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感受

今は相対性理論のハイファイ新書の中の地獄先生がドツボだ。

今の俺は感受性がかなりのボルテージの所にあって、
どんなものでも普通以上に感動できる状態だと思う。

こういう時に曲を作らなきゃなぁ。
いくつかできてきたけど、まだまだ先がある気がする。
このままじゃ突き抜けないな。

爆発を。
突き抜ける勢いを。
信じられない奔流を。

俺だってサブカルチャーなのさ!

坂本真綾 / "WE ARE KAZEYOMI!"

坂本真綾のLIVE DVD「WE ARE KAZEYOMI!」を見る。
この超ド級の天才シンガーが背負っているものは宇宙よりも大きい。
この天才は、まだまだ伸びる。

音楽も声優も舞台も好きで、表現するということを大切にしているのに、
ライブに対して積極的になれない自分にジレンマを感じていたと、
本人が吐露するシーンでは勝手にシンパシーを覚えて涙腺が緩んでしまった。

このライブを契機に坂本真綾は
子役の頃から続いていた長い長い仕事の歴史の中で、
少し長めの休暇をとって一人で旅に出たそうだ。
これで恐らく彼女の立つステージは新しい段階に到達した。
覚悟を決めたのだろう。自らの歩んでいく道に。

ちなみに俺とは学年で言うと4つくらいしか違わないのに、
俺が4歳の頃から声優をやっている…
とんでもねえな。

どんな人であろうと一生懸命だったり、
ある部分で手を抜いたりする。
そこは確かにバランスをとる上で大切な部分なのだけれど、
己に対して真摯であるかどうかというのは非常に重要な点で。
彼女はその感性がとても優れていると思う。

一生懸命やるものに優劣をつけず、
己と世界に対して真摯に振舞ってきた人間の表現する領域は、
凄まじいものがある。

シンガーとしての表現力は、声優や舞台からフィードバックされている。
彼女の全ての行動は彼女の全ての活動に密接に繋がっていて、
どれかがメインではなく、すべてがメインなのだ。
彼女にとっては坂本真綾という人の人生そのものが
表現すべき物語なのだろうと思う。

敬服。

サマーウォーズで細田守の方向性が決まる。

細田守のサマーウォーズも見に行っておかなくてはなぁ。
と思っていたのだが、
流石にポストジブリという触れ込みはやりすぎだろう。

確かに「時をかける少女」をヒットさせたの事実だが、
俺の印象としては大林監督の「時をかける少女」とまったく違う世界を作ろうとして、
その上で何故かその世界とリンケージしていたりと、
ロジックが欠落した設定の作り方などはあまり評価していない。
それにやっぱり大林監督の「時をかける少女」は面白いんだよ。
あの作品を超えることはできていないよなっていうのは大きい。
映画的に。

そのかわり細田監督には独特の色彩感覚と空間力がある。
それは「時をかける少女」以前の「SUPERFLAT MONOGRAM」

という作品で見ることができる。
俺はこの映像で最初に細田守の映像に出会い、少し惚れたのだ。

それが「時をかける少女」になるとやけに設定や脚本が緩い。
しかし映像や独特の空気感の演出、
タイムリープ時の一瞬だけ自分のフィールドに引き込むセンスは上手い。
サマーウォーズの予告なんかを見ていると、
どうやら今回もそんなニュアンスをより明確に感じ取れた気がしたので、
ようやく細田監督が自分のフィールドで戦いを始めたかなという印象で、
巨匠と呼ばれるにはさすがにまだ早いだろうというのが俺の意見だ。

かなりプレッシャーをかけられているが、
細田守には確かにこれから何かが爆発するんじゃないかという予感はあって、
そこで潰れない奴だけが良い監督になっていくのかもしれないなとも思う。

なかなかに険しい道のりだが、そこは乗り越えて頂きたい。

相対性理論のハイファイ新書に完璧にやられる

革命は時代が求める。
音楽は新しい時代が始まろうとしている。

相対性理論のハイファイ新書を遅れ馳せながら聴かせて頂いた。
相対性理論は前作のシフォン主義を聴いていて好きな部類だった。

しかし、これほどの覚醒をするとは思えていなかった。
ハイファイ新書は世界にも十分通用する日本の新たなサウンドだ。
なぜこんなにもサブカルチャーを感じさせる病的な音の線が表現できるのだ。
しかも日本的な感覚のサブカルチャーが音で表現されている。

催眠効果を及ぼす歌詞と音の波がウネウネと惑わせる。
暗示的な言葉の羅列と、より怪しい色気を含んだボーカルの作る世界は、
このアルバムをハイファイ新書と呼ぶことが当然のように思えるほど、
音と融合する言葉の文学的な革新性が凄まじい。

そして音が表現しているのはサブカルチャーの漫画のような、
倒錯的で病的な線の魅力の感覚に思えて鳥肌がたつ。

これは音楽をさらに立体化させた世界だと気づく。
音楽には言葉があり、高い文学性を備えていれば、
十分に音楽は新たな文学的な表現媒体となりうるのだ。

まさしくハイファイ新書なのだ。
音楽に様々な要素を詰め込み多面的にすることで立体感が生まれる。
あらゆる面から自らの世界へ誘導していく。
飲み込まれてしまったらロジックの必要ない世界にたどり着く。
言葉によって言葉の意味が消えていく新世界だ。

言葉から逃れらることができない人間を、
「空」という概念に至らせるための導きの書のようだ。

教典のような哲学的な意味合いも含まれているのかもしれない。

言葉によって言葉の無為を説くように、
音と言葉によって自我と空の隙間を消してしまう。

散文的な言葉の羅列でさらに深い世界に落ちていく。

自らの音楽的な特性を活かすためにさらに洗練されたボーカルの冴え。

こいつは悔しい。
すごいよこの世界は。
俺がやりたかったことが、また先に凄い品質でやられてしまった。
悔しいけど、嬉しかったりする複雑な気持ちだ。

けれど革命の時代が、もう始まりの足音を大きくし始めている。
時代は変わるぞ。
時代がそれを求めたのなら。
それを求めているのだろうから。
生まれ始めているのだから。

JAM Projectを聴いている

初めてJAM Projectの曲をいくつかまとめて聴いた。
暑苦しいほどの熱があって久しぶりに半笑いで鳥肌が立ってしまった。
これほどまでにド直球のスポ根の熱量でロックやメタルをやられると、
もうネジ伏せられてしまっていいよなぁと心がポキンと折れた瞬間。
まさしくスポ魂とでも言うべき魂の奔流に飲み込まれてしまった。

真マジンガーの新主題歌の「守護神」が凄くかっこよくて、
他の曲もちょっと本腰いれて聴いてみようと思って聴いたら、
これがまた良く出来ていた。
影山ヒロノブはシンガーとしては少し辛い時期に来ていても、
ソングライターとしての影山ヒロノブは流石というセンスを持っている。

JAM Projectというのは凄く面白い集団なのではないか。
アニソンシンガーという枠の中で自由なコラボレーションをし、
アニソンシンガーだけが持つ特殊なまでの熱量を昇華してしまう。

なんだか懐かしい、いつだか知れないあの頃の熱が、火が。
自分の中に再び燃えはじめたようで嬉しい気分になれた。

これからはちょっとJAM Projectを色々と聴いてみようと思う。
カラオケで歌える曲が増えるといいな。

押尾学について

俺はあまり芸能人のゴシップとか、
ワイドショーが取り上げるような話題は好きじゃない。
下品なものは好きだが、下世話になりすぎると品格がなくなる。
一般に下品といわれるようなネタでも上手いものには品格がある。
しかし下世話なものにはとことんに品格がない。
そのクズっぷりを楽しむ感覚というのが
自分の中にあることも知っているので、
余計にそうした部分に嫌悪感を抱いているというのはあるかもしれない。

と、前置きしておいたところで。
押尾学の話に行きたいと思います。
その押尾学氏がLSDで逮捕状が出された、という話題ですが。
個人的にはそんなことはどうでもよくて、
やはり押尾学という人間は「とーっても面白い」んだよ。
ということを書いておいた方がいい気がするんですよね。

押尾学語録というものがありまして、
その中から個人的に気に入ったものを抜粋していきます。
若干つっこみなどもいれつつ。
注意:どうか腹はよじれないでください。

「俺はカート・コバーンの生まれかわりだ」
「カートが生きていたら、俺に嫉妬しただろうか」
「このアルバムができたとき俺はカートコバーンの生まれ代わりと思ったよ」

カートの生まれ変わりなのかライバルなのかは、この際ハッキリさせた方がよいでしょう。
拘置所でカートコバーンならどう言ったのかなどネタを繰っておいてほしいところです。

「虎舞竜なら13章かかるところも、俺なら2小節だから」
すごいです。

「遠藤ミチロウ、彼はなかなかクールだね。オレと近い空気を持ってる」
遠藤ミチロウに言われてたら成立する文法です。

「オアシスなんて、日本でいえばB'zみたいなもん」
「世界に同じ人が2人存在するが俺はオアシスの生まれ代りかもしれない・・・・」

もはや価値観がどうなっているのかわからない混沌の中に私はいます。

「押尾家は代々サムライの魂を持った家系」
「俺はアメリカ人。見てくれは日本人だけど、心はアメリカ人っす!」

サムライの魂はどこへ行ってしまったのでしょう
|-`).。oO(・・・)

「ニルバーナってナーヴァナのこと?
前はよく聴いたけど、今は自分の音楽やってるからね・・・
まあお疲れさま、あとは俺にまかせてよって感じ」

人を小馬鹿にして、逆に小馬鹿にされてしまう語録センスは最高峰です。

ああなんと素晴らしい語録の数々でしょうか。
我が子を「りあむ」と名づけてしまうあたり、
ただのミーハーお兄ちゃんにしか思われない変化球を投げるセンス。
僕のビッグマウスはリアムの受け売りなのさと、
バレても構わないかのような振る舞い。

是非彼には今後も日本のオアシス=B’z兼カートコバーンという、
もはや訳のわからない存在として生き残って欲しいと思います。
LIVは今度一度聴いてみようと思います。
俺の価値観が一変して、押尾学氏のことを神としてあがめられることを祈って…

始末に負えない面白さ、それが俺にとっての押尾学の凄さなのです。

「FUJIWARA」を巡るお笑い個人史

さて、今日は少し久しぶりにお笑いの話をしたいと思う。
けれど最初に断っておきたいのは、
俺は決してお笑いを評論できるほどのお笑い力をもってはいない。

それは、俺がお笑いが好きすぎて、
あまりブログでは記事にできないことから推察してほしい。
お笑いのことを語りだすと饒舌になりすぎるし、
自分でも制御できない熱量が
溢れんばかりの想いとなってキータッチを止まらせなくする。

そしてお笑いを語るときにどうしても、
アウトラインのような「お笑い論」を素人の自分が書いてしまう、
その傲慢さが芸人さんに対する冒涜になってしまうような気がして。
あまりお笑い関係の話題をブログで書きにくくなってしまったということもある。

例えは、ある芸人さんの事を好きだと言いたいだけでも、
あれやこれやと言葉を尽くしてしまう。
しかし本来、お笑いというのは
そういった視線で見られない方がいいと俺は考えている。
特に俺みたいなのを含む素人には。

今日、少し話題にしたいのは「FUJIWARA」のお二人だ。
今でこそ「元天然素材」という枠から出てきたベテラン若手芸人という、
独自のポジションを獲得した「FUJIWARA」。

ここからは俺の個人史になってしまうが、
当時の俺にとって「FUJIWARA」はどう映っていたか。

「FUJIWARA」はかなり大変だったはずだ。
「千原兄弟」を筆頭とする関西若手芸人が作り出した、
異様な空気の中に突然帰ってきた時はキツかっただろう。

若い俺は「FUJIWARA」の笑いを知らなかったし、
正直な所いわゆる都落ちした芸人が出戻りでデカイ顔してんじゃねーよと思っていた。
今ならデカイ顔をしているんじゃなくて、
フジモンの顔がデカイから
デカイ顔をしているように錯覚してしまったのだろうと思えるのだが。

そして時代の流れというのか、
いわゆる「ダウンタウンのごっつええ感じ」が全盛期で、
そこにナインティナインが勢いをつけてきた頃に、
元天然素材芸人vsダウンタウンのような構造が感覚としてあって、
ダウンタウンのセンスにやられていた少年だった俺には、
ナインティナインやFUJIWARAのような動きの笑いというのに、
少し抵抗感を感じていたのだ。
これはすぐ後にも書くが、実はお笑い好きの一部の
人間がなりやすい一種の病気のようなものなのではないか。

こうした感覚は、おそらくはドリフにカトちゃんが全盛期でいた頃に、
志村けんというまったく新しい才能が登場したときに起こった、
言わば「はしか」のような感覚現象の一端だと捉えればいいのではないか。

つまりそれが当時の俺のような人間にとっては、
「千原兄弟」と「FUJIWARA」の関係であり、
「ダウンタウン」と「ナインティナイン」の関係だったのだ。

なぜだか当時の若いお笑い好きの中では千原兄弟は、
ダウンタウンの意思を継ぐ流れの芸人だという認識があった。
当然それは2丁目劇場を再隆盛させたダウンタウンの再来、
という触れ込みで千原兄弟が関西で認知されはじめたからということもある。

しかし、それは今になって感じるのは、
自分の観点から見た「面白い現象」を作品へと変化させ、
冴えたセンスとパッケージ力によってあらゆることをネタにしてしまう部分。
ここの部分が松本人志と千原ジュニアという人に
共通してあるお笑い観なのかなと思ったりもするのだ。

そして若かった当時の俺は冴えたセンス、
飛びぬけた発想が作品になっているという衝撃に一発でやれれた。
自分の知らない世界、つまり感覚観というものが世界にはあると教えられた。

そのセンスにやられてしまうと、
「FUJIWARA」やいわゆる元天然素材芸人がやっている、
動きの笑いというものを幼稚だととらえてしまうようになってしまう。
しかしそれは間違いで。
「誰でも分かるおもしろいもの」を作品にしようとしていたのだと
自分が年齢を重ねてくればそれが分かるのだ。

そうすると「FUJIWARA」というコンビが挑もうとしている、
お笑いのポジションというのは非常にソリッドな場所なのだということが分かる。
原西さんのギャグは自分に対するハードルをより高く、高く持っていこうとする。
空気を作りさらにギャグに対するハードルをあげて、
「力技でそのハードルをねじ伏せていく」というスタンスを取り続けている。
「FUJIWARA」といえば柔か剛といえば「剛」の芸だと思われるだろう。
それは間違ってはいないが、その剛とはただゴツゴツとしただけのものではなく、
「剛柔一体」とでも言うべき鋭利な剛の技なのだ。
匠の業といってもはばかることのない芸の力なのだ。

当然、俺がFUJIWARAのことを良く思っていなかった時代にも、
FUJIWARAは今と同じスタンスで戦い続けていた。
「吉本超合金」→「吉本超合金F」というFUJIWARAがメインの番組があった。
ただ惜しむらくは俺の住む奈良の地域では、
テレビ大阪は見ることができなかった。
という若干の大阪人に対する嫉妬と共にFUJIWARAを敬遠していたという、
どうでもいい俺の個人的なローカル観を挟んでおこうと思う。

しかしもし超合金を見れていても、
当時の捻くれたものの見方を覚えた俺は小生意気にも、
恐らくFUJIWARAを批判してしまっていただろうなと思う。

しかしようやく俺も年をとり、
「FUJIWARA」の魅力の虜になりはじめている。
フジモンと原西という超強力な個性二人が、
抜群のコンビの相性を持っているというあたりにも感動を覚える。

フジモンの芸人として鍛え上げられた芸人力を、
テレビ芸として洗練させる瞬発力というのは素晴らしく、
一気に空気を掴む力を持っている。
そして原西もギャグや動きだけじゃなくトークもこなす、
しなやかな力を持った絶妙のバイプレイヤーだということが分かってくる。

そしてここで重要になるのが「雨上がり決死隊」の存在だ。
元天然素材芸人の中で最も「ダウンタウン」と距離を縮めたのは、
「雨上がり」でありそこから「ほっしゃん。」や「宮川大輔」といった、
ある一定の時期からの関西の若い世代はあまり知らなかった存在が
松本人志の交流から少しずつ認知度を上げていき、
俺のなかでは元天然素材といえば
「ナイナイ」「雨上がり」くらいが生き残り組だという認識だったのが、
「FUJIWARA」「チュパチャップス」という二組が現れてきて、
残るは「へびいちご」くらいになってしまっていた。

もちろん「バッファロー」は大好きだった。
しかし俺にとって難しいのは「バッファロー」は明らかに、
元天然素材である前に「バッファロー吾朗」という特殊な存在だったのだ。

個人的に「雨上がり決死隊」という存在が、
今のお笑い業界に対して残した業績というのは
図り知れないものがあると思っている。

当時の感覚としては、
ダウンタウンに認められてようやく全国区。
みたいな感覚が恐らく誰しもが持っていた感覚で。
雨上がりも当然その中から這い上がり、
今のポジションを勝ち取っていったのだ。

そして今の雨上がりは「アメトーーク」という番組で、
より強固に後輩をバックアップし続けている。
自分たちも戦いながら
後輩たちも一緒に面白いことを面白いとやりつづけよう。
という姿勢は「雨上がり決死隊」というコンビに貫かれた基本理念だろう。

人を笑わせたり喜ばせたりすることに喜びを感じる。
そうした基本的な精神構造を芸人というのはほとんどが持っている。
もちろん中には職業的に人を笑わせている人たちも沢山いるが、
芸人さんたちの中に貫かれる基本姿勢は
相手が笑って自分も笑っていられるような世界を求めているということだ。

何もはばからずに言えば、
その営みは世界中のどの宗教よりも、
素直に世界を謳歌する方法の体現者だろうと思っている。

それを言葉で語ってしまうことを、無粋というのだろうが。
たまには吐き出さないと我慢できなくなっちゃうから。

アルミニウムが透明に!

アルミニウムが全く謎の変化を![GIZMODE JAPAN]

アルミニウムを透明な物体に変質させた。
そもそも金属は光を反射させるはずで、
ほぼ、ありえないことが起こっているといってもいい。

これは恐らく物質の性質が相転移したことになると思うのだが、
もし、この技術が他の金属にも流用できることが分かれば、
人間は錬金術を完成させることができるかもしれない。

そうすると、ある問題が生じるはずだ。
それは過去の金本位制によって概念付けられた、
ニクソン・ショック以降も続く金の重要な位置づけを壊すということ。

国際通貨であるドルの価値は恐らく今後も下がり、
借金大国のアメリカは近いうちに破綻するだろう。
そしてユーロ圏も安定には程遠く、
ユーロが国際通貨としていつまで力を保てるかわからない。
中国も力を入れて人民元を国際通貨として使えるように
近代工業品に不可欠なレアメタルを大量に確保している。
日本は国内に集まった、レアメタルを使用した工業製品の残骸の中から、
再びレアメタルのみを抽出しリサイクルするという埋蔵金方式で
金に変わる希少金属のレアメタルを確保しているという状況だ。

そして最近ではドルの崩壊を予期し、
埋蔵量が変わらず価値が変動することの無い「キン」は
その信頼によって市場価値があがり、
保証された価値を保持する物質を求める世界にとって
金はより貴重な物質へと変化した。
国際通貨よりも安定した価値基準となる物質と考えているからだろうか。

しかしもし、これらの価値を保証する金属を
相転移的な変化で作ることを可能にしてしまった場合、
おそらく世界の価値基準が揺らぐ。
数千年以上続いた「カネ」という概念は、
いったいどのような方法で保たれるのだろう。

また、金の価値を上げて一儲けしようと考えている連中がいたとしたなら、
金の価値の暴落は織り込み済みの範囲なのかもしれないなと考えたりもする。

この、物体の性質が変化して違う物質になるという例は、
多くの大国にとって脅威ではないのかなぁ。

大型ハドロン衝突型加速器の実験停止は、
そうした様々な各国の危機感ゆえの結果なのかもしれない。
そしてタイミングを計ったかのように、
去年の実験中止から一年ほど経過した、
次の九月の末に大型ハドロン衝突型加速器の実験が行われる。
各国のバランス調整に手間取ったのだろうか。

これらの未来科学の登場のタイミングや、
それらが示す未来の世界には
国という概念が不要になる土壌が用意されている気がするのだ。
策略や謀略かもしれないとはいえ、
新世界秩序とは本当にそうしたものを求めているのか。

金融家たちが求める世界とは、
金の価値が融けてしまった世界なのだろうか。
欲望のベクトルはどこに向いている?

まだまだ計り知れないことは多い。
発想が飛躍してよく分からない方向へ行ってしまったなぁ。
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