
ひっそりと誰かへと捧ぐ愛。
ありふれた、なんてこともない愛。
そんな小さな愛たちは
それだけでは世界を動かしたりしない。

しかし、それが集まって群れになれば、
ある方向性をもった強い流れとなり、
いつかは何かを変えることもある。

All you need is love(愛こそはすべて)。
ならば。
その全てとは。
誰かにとっては取るに足らない、
しかし誰かにとっては無くてはならないような。
そんなもののことなのだ。

難しい多面体だなー愛って奴は。
でもまあ付きまとうんだから、
付き合っていくしかないんだろうね。
愛とは自分のことであり、
自分以外の誰かのことであり、
世界全てのことである。

心を受け止めて、初めて人は「愛」を知る。

ぶつけるだけじゃ愛じゃねーんだなぁ。
つなげてようやく愛になる。

大槻ケンヂと絶望少女達 / 林檎もぎれビーム



さよなら絶望先生シリーズの主題歌といえば『大槻ケンヂと絶望少女達』

実はこれは凄いことだ。
大槻ケンヂというアクは強いがとんでもなく魅力的な存在を使い、
作品の色を殺すことなく互いに良い形で成立させている。

オーケンは確かに最近はかなり幅の広い音楽活動をしているし、
特撮メンバーのNARASAKIとのコンビの相性も良い。
しかしいざ起用するとなるとアニメ自体が、
その主題歌に食われてしまう可能性がある。
だからこそ起用して上手く成立させれば
それはとんでもない破壊力となる訳だな。

ナッキーの作曲センスやジャンルの幅の広さと、
さらに絶望少女達の柔らかな声は、
大槻ケンヂのアクの強いボーカルに非常にマッチする。

女性の声とオーケンの声の相性がいいという特性は
大槻ケンヂを長く聴いてきた人には全然違和感ないだろうが、
聴きなれていない人には新鮮極まりない響きとなる。
中毒性を生むのはその辺りのバランス感覚だ。
大槻ケンヂと絶望少女達はそのバランスが見事。

そしてさらに良かったのは、
大槻ケンヂというサブカルアーティストの代表格のような存在と、
久米田アニメである「さよなら絶望先生」の相性が良かったということだ。
大槻ケンヂ的な世界への理解が深く、
アニメーションで音楽に応えようとする姿勢に俺は感動を覚えた。

林檎もぎれビームのオープニングアニメは凄い。

林檎もぎれビームという言葉は、
リンゴ送れ、C」という言葉が由来で、
というか、もしかすると最初はそれで行くつもりだったのかもしれないが。
その由来にちなんだ要素がふんだんに盛り込まれている。

『林檎・もぎれ・ビーム』の部分では右下にちゃんと
「リンゴ」(リンゴを食べる)
「オクレ」(多分Mr.オクレさん)
「C」(オクレ師匠がC!)
とワイプが出ているのを見て、このアニメのスタッフに好感を覚える。

このアニメのスタッフの凄いところは、
初回あたりはオープニングアニメにほとんど労力を使わずに、
いわゆる納期が遅れても、その間に曲と親和性も高く、
アニメーション作品として壮絶なレベルのオープニングを作るところだ。
張っている動画は恐らく4話以降になって
ようやく完成したオープニングだと思われます。

当人達が楽しみながらエンターテイメントを提供する。
これって本当に大切なことなんだなぁと思う。

結果としてアニメにも音楽にも非常に良い影響を与えている。
ただ海外進出はできそうにないよね。このアニメってさ。
そこがまたオーケンの性質と似てる部分だよなぁと、
思ったりする今日この頃。

曲はもう聴けば聴くほどいいよ。
フルバージョンが一番良い。

夢想遊泳

透明な風船で夜空をさまよう
夜の街に寝そべり
星空の毛布にくるまる

世界の話し声が聞こえる
僕は賑やかなひとりぼっちを満喫して眠っている
あるがままのゆりかご

光が放射状に広がっていく
宇宙が反転する
まどろみの記憶
未来の思い出
静寂と混濁に揺れ動く垂れ幕

ああ
その中へ
その幕の向こうに

空が割れた
はじまりの亀裂
閃光の爪あと

もうすぐひらく

少しずつだ。
少しずつ何かが戻り始めている。
俺の中の火が。
可能性がくすぶり始めている。
不安が表情を変える。

よし。
よし。
逃すな。
これを逃すな。
捕まえて離すな。

もう少しだ。
開く。
たぶん開く。

あけてみせる。

ここ二日のマンガ事情

・昨日の収穫
GIANT KILLING 1~3
イムリ 1~3
ハチワンダイバー 12
ADAMAS 3
鉄のラインバレル 12
デッドマンワンダーランド 6

・今日の収穫
GIANT KILLING 4~10(6が抜けていたorz)
イムリ 4
陰陽師 1~11

もうマンガが溜まりすぎて毎月ごとのレビュー書いてられなくなってきたw
今後は特に気に入ったのだけ抜粋して感想かいていこう。

ハチワンはやっぱり面白いなぁ。
GIANT KILLINGは大当たりだった。
イムリはまだ序盤しか読んでないけど好きになれそうな作品です。
陰陽師はまだ読んでない13巻まで買ってから読もう。
ADAMASは意外と面白いよなぁ、皆川は本当になんでもこなすね。
デッドマンワンダーランドは少年漫画の要素を
取り入れまくっているのに対象はもう少し上の層なんだなぁ。面白い。
つまりはそうでなくてはならないテーマと構造と要素の必然性があるはずだ。

噺家と演目 -千原ジュニアと死神-

落語というものは本当に懐の深い芸能だ。
そして千原ジュニアという男は本当に凄まじいプロだ。

噺家と演目の相性というものを、
これほどまでに感じたことはなかった。
我々が普段目にするような落語の世界では、
既に上手い噺家がいて自分の適性に見合った演目をやる。
当然の話だ。
自分の話を最も良い形で聴かせる。
それが落語の世界だからだ。
演目と噺家の相性というのは
当人や見る人間によって既に見極められている。

我々はほとんどの場合その状態から落語に入る。
だから噺家と演目の相性というものに、
それほど意識をやることはない。

いや、合う合わないで言えば当然見るのだが、
その演目に「似つかわしい噺家」という像は確かにあるのだと、
千原ジュニアと死神という落語の出会いによって思い知った。

東京で開催された落語会で
春風亭小朝がそれをジュニアに勧めたのだという。
これは結果的に非常に良かった。

その話題が出たチハラトークの4巻に収録されていた、
チハラトークを見に来ていた客前で演じられた「死神」を見た。

これは凄い。

壮絶だ。
ドシンと重い。
この落語は強い。

千原兄弟のフリートークの要素の一つに、
互いの受けの上手さが挙げられると思うが、
千原兄弟のトークの応酬はテンポの整え方や、
間の取り方が深めの所にあって、
独特の間合いが異常に上手いのだが。

その素養を活かすようなタメの強い落語だった。
話術を磨き上げて話芸にまで高めた男のプライドだ。
えげつない出来だった。
ぜひお金を出して見てほしい。
とても一本の落語とは思えない情報量だった。

そもそも「死神」というのは江戸落語で、
上方では演目にない部類のもので。
そこも小朝のアドバイスで「死神」を上方アレンジでやってみたら?
というのでジュニアがそれをやったようだ。
だからといって簡単にできるような物ではない。

筋を覚えて、筋を追うことはできても、
言葉の使い方、表情の組み立て方、雰囲気の作り方、
この全てが江戸落語と上方落語では全く違う。
その為、ほとんど新しく作り変えられているといってもいい。

桂枝雀の落語を沢山聴いたのだろうという、
枕からの独特な雰囲気の作り上げ方といったら。

痺れるような立ち上がり。
うっとりするような噺運び。
上方アレンジの新鮮な江戸落語の世界。
サゲも独自のニュアンスを加えて作られており、
もはや立派な噺家がそこにいた。

月亭方正がいくら面白かろうが、
仕方ないがこれをやられたら眩んでしまう。
本当に新進気鋭の凄まじい噺家だった。

月亭方正の落語集が出てもまだ買うことはないだろうが、
千原ジュニアの落語集が出たら俺は確実に買ってしまうだろう。

演目と噺家が良い形で出会うとこうなるのだなぁ。
本当に落語ってのは深い世界だわ。

キップを切られ世相を切る。

そういえば今日の昼飯を買いに行く時にキップを切られてしまった。

学校の横の道なのでいつも気をつけて徐行している。
今日もそうだった。
一時停止を忘れて徐行で行ってしまった。
それでキップを切られたのはいいとしよう。

事実俺がルールを違反したのだし、
俺自身が危険な道だと判断し徐行していたのだから。
つまり警察は危険を未然に防いでいる。

しかし、だ。

ここでふと気付く。
俺、確かこの辺りはずっと危ないと思ってたなー。
そうだ!
そこでたまに警察が網を張っているのを何度か見ているのだ!

2点減点と7000円の罰金。
「わかった」とさっさと済ませて昼飯を買いにいく。
この程度の減点と罰金なら全然痛くも痒くもない。

俺は、その時は警官にはキレませんでした。

昼飯を早く買って来てやると家を出ているのに帰りが遅いと、
家で待つかわいい我がオヤジと祖母がお腹をすかせてしまう。

しかし、この腸が煮えくり返る音が、
夕飯を食べた後も俺を眠らせてくれない。

それは。
警察が”何度もそこで同じ方法でキップを切っている”からだ。
学校の近くで危険な道路だから交通を厳しく取り締まろう!
ということで始まったのならば、
どんどんと改善していかなくてはならない訳で。

何をお前らに都合の良いスポットにしてくれてやがるんだと、
流石にムカムカしてまいりまして。

このあたりの道路はねぇ危ないんすよ!
道は細い民家は多い交通量は多いと、危険たっぷり!
行政が手を入れて治すべき箇所が腐るほどある。
信号も足りてないし歩道の整備が出来てなさすぎる。

さらに言うならもっと危ない場所は
そこから北に数百メートル行った橋なんだ。
月に2、3回は事故がある信号のない交差点が二つ。
学校の隣だからアピール度は高いかもしれないが、
なるべくなら毎日出張ってくれ。

しかもパトカーを路上駐車して取り締まるから、
車線一方がふさがれて善悪の概念が済し崩される。

犯罪おこさせるのを待つんじゃなくて、
犯罪をおこさせないで社会を作っていきましょう。
なるべくなら。

おはよう

今後どのような形で時代や世界が動いていくか分からない。
言葉がどれだけの真理性を持ちうるかも分からない。

疑わしきは全てになり、
自分すらも信じられなくなっても、
生きていくほどの意味が人にはあるのか?

けれど気が付いたらここにいた。
自分の重さと、世界の重さを秤にかける。
天秤の重さをはかる機械はないけれど。

生んでもらったことのない奴らに分かるものか。

目が覚めたらこうだった。
どうにかできたのか?

明日が来たらおはようと言おう。
明日会えたら。

呼び水

理由や意味が
もし霞んでしまったとしても

最後に残る意思の雫を忘れないで

それが呼び水となる
新しい世界の門が開く時の

この世界が終わってしまわないように

影法師

静寂の中

白い世界

ペンとインクだけを渡された

ひとりぼっち

僕はまず影を描いた

歩き始めた瞬間が答え

今日はなんだか人生の分岐点のような一日だった。

凄く切ないこと、楽しいこと両方あった。
けど人間やっぱり楽しいことの方面に引っ張られていたい。
せっかくの命、無駄に使ってたら天国のカーチャンに怒られる。

何があっても俺は俺でいよう。
それだけが俺にできる親孝行なんだろう。

自然に。
これだけをモットーに生きていくのだ。
自堕落だと思われたっていいさ。
俺は俺の道を歩く。
落ちたか落ちてないかは歩き終わらねば分かるまい。

答えのない世界。
一瞬一瞬が全ての答えを提示してやまない世界。
受け止めて歩いて、そこが答えだ。

それ以上のことを人が望むのは傲慢なのかなぁ。
先を見たり空を見ながら歩くくらいはいいよね。
空を想う、いつか実り現れる、世界を想う。

楽しようとするとダメ

数学に少しでも親しめるようになろう。ということで

細野真宏の数学嫌いでも数学的思考力が飛躍的に身に付く本!

というウソくせー本を購入。
ウソくせーと疑いながらも読み始める。

読み進めていくうちに気付く。
これは数学の本じゃなくて、
数学で金儲けを考えてるだけの頭の悪い啓発本だと。

こいつが言っていること全てを素直に受け取り、
自分の視点で見るだけで、
こいつがペラペラだってことが分かる。
そういう意味じゃかなり立体的な自己批判だ。

つまり言っていることは誰でもわかるようなことばかり。
あとは自分の知識の貯蔵量をどう見せびらかすかのみに終始。
正直これくらいのことで数学的思考力が身に付くなら、
俺はとっくに数学の天才だ。
と読者に思わせる為だとしたら凄い本だ。

しかも文章に親しくないくせに、
私の文章力は数学的思考力によって自然に身に付いた!
などという不必要で粗悪な断定が多すぎる。
文章力なんてものは数学的思考力で上がったり下がったりしない。
その理由を定義できていないのに断定を使うな馬鹿者が。

数学は厳密に定義することが大切かもしれないが、
こいつの場合は論理の不足した断定が多すぎる。
誰も定義できていない問題を例題にとりあげて、
したり顔で解説を続けていく態度に腹が立つ。

要するにバカな人間をどうダマくらかすか。
というのを非常に粗雑な文章で書いて、
その本の売れ行きで金儲けをしてやがるわけだ。

結局中身は現行の教育体制批判に。
(しかも明確な解決案を提示せずに詰め込み教育に戻せ、という酷い内容)

数学の論理を無理やり引用して郵政民営化の肯定に躍起になったり、
あまり詳しくない株の知識をひけらかしたり。

バカをバカにする為に
自分がバカになっている典型のような感じがした。

久々に本に無駄な金使ったな。

今度は素直に数学の基礎力が付くような本を買おう。
楽しようとするとバチがあたるんだね。

月影の声

あまり意識をしないように生きている
気がつくと気が狂いそうになる

寄り添ってくれるのは孤独
僕も一人なんだ、
さあ手のつなぎ方を思い出そう

ひとりぼっちは寂しくて
ひとりきりの時が落ち着いて
ふと気がつけば意味が変わる

そうか一人ぼっちなのは心だ

だれもが人とは交わらないものを持っている
だから誰かと居られずにはいれない
孤独を見つめる為に群れをなす
そんな弱気な魂が唸り声をあげている

寄り添う孤独をつらぬいて
月の光となるように

JAMがもってった!セーラーふく

JAM Projectの面白い曲を発見。

「JAMがもってった!セーラーふく」


らきすたは2話くらいしか見てないが、もうこの熱にはやられたね。
「白石みのる」の「男のララバイ」に入っていた曖昧サンシャインが面白かったが、
本気でやるとこんな感じってノリだ。
ランティスとニコニコ動画は仲良しみたいだから、
JAMもニコニコのユーザーを意識して曲をやってて面白い。

苦手な数学をやってみる。

以前に「そろばん」を買って練習していたのだが、
ただの作業になってきて持続できなくなってきた。
そこで「数学」を今更ながら勉強してみようかと思っている。
論理的な思考力をつける意味でも、
今から本を買って勉強するってのは悪いことじゃないよな。

俺が好きなのって宇宙だったり科学だったり、
位相幾何学や量子論や相対性理論だとか、
そういうのは以前から興味持って
Wikipediaとかで勉強したりはしてたけど、
やっぱり数学脳じゃないからついていけない。

だからまあ、とにかくまずは何でもやってみる。
そこからだよなぁ。

「分かりにくい」直球

「分かりやすい」ものは強い。
それは時に幼稚に見えることもあるが、
実は素晴らしいことなのだと気づいたときに、
自分自身の「分かりにくい」部分が恨めしく思う。

「分かりにくい」ものを「分かりやすい」言葉に変えて、
自分でも分かっていないような未知のものを、
表現したいと思うけれど、
それは多くの場合本質から外れて、
余計に「分かりにくく」なってしまう。
俺にとって「分かりにくい」という本質を抱えた何かを
誰かに伝えるときにできることは、
その「分かりにくい」部分を写実的や暗喩的に語ることで、
「分かりにくい」ままで伝えることしかできない。

それがジレンマのように自分の中にある。

「分かりやすい」ものが認められ、
評価される傾向にあるのだというのを見せつけられる度に、
俺は世間には理解されないのではないのだろうか。
という不安に陥ることがある。

けれど焔を燃やす。
不安を火種に表現へと向かう。
俺のストレートは他人にとってはとっても変に見えるかもしれない。

でもその変なのが俺にとっての直球なんだ。

JAM Projectの熱量

最近はロック熱が再燃中なのかJAM Projectを良く聴いている。
俺のなかでは勝手にB'zと筋肉少女帯の中間のような感覚になっている。
B'z的なものが一歩足を踏み外すと筋肉少女帯の方面に近づいてしまう。
そんな感覚だ。

カッコイイとは滑稽なことで、
滑稽とはカッコイイということが言えると思うのだが、
JAM ProjectはB'zと筋肉少女帯の間くらいな感じだ。

ロックの魂を直接爆発させるんだけど、
その熱量が強すぎて滑稽な方へ偏りすぎている。
そのロックという滑稽さに気づいて
より滑稽な格好良さを作ったのが筋肉少女帯だと俺は思っていて、
JAM Projectは子供の頃の熱血をそのまま歌う。
カッコ悪いとカッコ良いの境界線の上にいるよな。
ソリッドなスタンスだ。

それは滑稽かもしれないけれど、やっぱりカッコいいよなぁ。
と子供心の消えない俺は感じてしまう。
ライブDVDとか出てんのかなぁ、買ってみようかしら。
最近、武道館でやったらしいんで
もし映像化されたら買ってみよう。

(追記:土曜日05:57)
映像があるらしきことをYouTubeで発見。
どうやらDVDを買うことになってしまいそうだ。
映像はSKILLというスパロボの主題歌になった曲だが、
これだけライブ向きな曲だとは思っていなかった。
というよりもライブ向けの曲だよな、まさしく。
見所は三分後半からのループの煽り。
これぞまさしくロックのオーディエンスとの一体感よ。
無理やりむしり取られるエネルギー。
ここまでやられると燃えなきゃしかたないよな。
っていう暑苦しさを受け止められるようになった自分がいるねー。
ギターがさりげに元筋肉少女帯の横関敦さんなんだよなw

サマーウォーズを見たよ。

結構前にサマーウォーズを見に行った。
なるべくネタバレにならないように書いていますが、
あまり肯定的なことは書いていないので、
好きな人や気になっている人は読まないでくださいね。

映画としてのストーリーラインは良く出来ていた。
というか、まあ教則本のような丁寧な作りだった。
つまり斬新さはない。

映像はマッドハウスなので、
そこはもう流石と言うしかない出来栄えだった。

ストーリーで感動するのは当然で、
そこに対する設定の練りこみ方や、
人間関係や暗喩的な構造性というのはある。

しかし細田はやっぱりSFはやめた方がいい。
SF的な設定をないがしろにするくらいなら、
最初からSF的な世界じゃなくジブリ的な世界へ行くべきじゃないのか。
確かに複合的な文化形態を形成するために、
メインで劇が展開していく場所に近未来的な要素を持ち込むのは、
それほど間違ってはいない。
だから当然、家系や伝統といった過去を大切にする、
という重要なテーマを盛り込む意味も出てくる訳だが。
持ってきた近未来的な要素が破綻だらけだと、
現実世界の悲しい出来事に現実味が薄くなってしまう。

もちろんメインプロットがSFじゃなく
「人と人との繋がり」や
「過去から未来へ」であっても、
あくまでもサイエンスフィクション的な要素を入れたのだから、
空想科学的な考証がまるでなっていないのは頂けない。
説得力や納得力が不足している。

「時をかける少女」と同じように、
SF考証に力を入れるつもりがなかったのなら、
そのSF的な要素を作品に持ち込む意味がなかったのではないか。

しかしこの作品、結構いろんな所で評判が良いそうだ。

うーん、俺の観点とはズレているなぁ。

カバラ数秘術を読む

少々お恥ずかしい話だが、
俺は「占い」や「おみくじ」のようなものが好きだ。
他者の客観的視点から見た自分という存在に、
出会うことができるからだ。

これまでにも何度か占いをしてもらったことはあるし、
いくつかそれ系の本も購入したことがある。

最近ではカバラ数秘術という本を買った。

当たっているなぁと感心する部分もあるし、
それほど当たっていないよなと思う部分もある。
しかしそれは当然で、本質とは違う部分でも
何がしかの影響を受け成長していくのが人間だ。
自分が認識している部分とは違う部分を指摘されるのが、
占いの醍醐味のようなところでもある。

今回買ったカバラ数秘術の本に書かれていた内容と、
先日、天川村の天河神社でひいた「おみくじ」の内容が、
かなりの面で符合していたのが非常に興味深かった。

「占い」とかって信じる信じないが問題ではなくて、
その提示された資質や本質に対して、
自分がどのような姿勢で向き合うのかということだと思うのだ。
自我を捨ててまで占いに順ずる必要はないし、
自分の考えを信奉しすぎて
占いの結果を受け入れることができないのなら、
最初から占いなどする意味などない。

全てのことを意味あることにしていく為には、
自分の姿勢というのが重要なのだろうなと思う。

色々と勇気付けられる言葉も書いてあったし、
さて、俺がどこまで行けるのか俺も知らない。
どの本にも書かれていない。
だから俺は俺を記すために歩いていこう。

象牙だった僕

僕は象牙の記憶
最後の一刺しの末に折れた象牙の一本

随分と永い時を経た。

墓に入ることもなく、
貫いた敵の死骸と共に朽ちた牙。
それが僕だ。

一刺しのために象られた牙だったのだ。
その精神性が引き継がれている気がする。

僕は牙だ。
本来そのように使われるはずのなかった部位だ。
しかし意味を持った。

僕は僕を象る牙となろう。

「騎士は恋情の血を流す」と「ヴァルプルギスの後悔 Fire2.」

「ヴァルプルギスの後悔 Fire2.」
「騎士は恋情の血を流す」の2冊を読了する。

併せて読むと上遠野作品の世界すべてがリンクした。
ヴァルプルギスの後悔の方では、
魔女の印象のちぐはぐさの理由も分かり、
リキ・ティキ・タビの正体も明かされ。
果ては不気味な泡の黒い筒の人が何であるのかってことも、
なんとなく想像がつきはじめた。
MPLSの起源についても少しずつ言及されはじめた。
ビートや浅倉朝子も登場してクライマックス感が凄い。
ブギーポップシリーズと事件シリーズの親和性が高い話だったな。

騎士は恋情の血を流すでは、
久々にしずるさんとよーちゃんにも会えたので嬉しい。
ブギーポップシリーズとしずるさんシリーズが、
そしてソウルドロップシリーズが。
明確にリンクしはじめ大きな流れを作ろうとしている。
作品をまたいで描かれる多次元的な大河ドラマになっている。

しずるさんという存在は実はかなりミステリアスだ。
恐らくただのMPLSではない気がする。
あの病院でお姫様として君臨している、
というのは生半可な存在ではないはずだ。
安楽椅子探偵のような能力を発揮するが、
それは彼女の能力の本質ではないだろう。
モーニング・グローリーに似た力なのかもしれないと思っていたが、
もしかするとそれは彼女の性質であって能力は全く異なるのでは…

真に恐ろしいものは「理解できない」ものだ、というセリフがあったが、
とすれば、しずるさんは相当に怖いんだろうなぁ。
しずるさんがあまり死神を怖がっていないのは、
自分が世界の敵になり得ないということを「理解している」からだろうか。
はてさて魔女とお姫様のお話は交差していくのか…

ちゃんと毎回これからどうなるのだろうかとヤキモキさせる。
上遠野作品は子供の頃の待つ楽しみを思い出させてくれる。
様々な世界が混合されていくのはやはり楽しい。

それにしてもAmazonでは「騎士は恋情の血を流す」が、
発売前までは予約を受け付けていたのに、
現在は販売されておらず中古品のみが販売されている。
説明では希少品となっているが、
他のオンライン書店では定価で購入できる。

理由はいまいちハッキリとはしないが、
富士見書房と電撃文庫が揉めたとは思えないしなぁ。
帯にはっきり「しずるさんvs統和機構」と書いてる訳だし。

確かに地元の書店にも発売日には並んでいなかったが、
その代わりなのか、
ヴァルプルギスの後悔が発売日より3日ほど早く並んでいた。

Amazonで購入できないからって希少品というのは少々無茶な気がするが、
初版しか発売されないなんて事にはならないと思うが。

ちなみに「騎士は恋情の血を流す」は
サイズは文庫サイズではなく大判コミックと同じサイズで、
ハードカバーじゃないタイプだった。
分かりやすく言うとガンダムUCとかと同じタイプだ。
新書タイプに慣れると新書でも読みやすいが、
このタイプも好きなスタイルだ。

上遠野浩平は、
これでほぼ全ての書籍タイプで作品を書いたんじゃなかろうか。

終点を越えていく途上にて。

ごちゃごちゃ理屈をこねるよりも、
人間としての魂の揺らぎをこそ言葉にしたい。

自分が日本語という言葉を使うことを許された民だということに、
今更ながらに感謝の念を抱かずにはいられない。

二元論的な厳密な世界を求めるのは、
種族的な問題や環境的な問題、
宗教的な観念の違いなどがあるのだろう。

俺は日本語というのは
現象などに対する言語化は厳密に定義するが、
内的感情に対する言語表現に関しては
多義的で曖昧な言葉を望む傾向がある。
という風に考えている。

簡単な例をあげれば、
「面白い」という言葉には「おかしい」や「たのしい」という意味合いが含まれる。
しかし面白いという言葉は目の前がパッと白くなってしまうような、
新しいものに出会った時に人が出会う感覚の言語化なのだ。
だからこそあらゆる事象に対して多義的な用途が可能である。

外国人から見たときに日本は曖昧で厳密ではない。
というような感想を聴くことがあるが、それは少し的外れだ。
何かに大して厳密であるということは、
それ以外のことに対して排他的であるということでもある。
「ファニー」であろうが「インタレスティング」であろうが
「アミュージング」であろうが「エンターテイニング」であろうが。
すべて「面白い」という言葉で包括できる。

価値観に対して厳密さが必要となる理由もわかる、
それは多くの異なる文化を持ったものたちが共生しなくてはならず、
コモンセンスの枠を共有する為の必然的な価値観だったのかもしれない。

しかし日本とて、たった一つの民族から成り立った国ではない。
もちろん諸説はあるがインドネシア系の民族を祖とする
集団だったのではないかと言われる隼人族や。
日本の先住民族だったのではないかと言われる大和民族など。
他にもいくつもの文化形態や言語体系を持った民族が、
この日本という土地に集まり、
長い日々のなか戦をしたり和解しあったりし、
複合的な言語と文化の融合を果たした一つの形が、
当時の「邪馬台国」または「ヤマト国」ということになるのだろう。

その時に様々な言語体系を共有することになった民族たちが、
似たような音韻の言葉に複数の意味を持たせ多層化させたり、
逆に包括的な言葉を作り出して意味を統一させたりして、
共通言語としての日本語が誕生していったのではないか。
ということを俺は常々考えていて。

ヘブライ語と日本語の音韻の共通点の例や、
他の国の言葉と日本語の共通点などの例を見ていると、、
日本人というのが多民族的な
文化集合体であった可能性を示唆しているように思える。

だからこそ文字という文化が日本に渡来した際に、
日本人はまず音と文字の意味を結びつけたり、
当て字という言葉の意味性と音韻を重視した文化を形成した。
つまり全て新しい言葉を作って文化を統一するよりも、
本来ある音の言葉に文字を照らし合わせるということに意味を作った。
これは日本民族が開発した非常に高度な言語統括技術であると、
俺は言ってもいいだろうと思います。

これは並大抵の文化精神では達成できないことです。

新しく言葉や文字を自分たちの使いやすいように作る。
というのは人と人とのコミュニケーションを簡単にはするかもしれない。
伝わりやすい直接的な力を持つ言葉足りえるかもしれない。

しかし、言葉にすら魂が宿っていると信じていた民には、
いくら他民族の言葉であろうと、ないがしろにすることはできない。と。
そう考えていたからこそ「和」という共同体が出来上がったのではないか。

それでも争いは多く起こったし、
どこの国とも変わらないエゴによる不毛な出来事は、
この国も例に漏れず起こっている。

それでも「文化」だけは残り続けた。
それは文化というものだけが、
異民族たちでも共通して共有できる価値観になったからだろう。

異物を認めたくないという気持ちが人には根源的に備わっている、
しかし自意識というものを突き詰めたとき、
自分以外の全ては異物であるという結論にたどり着くし、
内面に降りていけば自己という存在の中にすら異物は存在している。
そうなると異物とは共存していくしかないのだということが、
動物の本能として分かったのではないだろうか。

だかこそ互いが同じように共有できる文化というものが生まれ、
言葉を共通言語とすることで、その中に多言語的な音韻を共有する。

そうすれば知らず知らずのうちに人々は和睦していく。
時代を重ねれば重ねるほどに、それは密接にドロドロに溶け合っていく。
それを混沌と呼ぶことができるだろうと思う。

そして混沌からは、新たな秩序が生まれる。
混沌と秩序は相補性を持った概念なのだ。
混沌なくして秩序は成立せず、
秩序という概念の中からしか混沌という概念は生まれない。
文化とは常にその混沌と秩序の出口であったのだろうと思うのだ。

そして日本語は、それ自体が文化であり、
意思疎通のための手段であったりする。

だからこそ日本人の「魂」を表現できるのは、日本語なのだろう。
そしてそう考えるならば日本語というのは常に完成しない言語なのだ。
異なる民族や文化、そして言葉と出会えばそれらを吸収し、
取り入れて自分たちの中で処理していく構造を持っている。
カルチャーミックスされていく。

厳密でない言葉だからこそ、
自分以外の「何か」に対して
精神的にはもっと厳密な感情を表現できるのではないだろうか。
文化や表現とは提示にすぎない。
それを受け止める相手がいて始めて成立する概念だ。

ならば言葉の壁などという言葉はナンセンスだ。
伝えようとする音韻さえ手に入れることができれば、
魂は振動し空気の海を伝道していく。

音と言葉とはまったく同質の概念だ。
こうして理屈をこねても、

たった一説のフレーズが全てを伝えてしまうことがあるのだと、
俺はさまざまなことから教えてもらったから。

ここで語る言葉とは俺の自己確認の為に過ぎないのだ。

先を見に行こう。
自分自身の孤独が世界と手を結ぶ時を。
そうありたいと願う人間でいたい。

社会とは、森と杜とは人にとって何であるか。

最近の記事を書いていて思い当たったことなんだけど、
「杜(もり)」という言葉はかなり面白い意味を持っていると思う。
「杜(もり)」は社会の「社(しゃ)」という字に非常に似ている。
俺は言葉の起源などもしらないし専門的な知識もないけれど、
社会という場所は人にとっては森のような空間である、
ということはその中で生きる一員として言えるような気がする。

「社会」とは人と人が森の中で偶然に、または必然的に出会うという、
一期一会のような精神観がすでに言葉自体に含まれているような感じ。

森とは、木々が溢れ、葉が舞い散り、虫や鳥が鳴き、
さまざまな生命が生まれては死に、生まれては死にを繰り返す場所。
そして、そもそも人もその中の一部だった。

しかし人は森の生命たちのように自然的な動物ではなく、
社会的な動物であった。
社会という概念が存在しなかった頃の感覚で言うならば、
同種内においてでも多種においても自と他という区別を他の生命よりも重視した。
それがゆえに人は森を出たのだと俺は思う。

つまり森という循環の中において、
自分たちが不純物であるということに気付き始めた者たちが、
少しずつ自分たちなりの「杜(もり)」を違う場所に築き始めた。
「気付き」と「築き」っていうのもいい関係性の音の言葉だな。
気付かなきゃ新しいものなんて築けないもんなぁ。

まあ、それは置いておくとして。
そうした流れの中で森の民としての本能が
自分たちがこしらえた「杜(もり)」に「社(やしろ)」のような物を造り、
土地の神のようなものを祭る精神が来ているのではないかと思う。

「社会」というのは人という種族が自ら作り上げた
独自のコミュニティとしての「杜(もり)」という空間を共有する場である。
という風に考えることもできるのではないかと思っている。

モチーフとして捉えるのであれば、
人が森から出て行き、自分たちだけの世界を作っていくという筋書きは。
キリスト教的史観で言うと、
知恵の実に手をつけたが故に楽園を追われた人、となるのだろう。

しかし森の民の心を忘れずに「社(やしろ)」を祭る心を持ち、
森を離れてしまった自分たちの杜の中にだって、
森の神と同じように杜の神が顕れてくれると信じた民だっている訳だ。

「社会」というコミュニティを人という種のみで成立させたのだと思いたいのは。
本当は人が神に見放されたからではなく、
森というコミュニティに属することができなかった疎外感が根本にある気がする。

それでも何かを信じて、何かを祭ることは、
世界と人という関係性の立体感においては非常に純真な感覚だと思うのだ。

「森」というのは言わば情報の集積のような場所であって、
生死混濁、感覚一杯すべてが圧倒的な情報である。

そして人が作り出した「杜(もり)」という場所もまた、
溢れかえる情報で一体自分がどこにいるやら分からなくなるような所で。
その中で疎外感を感じた人間はより小さなコミュニティで、
「引きこモリ」とう「モリ」に入っていったりする訳なんでしょうな。
それが「遮会」になってしまうというのは皮肉なもんです。
ジ・オッサンセンス。ル・ネッサンスみたいでいいね。

「社会」という言葉は。
「森」を出た人の「杜(もり)」の心を祭る「社(やしろ)」であり、
同時にその過剰な情報の中で、
出会うことのできた人と人や、
自と他の繋がりすべてのことを指している言葉ではないか。

人は人の力だけで森を築けるほどには、
俺はまだ生命の力を授かっていないように思うな。
やはり人と人の間で生まれる力だとか、
人と世界の間からこぼれ出る力だとかは、
神と呼んでもかまわない人以外の力の賜物だと思うのだ。

自然から見放されたのではなく、
人は自らにとっての自然を、自然から学び模倣していったのだろう。
これからその「杜(もり)」がどうなっていくのかは、
「森」にお伺いをたてるのが一番でしょう。
教訓を与えてくれるはずの森という故郷を、
無計画に伐採した文明がどのような末路を辿ったのか。
それは考えるまでもないことだろうと思う。

俺は別にスピリチュアルな話をしているつもりはなくて、
人は人のみで生きることができないのだから、
当然の流れとして人の杜を保つ為の最低限の協力者とは、
なんとか折り合いをつけてやっていくしかないじゃない。
ということな訳だ。

そしてそれはそのまま人の社会性というものにまで繋がっていて。
どれだけ人間社会という場所が嫌でも人は人なのだから、
人と付き合って行かざるを得ないという命題にまで繋がる訳だ。

それゆえに社会なのだ。
という社会観がないと、
人は社会という場所を都合の良い場所だと勘違いする。
最近の世間の動きを見ていても、
そういう根本が抜けているから社会という場所で甘えるのだろうと思う。

世界はそんなに優しくはない。
しかし、だからこそ全ての生命の生死に関して冷酷な平等さを持っているのだ。

じゃあ、そんな所に甘えられるはずなんてないよな。
っていうことに人間が気付かないと多分そんなに先は長くないかなぁ。
だからこそ、その世界が与えてくれるものは遠慮なく頂戴いたします。
という精神性にも繋がっていく気がする。

俺にとってはそれが世界の当然の流れであって、
その根本原理原則からズレていると違和感を感じたりする原因になるのだろう。

という所くらいで終わらせておくことにしよう。

いやはや自分の中でも考えがまとまっていない事を、
ブログにどんどんと書いていくというのは、
漫画家がネームを取らずに筆入れするような感じみたいで、
自己満足度合いが向上してちょっと良い気分になれるので嬉しい。
後で気付いたら勝手に加筆修正するあたりは、
もはや手塚先生の域だよなぁ、などと思う夏の夜更けでありました。

ドラッグというトリガー

クスリに飲み込まれる社会。
薬物薬物とうるさい昨今。
正直、大麻やMDMA、LSDくらいまでの物質なら、
他人に迷惑もかけないし個人で楽しむ分には好きにしろよと思うが。
けれど他人に迷惑をかけるような使い方をするから、
捕まってしまったんだろうなぁとも思うんだな。

シャブやヘロイン。
これはダメだ。
自分の意思でどうにかなるようなものではない。

家族の中にそうした薬物が入り込むと、家の雰囲気が変わる。
そしてまず家庭は徐々に崩壊し、
自分自身の身体にも無頓着になっていく。
最後には全てを失うような結果が待っている。

当然、全てに無頓着になり、「ソノ」事しか
考えられないようになっている時は、
自分なんてどうなってもいいと考えていることだろう。
だが人間なんてものは都合の良いもので、
自分に危機が迫ると他者に助けを求めるのだ。

そうした時に手を貸すことになるのが社会なのだが、
ここで逆転現象のようなものが起こる。
常に社会が自分にとっての味方ならば、
ドラッグに依存する意味はなく、
社会から隔絶されたドラッグの世界に溺れていた理由を見失う。

突き放すのも社会だったら、
救い上げるのも社会だ。

本当は勝手に突き放されたと感じて、
勝手に救われたと感じた人間と。
その周囲の世界があっただけという話なのだけれどね。

ドラッグに飲み込まれる人間がいる。
その人間を飲み込む社会がある。

ドラッグを温床とする世界がある。
しかし自分を失っていい世界など、どこを探したってない。

何故なら「自分」とはドラッグや
多くの人が呼ぶ社会なんてちっぽけなものとは
明らかに違う場所にあるからだ。
ドラッグでハイになろうが、どれだけ全てを忘れて快感に浸ろうが。
自分とは世界という繋がりあう無限の孤独の中で、
さらなる孤独を知る役目を持った存在であるからだ。
「社会」って言葉の意味を多くの人が取り違えている気がするね。

自分が「人間という社会的な動物」であるという特性、
原理原則さえ理解していれば。
あとは自分という孤独がどのようにして
社会と手を結ぶかのみを考えればいいのであって、
それはドラッグや宗教では答えの出しようがないものなのだ。

ドラッグ、宗教、そして派閥のようなものにはある特性がある。
それは「こんな自分でも認めてくれる」という
ネガティブな心的状況を発生させることではないだろうか。

そこで満足してしまう人間は、そこでおしまいだ。
ドラッグなんてものに人生を捧げるのなら、
最初からそんな人生はない方が幸せだったろうさ。

別に人生を楽しむ為にドラッグをやる人がいたっていいと思う。
それで他人に迷惑をかけることにはならない。
暴力団の資金源になるから社会悪?
税金納めてもらって赤字のハコ物行政やることは社会悪じゃないのか?

だから重要なのはルールではなくモラルだと。
ここでも口を酸っぱくして言わせて貰っておこう。

病んでいるのは人か、社会か。
ドラッグはただのトリガーにしか過ぎない。

B'z / イチブトゼンブ

久々にB'zのシングルを発売日に買ったなぁ。

なんだろうなぁ、この懐かしいような嬉しい気分。
別に名曲って訳じゃないのは良く分かるし、
音だって昔ほどに洗練されていない。

けれど、このシングルには、
今のB'zが出せるトップレベル程度の熱量が入り込んでいる。
新しい音楽の出口を探そうとして模索する若さがある。

チャレンジとは歳をとると出来なくなるのだろうか?
チャレンジという精神は歳をとることがあるのだろうか。
違うと思う。
新しいフィールドへと向かおうとする力、
それが「若さ」なのじゃないだろうか。

歳をとっても、それは決して失われないはずなのだ。
音楽の根源はそこにしかないはずで、
それ以外のものでは隠し様のないことなんじゃないか。

音楽のアイデアを得てくることをパクりと呼ぶか、
なんとか足掻いてでも新しい音楽の出口を探すための行為と呼ぶか。
捉え方は様々だろう。

しかし音楽には魂がこもる。
俺には消えかかっていた火がくすぶり燃えはじめている気がした。

法治国家と放置国家

ここ数年、いやもっと長い単位でか。
日本は法治国家という名の下に徐々に不自由な準備を整え始めている。

児童ポルノ法案などを筆頭に、
表沙汰になってはいないが多くの逮捕劇がある。
SMAPの某メンバーが起こした裸事件程度でも
警察が家宅捜索をできるような時代になってしまっている。
これは由々しき事態だ。
国家がヤクザ化してプライベートにまで侵攻しようとしている。
俺は自ら誰かを攻撃することはないが、
己の領域を侵す相手には容赦するつもりはない。

ルールだから国家の権力に屈しなさい。
でなければそのルールを変えられるように努力しなさい。
これが国家の主張である。
それこそが民主主義社会だと唱えるのだ。

違う。
それはルールという神によって縛られた一神教の世界観だ。
民の意思ではなく神の意思が優先されるのだ。
「言葉は神であった」とは良く言ったものだ、
文言に縛られるのが人間であって良い筈がない。
人は言葉の力を借りることはあっても、
言葉によって縛られる存在ではない。

日本では多数決が正義とされる。
しかし、国民を守る為に法案が作られたことは少なく、
その多くはプロパガンダであったり、
聴こえはいいが結果として国家に対して何の利益にもならない、
ザル法案や天下り法案がアホのように作られる。

多数決的な正義を覆すことができないことを知っている国家は
「ルールに従わないならルールを変えてみろ」と吼える。
貴様らがまともなルールすら制定することができないのだから、
そんなルールなど守ってやる必要がどこにある。

重要なのは人という社会的な動物が、
どのようにしてモラルという共通認識を積み上げていくかであって。
人が自らを縛る為の言葉の鎖をせっせとこしらえる様な事ではない。

しかもその鎖は本当に自らの意思で作られたものなのか?
俺は俺の「人間」を保つためになら、どんな物とでも戦うぞ。

面倒だから法律という文言をつくり、
あとはその文言どおりに機械的に人間が動く社会を社会とは呼ばない。
そんな国は法治国家ではなく放置国家だ。

俺は今の俺を作り上げてくれた
この国の民であることを誇りに思っている。

だからこそ人が世代を重ねてきた意味をないがしろにするような奴らを、
俺は絶対に許すつもりはない。
俺は俺の戦い方で戦い抜いてやる。

日々雑感、それを徒然に。それで訥々と。

ちょっとずつプレイしていたイースⅡをようやく攻略。
これでイースⅢのリメイク作「フェルガナの誓い」をプレイすることができる。
また少しずつのプレイになっちゃうだろうから、
攻略する頃にはイースSEVENは出ちゃってるかもなぁ。
まあ仕方あるまい。

さて今月は上遠野浩平の新作の
「騎士は恋情の血を流す」と
「ヴァルプルギスの後悔Fire2.」の二冊が発売される。
どうやらブギーポップの方も
「ブギーポップ ダークリー」というタイトルの作品が執筆されているようだ。

もはやこの人の執筆速度を止めることは誰にもできなさそうだ。

「騎士は恋情の血を流す」では
しずるさんシリーズとブギーポップシリーズを繋ぐエピソードが展開されるそう。
しずるさんとよーちゃんの出会いが描かれるらしく、
そうなるとどう考えてもソウルドロップシリーズとも繋がらない訳にはいかない。
だって、多分よーちゃんの家って、
ソウルドロップシリーズじゃ重要な位置づけの大富豪っぽいし。
騎士って単語は事件シリーズを思わせたりしたり。

上遠野浩平はついに全ての作品を繋げていこうとしているのかもしれない。

来月には松本人志の「しんぼる」も公開されるし、
10月のスパロボNEOは買うかどうかはまだ分かりませんが、
なかなかに楽しそうな日々が待っていそうじゃないですか。

俺だってこのままで終わるつもりはありませんぜ。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破についての考察

エヴァの新劇場版:破のネタバレを含む記事です。
見に行かれる予定の方やDVDで見る予定の方は読まないで下さい。
さらに言えば推論は雑なものですので、あまり信憑性はありません。



―――――――――――――。


さて序、破と来て、予告で次はQでQuickeningだということが分かった。
Quickenとは再生や急がせるという意味にも繋がる訳で、
Qと急はもちろん音でも繋がっている。
Coming Soonって意味合いも含んでいればありがたいが…

さて。
生き返るというのは非常に意味深い単語である。

今回のエヴァでは死海文書に公開されていない外典がある。
というセリフをゲンドウが冬月に言っていることや、
バチカン条約という一国の保有できるエヴァの数が限定されていることから、
ネルフの権限や知りうる情報は限られていると推察される。

さらに加持がネルフに持ち込んだのは、
テレビ版のベークライトアダムとは異なるタイプの存在である可能性。
「ネブカドネザルの鍵」と呼ばれていたが、
これは恐らくマルドゥク計画に関係のある鍵であろう。
ネブカドネザルとは奪われていたマルドゥク神像を
取り戻した古代メソポタミアの王の名だ。

ここでゲンドウの目指すシナリオの第一段階は達成されたはずだ。

ちなみにマルドゥクとは他の神の力を自らのものとする神とされ、
1神教的である癖に前提として他の神を認める存在でもある。

そして、それと同時進行的に初号機の覚醒シナリオを展開させたのは
ネブカドネザルの鍵が一体どうした存在だったのかを理解する必要がある。
ネブカドネザルの鍵とは、そのまま「マルドゥク神像」のことではないのか。

細かな情報を整理しよう。

第3新東京市のターミナルドグマ内にあるのはリリスと見ていいのか否か。
あれを明確にリリスと呼んだのは恐らくミサトだけである。
さて、では果たして新劇場版でセカンドインパクトを起こした使途は誰だったか?
これを推察する必要性がある。

始祖の天使と悪魔は4人だ。

アダムとイブ、そしてリリスとルシファー。
リリスとルシファーの子はリリンと呼ばれる。
ちなみにテレビ版の設定では人間はリリンである。
この辺りの設定が新劇場版とテレビ版では異なっている可能性も捨てきれない。

エヴァはリリンの手によってイブを再生させようと計画された存在だ。
その素体となるのは当然アダムでなくてはならない。
しかしテレビ版ではプロトタイプとして作られた零号機や初号機には、
ターミナルドグマ内にあるリリスが素体とされている。

ここで気になるのが月面にある謎の素体だ。
これは果たしてルシファーなのかアダムなのか、それともリリスなのか。

ゼーレが目的としていたのは人類補完計画による贖罪であり、
人を全て無に帰してしまうことで神にもう一度やりなおすチャンスを求めた。

ゲンドウはその計画を利用して、人が他人同士として
触れ合わなくてすむ全ての溶けた世界を望んだと考えられる。

シンジの母のユイはどんな形であれ人は生き続けるべきだと考え、
その手段として人類補完計画を選び参加した。
しかしまだ新劇場版ではユイがネルフの研究者であったことが、
明確に描かれていないような感じなのだが…

そして異なる遺伝子同士を結合させるロンギヌスの槍の力によって、
そのユイの遺伝子とアダムの遺伝子を結合させて生みだされたのが渚カヲルである。

そしてユイが初号機のコアとなり取り込まれ、
日本のネルフが所持していたリリスの遺伝子と、
恐らく補完しておいたユイの遺伝子を結合させて生まれたのが綾波レイだ。

ここで重要なのがエヴァにコアとして取り込まれた存在はサルベージできない。
という点である。

しかし、新劇場版を見た方ならお分かりでしょう。
スパロボ補正のかかったようなシンジ君が乗る、
覚醒したエヴァ初号機は綾波レイをゼルエルからサルベージして見せました。

伏線としてはハッピーエンドを迎える為の要素は十分に用意されている気がする。
ああ、地球が滅亡する前にエヴァが完結するのを見てみたい物です。
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