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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破を見てきたよ。

今日はヱヴァを見に行ってきた。

ネタバレになるようなことは書かないが、
思ってたよりもかなり良く出来てた。

演出や構成が綺麗にまとまってて、
多少の読解力があれば
細かな部分まで理解できるように丁寧に作られている。
大衆に向けた映画的な演出というものを見せてもらった。

…ただ音楽の演出が少し空回りしてる感じ。
狙ったほどの効果は出せていない気がする。

今回のヱヴァは、
ブレンパワード以降の富野作品と通じる所がある気もする。
森田療法的なメッセージ性を感じたと言えなくはない。

はてさて。
また次までどれくらい待たされるのだろうか。
序から破までで2年近くは待たされたしなぁ。
ラストの公開は2011年とかかしら。

映画が終わってからも何度も思い出して、
頭の中で再生している。

仕方がないので序を復習しながら、
今後の展開をいろいろと妄想して楽しんでおくか。
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ヱヴァを見に行くも…

いやぁ、ヱヴァを舐めていた。

友人が見に行きたいというので、
公開初日のヱヴァのレイトショーに行く。

しかし早速、ヱヴァの壁の厚さを実感することになる。
そう。
レイトショーの癖にヱヴァは満員だったのでした。

パチンコ効果もあるのかな。

とりあえず明日もう一度リベンジすることに。

中学生の頃にヱヴァで並んだことを思い出した。
もうあれから10年以上たってるんだなぁ…

どろどろ宇宙

遠くの空に知らない宇宙が浮かんでいる。
あれを見ろ。
あの宇宙は揺れている。
降り注ぐ星空の爆撃が宇宙を振動させている。
言葉が足りない。
宇宙が少ない。
入り込め。
宇宙の外と内なる神に。

あの宇宙。
手に取れるほど大きな振動。
この宇宙。
こぼれ出すほど小さな秩序。

連綿と連理の枝となり
比翼の鳥はまだゆかぬ

時は時とて時らしからぬ
夢は夢とて夢らしからぬ
人は人とて人らしからぬ

コンセントの宇宙に。
バイタルの宇宙に。

遠くの空の知らない宇宙。
まだ見ぬ月日と混ざって溶けろ。

突破

どんなことでも。
過ぎ去ったからといって終わったわけじゃなくて。
頭のなかで反芻される多くのことが、
俺にとっては現在進行形の問題なのだろうと思う。
他人からすればとっくに終わったように思えることであろうと。

俺のなかでは過ぎ去っただけで、まだ何も終わっていない。

そういう感覚は誰しも持っているものではないだろうか。
終わるなんてのは自分がそこで終わらせたかどうかであって、
そこでいいと思ってしまった瞬間に終わってしまうだけの話。

終わらない。
日々は過ぎ去りながらも続いていく。
だから終わらない。
いつだって始まっている。

突き抜けていく。

自分を高いところに置ければいいのかもしれないけれど、
俺が一番、自分のダメなところを知っている。
乗り越えていくしかない。
そうしなければ多分、終わってしまう。
何もできないまま終わってしまう。

そんな人生はクソだ。
そんな人生を送る為に命を貰った訳じゃない。

頑張れるようになるまで、少し時間がかかったかもしれない。
けれど過ぎ去った時間は終わっていないと知った。
ならば、終わらせないように始めていくだけだ。

突き抜けていこう。

マンガを買う。諸星大二郎の西遊妖猿伝のサイズが気にいらない。

今日も今日とて本を買う。

RYUコミックの短編集とネムルバカでファンになった、
石黒正数の「それでも町は廻っている1~5」と「Presentforme」を購入。
それと山本直樹の「レッド3」、諸星大二郎の「西遊妖猿伝-西域篇-1」、
名前の表記が変わった望月ミネタロウの「東京怪童」、
オノ・ナツメの「COPPERS1~2」を購入。
あと浦沢直樹の「BIRRY BAT」も買ったのだった。

先月はライトノベルを読み漁ってマンガがあまり読めなかったので、
その反動なのか、今月はやたらとマンガを読む。

ただ諸星の西遊妖猿伝はワイド版で出して欲しかったなあ。
俺はそれまでの分は潮出版社のタイプで揃えていたので、
大唐篇として刊行された講談社版の大判コミックサイズのは買っていない。
やっぱり諸星はワイド版で読みたいし。
ワイドは大判コミックとは紙面から受ける迫力が圧倒的に違うんだよなあ。
視野が狭いと諸星の異質な世界観が薄れるというか、
あの変な線の世界への没入感が弱くなっちゃう。

そりゃ西遊妖猿伝の続きが読めるってだけでも嬉しいんだけど。
やっぱり欲を言えばワイド版での刊行を望みたい所。
一応モーニングの編集部にもワイド版での刊行を
お願いする旨のメールを送ったけど、多分ムリだろうなぁ…

せっかくの諸星の新作が大判サイズだと、
なんかすんげぇ損した気分になるのは何故だろう。
モーニングのコミックは基本的には大判サイズだから、
諸星だけ特別あつかいする訳にはいかないのかもしれないけど。
どう考えても諸星はワイド版がいいよなぁ。

文庫や普通コミックサイズの諸星マンガも持っているが、
やはり読んでいて一番いいのはワイドサイズだ。
ページを開いた瞬間、完全に異世界に連れて行かれるんだよ。

快眠

ストレッチを始めてから、
身体はまだまだ柔らかくはなっていないものの、
精神安定剤や睡眠導入剤を飲まなくても眠れるようになってきた。
血行が良くなっているからなのかもしれない。

短い睡眠時間でも深い睡眠を取ることができて、
非常に健康的な感覚。

ストレッチと睡眠が本当に関係あるのかは分からないが、
明らかに以前より眠れるようになったのは事実だ。
血行が良くなると脳に酸素も行き渡りやすくなるし、
睡眠の満足度が向上するというのも理にかなっている気もする。

まずはプラシーボでもいいので、
安定剤などに頼らずに眠れる身体に戻していきたいところ。

唯一依存している可能性があるものって安定剤くらいだからねぇ。

どうでもいいこと

今日は本屋さんで映像編集の本を買いました。
ある程度くらいはできるようになりたいもんです。

3000円以上する本を二冊も買うとドキドキします。

マンガも合わせて9000円もつかってしまった。
ちゃんと勉強しよう。
ムダにはならない。
ムダにならないようにすればいい。

ひまな文章だこと。

ゆめおいしずく

まるい まるい
ゆめはまぁるい
まるいそら

あおだかくろだか
あかだかどこだか
いつだかなんだか
わからない

きみがいる
せかいにさしこむひかりにとける
まぁるいゆめのそらのなか

だきしめるしつかんも
だきとめるしゅんかんも

まぁるいゆめは
ぐるぐる ぐるぐる
ぐぅるぐぅるまわる

あたまのなかからこぼれたしずく
にじいろまぁるいゆめのそら
あなたのなかへはいりこんだら
ななつのあいだのしらないいろを
ふたりでゆびさす
まぁるいせかい

ゆめはゆめゆめわすれぬように
まるはまぁるく
ゆめおいしずく

平然と潜り抜けろ!

なんか最近、俺の状況が周囲に気を使わせてばっかりいる。
申し訳なくなる。
確かに家の状況はあまり良い状態とは言えないが、
そんなのは他人様には関係のないことだ。

少しずつではあるが状況は良い方向へ向かっている。
たとえ一時的なものであったとしてもだ。

仕事を頂いている先方の社長さんからも気を使って頂いたり、
叔父夫婦からもやたらと気を使ってもらう。
嬉しい反面、ものすごく申し訳ない気持ちになる。

俺がもっと上手くやれたらいいのにと思う。
たぶん、必死にやっているように見えているんだろう。

どんな状況であっても、そつなく物をこなせる人間なら、
周囲にそんな風に余計な心配をかけずに済んだかもしれない。
できるなら頑張ってる感を出さずに頑張れる人間になりたいもんだ。
そんな所を目標にしなくちゃならないほどにダメ人間なんだろう。
これまで甘やかされて育ってきたのだ。

いくら大変だと言っても、
自分の時間はあるし。
寝る時間もある。
ご飯も食べている。
これで十分なのだ。

しかし、この十分をちゃんと上手く使えていないから、
周囲に俺が頑張っているように見られてしまう。
しっかりしろよ、俺。
情けない。

それに人に心配されると、
自分が凄く辛い立場なんじゃないかと思って心が折れそうになったりもする。
弱い自分が顔を出しそうになる。
甘えていいの?と腐った自分が鎌首をもたげる。
まったくブチ殺してやりたい程に度し難い。

己を律せよ。
背筋を伸ばせ。
頑張ろうとするな、平然と潜り抜けろ。

地球が覚醒する日

銀河系の中心にある巨大な太陽が活動を活発化させ、
地球の脳波とも呼ばれるシューマン共振に変化が見られているそうだ。

これまではアルファ波の領域だったシューマン共振のヘルツが、
ここ数年でどんどん増大してきており。
人間の遺伝情報に影響を与えると考えられているベータ波領域の
16ヘルツの電磁波を地球が発生するようになるのは近い将来の話のようである。

少なくとも2013年までには20ヘルツに達するとする見解もあるようなので、
今年や来年あたりには16ヘルツ領域に達するのかもしれない。

奇しくも星のめぐりが「うお座の時代」から
みずがめ座の時代」へと変わった時代。

永い眠りから覚めた地球と、
そこに住まう生命たちが新しいフィールドへと踏み出していくのかもしれない。

以前から精神論者が唱えていたフォトンベルト理論ではないが、
何かが変化していくかもしれないという予感は、
今の地球に住む生命が共通して持っている感覚なのかもしれない。

チベットの僧たちは2012年ごろから、
大きな戦争を契機にパラダイムシイフトのようなものが起こるだろう。
とも言っているようだ。

2012年といえば何を思い出すか?

そう。
マヤ暦の終わりである。

あらゆることが作為的に配列されている気すらする。

「新世界秩序の樹立を目的とする組織による謀略」的な歴史論であったり。
オカルティストたちの宇宙規模の精神論であったり。
宗教的な終末論であったり。

色んな言い方はあれど、
皆それぞれに似たような時代を指差し。
そこから何かが変化する気がする。
と言い合っているのだ。

しかし小規模であれ、大規模であれ。
何かが変化しはじめているという実感は確かにあって、
そして更なる変化がこの先に訪れるであろうという、
変な予感のようなものがあるのは事実だ。
地球の脳波に同調しているからなのか。
時代を超えて人が同じ事を言い続けていることへの、
時間を越えた集団催眠のような感覚に陥っているからなのかは分からないが。

けれど恐らくは何かが変わっていくのだろう。
もしも何も変わらなかったとしたら、
それは俺が世界から取り残されたということかもしれない。

そうならないように、
自分を高めておければ良いなと思う。

上遠野浩平 / 酸素は鏡に映らない

上遠野浩平の「酸素は鏡に映らない」を読了した。
これで書籍化されている上遠野作品は全て読み終えたことになる。

上遠野作品では初のハードカバータイプ。
読み終わって初めて「分かった」ような気分になる。
この本がハードカバーである意味が。

手に持ってみると見た目の分厚さほどの重みを感じない。
中を見ると行間はスカスカで余白が多い。
行間を詰めて改行を減らせば、
おそらくはこの1/3くらいの厚みに出来るだろう。
ハードカバーにする必要すらない。
しかし、多分それだと、
この小説の内包する意味性が希薄になってしまう。

いや濃くなりすぎてしまって、
希薄という意味性が薄くなってしまう。

と言い換えた方が良いだろうか。

視線が狭い幅で上下に繰り返し運動することによって生まれる密度、
これは小説においての重要な空気作りの意味を持つ。

ライトノベルが何ゆえライトノベルと呼ばれるようになったか?

それは恐らく文体が読みやすくなったからではない。
ライトノベルは一般の小説よりも改行が多く、
マンガなどの「ふきだし」に書かれた
短い文章を読むことに親しんだ若い層や。
視線の反復が多い
密度の濃い文章を読書することに慣れていない層に対して、
よりマンガに近い感覚で小説を読めるようにと作り出されたものではないだろうか。

しかし最近では逆に
マンガは視線の誘導や密度を考えて作られるものが増えてきて、
ライトノベルがマンガ離れした層の受け皿となってしまうような、
いわゆる逆転現象のようなものが起こっているようだ。

「酸素は鏡に映らない」も行間が広く、改行がとても多い作品だ。
しかし、この作品が持っている深さというか、
作品を読んだ人になら分かると思うが。
いわゆる「刺激」のようなものは。

一見重そうに見えて実はそれほど重くないハードカバー。
というパッケージで、その実、
一見軽そうに見えて実はそれほど軽くない内容。

である必要があったのではないか。
と思うのだ。

読み終わった人間だけが実感として捉えることのできる感覚かもしれない。
それとも「分かった」つもりにさせられているだけかもしれない。

しかし、内容は上遠野作品フリークにとっては垂涎の作品であることは間違いない。
こりゃすげぇわ。

新しい生命へ

今月か来月。
もう小学校の1年からの付き合いになる友人に子供が生まれる。
女の子だそうだ。

そいつとは長い付き合いで、
途中少し疎遠になったこともあったりしたが、
今でも仲良く付き合いをしている。
今日もちょっとした用事でその友人の家に行っていた。
帰り際に子供が生まれたらまた遊びに来てくれと言って貰った。

そいつは子供に俺の名前をすぐに覚えさせるんだと言ってくれた。

その一言だけで、
すぐに泣きそうになってしまった。

俺は感情を隠すのがあまり上手くなくて、
その一言だけで本当に泣きそうになってしまって、
笑ってごまかしながら
そういうのは苦手なんだと言いながら逃げるように帰った。

さぞ嬉しそうに見えたことだろう。
お恥ずかしい。

でも嬉しいんだもん仕方ないよ。
5歳や6歳の頃からの知り合いが、
今や子供の親になろうとしている。

その子供に俺の名前を早く覚えさせるんだと言ってくれる、
古い友人の気持ちが嬉しくて。
新しく生まれてくれる生命が嬉しくて。
お似合い夫婦で、家族が似合う家なのだ。
優しい心が集まる場所のような気がして、
そいつの家は凄く安心する。

生まれてくる子供にも、
その優しい心は受け継がれてくれるだろうと思う。

おめでとう そして ありがとう。
そう思わせてくれる友人が俺にはいる。
これは嬉しいことだし、凄いことだよなあ。

俺もそう思ってもらえるような人間でいたいな。

ストレッチ

筋トレとは別に、今日からストレッチを始めることにした。
身体の硬さは血行の悪さにも繋がっている気がする。
少しずつ身体を柔らかくしていこう。

別に健康になりたい訳じゃないが、
怠惰な自分への適度な刺激という意味では、
ストレッチや筋トレは効果的な気がする。

やる気の素みたいなのも出るらしいし。
ストレッチは入浴後の温まった体でやるといいらしいので、
筋トレ→風呂(半身浴で読書して積み本を処理)→ストレッチ。
みたいな流れが無駄がなくて良い。

程よい疲労があれば、
睡眠薬や精神安定剤も必要なく眠れるかもしれないし。

とにかく怠惰な自分を認めなくては。

頑張ればストレッチによって身体のチャクラを開くことも出来るかも。

「そろばん」や「絵の練習」によって頭のチャクラは少しずつ開かれ、
「筋トレ」や「ストレッチ」によって体のチャクラを開いていく。
さらに「自宅座禅」によってトランス状態への移行をスムーズにしておけば、
もう少し違った風に世界が見えるかもしれない。

これまでの人生では、
明らかに身体面での開放が足りていなかった。
頭でっかちで皮膚感覚や身体感覚での理解が足りていなかった。
身体中の細胞ひとつひとつは意識と連動する脳の一部なのだ。
頭と身体は脊髄によって繋がっている。

脳の天辺から尻尾の先まで、
人は脊髄によって繋げられた骨組みだ。
精神的なものを大切に思うがゆえに、
肉体的なものを疎かにしすぎた。
どちらも同じ領域のものなのだから、
肉体への理解をもっと高めないと、このままでは危ない。

恐らく身体に対して不感症になっていってしまう。

そうなると精神と肉体はさらに乖離し、
どんどん自分と自分の距離が開いてしまう。

目を閉じて体内で起こっている現象に対して集中すれば、
それが内的な実感として視覚化されたりする。
たとえ実際には起こっていなかったとしても、
内的実感として捉えれば、それは起こっているのと同じこと。
つまりストレッチや筋トレの効果アップにも繋がるはずなのだ。

それは脳内で起こる現象に対しても同じことが言える、
つまりイメージ力の精度をどれだけ高められるかだろうな。

こうしてブログに書かなければ、
自分に甘えて、やらなくなってしまうことは目に見えている。
やると決めたことは「書く」「言う」。
示し、申す。

そうすることによって実感力も向上するし、
誰かが見ているかもしれない、
ということで人の目を意識することにも繋がる。

色々とできない自分がムカつくので、
少しずつでも何かが出来るようになっていきたいと思う次第。
頑張ろう。

かくあるべきという人間関係を人間が語るなよ

すっげー変な記事を見つけた。

・友だち付き合いのうまい人、下手な人

俺こういう記事を書く奴や、
こういう記事を見て「はぁ~なるほど!そうなのか!」
と実際に実践する奴こそが
人間関係ってのを一番馬鹿にしてる奴だと思うんだわ。

なんで人間のことを理解できていない人間が、
人間を類別で分けようとするかねぇ。

それを誰が決めているんだ?って話。
決めている奴は自分の人間関係に自信があるんだろう。
自らの人間観察眼に絶大なる自信があるんだろう。
そんな奴の築いた人間関係なんて人間関係とはいわねーよ。

人間なんてのは、
自分のことすら分からなくて不安でしかたない。
ましてや他人との人間関係を築いていく不安から逃げてるような奴が、
本当の人間関係なんて築けるわけねーだろ。

もし自分の人間関係に自信がある奴がいるのなら、
それは完全に妄想って奴だから考え直すといい。

いつどうなってもおかしくない、
それが人間関係って奴だ。
でも人間である限り、その人間社会で生きていく以外にない。

苦しくならない人付き合いなんてものを求めるくらいなら、
最初から人付き合いなんてするなよ。
結局、自分が世界に対して閉じていることを認めたくないだけだろ。
それって。
ものすごい格好の悪い生き方だ。

よくこんな記事を書けたもんだ。
人間を馬鹿にしやがって。

彷徨う

すべては無意味だから、
人は色んなことに意味を見出そうとするのかもしれない。
それは闇の中で目を凝らす行為に似ている。

名前や生年月日や血液型。

占いでは、そうした自分では決めることのできない、
あらかじめ定まっていた運命のようなものに類型を求めたり、
それを通じて自分を探すきっかけにしたりする。

本来、無意味であるはずのそれらに、
意味を見出そうとすることによって、
人の世では本当に意味が生まれたりする。

闇の中で目を凝らすのは、
自分という主体があって初めて意味を持つ行為であって、
自分がもしも世界を映すだけの鏡だったなら、
それが闇の中に存在していても何の意味もなさない。

時には自分が闇の中の鏡のように感じられることがある。

けれどもし本当に自分が鏡ほど素直に世界を映すことができれば、
それは多分、光の中においてやる方が良い。
反射させるだけでも世界の輝きを増幅させることができる。

けれど、光の中だと光の素直さをすべて受け止めることができない。

鏡にもなれず、
主体も分からず、
結局、自分という訳の分からない存在に対して、
実は自分自身が最も懐疑的であるのだという、
無意味極まりないことだけが分かってしまう。

さまよう。

光の中を
闇の中を
道なき道を

分からないという道標だけを目印に
無意味なことに意味を見出していくように
さまよう。


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爆ぜる

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爆ぜる

頭の中で爆ぜる

何かが見える

見えた瞬間に見えなくなるものがある

光の明滅

繰り返す

闇の中の探し物

見つけやすいのは暗いから

暗い場所では目を凝らす

見える盲目と向き合えば

爆ぜる

狂ったような色彩の爆発

印象の断絶

気持ちの切り替え

何か頭がすっきりしない。
シャワーでも浴びて気分を切り替えよう。

あたま もやもや
けむり もくもく
とびちる しぶき は もやもや の もと
けむり もくもく
もやもや は かたち を かえて
ぼく と せかい に さいぶんぱい

気持ちは切り替わったけれど、
何か釈然としない。

奥井亜紀のライブで教えられたこと。

今日は奥井亜紀のライブだった。
TIME ARTツアー。
新曲の「窓」はイントロのピアノが芸術的だったなあ。

今日のライブは奇跡のような素晴らしさで、
本当に嬉しい時間だった。
俺にとって奥井亜紀って人は
誰よりも好きなシンガーソングライターの一人なのだ。
そんな人と握手をして一言を添えたサインを貰えるなんて、
俺はなんて幸せものなのだろう。
サインをもらう時はいつも何を話せばいいか分からなくなって、
しどろもどろになってしまう。
「ありがとうございました」と拙い当たり前の言葉しか伝えられない。

多分そんな人に巡り合える機会は
これからの人生でもそうはないだろう。
圧倒的なまでに天上の人なんだ。

だからいつか。
俺も。
表現者になれるよう。
貰ったものを反射させられるように。
少しずつでも前に進んで行きたい。

ライブ終わりに4時間、友人と二人でカラオケに行った。

少しずつではあるけれど、
それでも確かに前よりも出来ることが増えている。
あからさまにそれは結果として出ていて、
出来ないことも明らかに分かる。
ならばその苦悩に立ち向かい、
ひとつずつ、できることをやっていくしかない。

曲を作って。
歌を歌って。

そうして広がる世界を教えてもらった。
喜びの、愛の広がりを見せてもらった。
漂う結晶をまざまざと見せ付けられた。

感情が反射しまくるプリズムを俺は見た。

俺にしかできない表現を探していこう。
自分も知らない自分に成れたらいいな。
表現に人生を捧げたら神になれるかな。

表し、そして現すことは、示し、そして申すこと。
表現とはまさしく神のお仕事だ。
ひとつずつ増えていく、広がっていく自分の一歩。
ここでいいはずがないから、
見えない明日に近づくために、今日はずっと続いていく。

選んだ自分を導くような、
未来の力に引きずられていく。

彼女からは色んなことを教えてもらった。
もう止まりたくない。

奥井亜紀→筋肉少女帯

明日は奥井亜紀のライブだー。
楽しもう。
素敵なメロディを心に刻もう。

サプライズな曲はあるかなあ…

明後日は筋肉少女帯だ。
熱いな。

TIMEcARTRIDGEもシーズン2も名盤だ。
幸せな二日間。
うれしいな。

来月は新居昭乃たんも来るぞー!!
すばらしい。

ガングリオンなくなる

以前の記事で書いた。
左手首にできていたガングリオンがなくなっていた。
たぶん中で潰れたのだと思うが、いやぁよかったよかった。
積み本も仕事も少しずつ片付いている。
親父もそろそろ外出や外泊が可能なレベルまで回復したし、
問題が少しずつ消化されていっている感じだ。

でも、ここ数日はジョギングができていなかったり、
そろばんや絵の練習ができていない。
その上、メシの量が増えたり夜中にビール飲んだりと、
自分を甘やかした行為が増えてしまった。
ちょっと気合を入れなおさないといけない。

色んなことが楽になってくると、
簡単に状況や環境に甘えてしまう。
楽な方へ逃げてしまう。
楽しむことは悪いことじゃない。
全てを楽しもうと今年の頭に決めたのだし。

しかし、それで自分を甘やかすのは話が違う。

自戒せよ。
自戒せよ。
自戒せよ。

常に自己暗示の様に唱えていないと、
俺はすぐに自分を甘やかしてしまう。

背筋を伸ばして背負い込んだ重みをもう一度感じろ。
その重みを忘れようと楽な姿勢に逃げるから、
すべてを忘れてしまうのだ。
俺の覚悟の根源をもう一度見つめなおせ。
そこから始まっている。

地車

地車が轍を深く深く刻んでいく
土は跳ね、時は未来へと進むのに
轍は深く深く過去への道を刻んでいく

朦朧とする意識のなかで
私はある夢の中の景色を思い出す
遥かに風が吹き続ける小高い丘から
名前も思い出せない友人と駆け下り
最後には疲れ果て笑い転げ天を仰ぐ

地車が轍を深く深く、何か大切なものを刻んでいく
私はその大切さの意味をもう忘れてしまったのかもしれないと
なぜか凄く寂しい気持ちになって

友人の名前を思い出せないもどかしさに
少しだけ涙が出そうになる

本当にいたのかな。
本当にあったのかな。

そんな夢や現かわからない曖昧なものに
走る地車の振動が心をゆらゆらと揺らす
何故か涙はでなくて

ただ嬉しいような寂しいような、
よく分からない気持ちに落ちていく

ああ轍を眺めているのではなくて
私はこの重い荷物をのせた地車から
流れゆく景色の中に溶けているのだと思う

重い荷物を地車に乗せて
どこか遠くへ行こうとするのに
曖昧な故郷の想い出を夢見ていたのだろう

いつだって私は風景のなかに溶けている幻影のようだ

本の虫。

今日は息抜きの日。
溜まっていたマンガを沢山読むのだ。

これまで34巻で止まっていたハーメルンのバイオリン弾きも
Amazonで最終巻まで購入したのを先ほど読み終えた。
懐かしくもあるが、ラストは知らなかったので感動した。
続編のシェルクンチクも買わねばなぁ。

てかハーメルンって34巻以降って初版くらいしか刷られてないから、
古本屋で見つけるのは至難の技なんだよな。
この前、橿原の開放倉庫でセットで発見したが、
さすがに34巻まで持っているものに5000円は払えなかった。
37巻はAmazonのマーケットプレイスでもプレミア価格で1000円くらいした。
まあ、コレクションが充実したと思えば良いか。

積み本になっていたマンガも少しずつ消化しはじめている。
安永知澄のステップ・バイ・ステップ上下巻も読んだ。
片岡人生・近藤一馬のデッドマン・ワンダーランドも5巻まで読んだし、
里見蘭・槇えびしのDOLL STARも2巻まで読んだ。
6月中に読んだマンガの感想はまた7月の頭くらいにまとめて書こう。

今現在、溜まっているのは
黒田硫黄の「茄子」下巻。
黒娜さかきの「猫もっちり」。
小田ひで次の「拡散」上下巻。
浅田弘幸の「テガミバチ」7巻。
外海良基の「ダウト」1~3巻。
いましろたかしの「デメキング完結版」。
南Q太の「ゆらゆら」。
中山昌亮の「不安の種」全3巻
ぐらいか。

今日中に半分か1/3位は消化できるだろう。

それに新しく上遠野浩平の「酸素は鏡に映らない」も買ってしまった。
これで恐らく書籍化されている上遠野作品は全て網羅した。
ハードカバーは読みにくくてあまり好きじゃないのだが、
もうそんなことを言っている場合でもなくなった。
読みたくて仕方ない。
これはもうある種の病気だなぁ。

以前にも増してビブリオマニア具合が酷くなっている気がする。
青空文庫でもたまに読んだりしているものなあ。
知識欲といえば聞こえは良いが、
言い換えれば、ただの欲望だからね。
それに歯止めがきかなくなってきてる感じ。

マンガ喫茶では我慢できないんだよなあ…

バスカッシュ監督交代

バスカッシュの監督交代しちゃうのか。
いわゆるテコ入れでの変更みたいで
製作のスケジュールが逼迫してたってことみたいだけど、
これまでは結構たのしんで見れてたんだよなぁ。

まあ不必要なエロ要素とかは、うむむって感じだったけど。

大まかなプロットは当然決まってるだろうから、
後は細かな部分のディテールだったりするんだろう。
確かに11話の予告の作画はちょっと危なそうだったし、
本当にスケジュールは逼迫してたのだろうな。

真マジンガーが今のところは、
それほど面白くないってのもあって、
今期で期待できるSFロボものはバスカッシュくらいだと思ってたが、
監督交代でどういう影響が出るのか気になる所。

そういえば今月はエウレカ劇場版のDVDも出るし、
ヱヴァの新劇場版:破が公開になるのだった。
そっちを楽しみにしておくか。

SFアニメがもっと隆盛しないかなあ。

Dance on the "Edge"

単調な毎日を過ごしていると、
その中にある非日常性のようなものを忘れがちだ。

ふと気にすれば、
何かが突然「異質」なものに変貌してしまう瞬間というのに、
人は必ず出会ったことがあるはずなのに。

当たり前という概念の中に隠された、
かすかな違和感、異物感。
それを心地よいと感じることもあるだろうし、
不快だと感じることもあるだろう。

しかし、それは間違いなく日常の中に潜んでいて、
それを見つけようとしたり、それから目を背けようとしたりする。
人によってあらわれる形は様々だ。

そうしたことに無関心な人もいる。
無関心だからといって、そんな感覚と無関係でいられるかといえば、
これは全くそうではなくて、
その無関心こそが日常においての異質なものであると、
ふと自分で気付く瞬間もあるだろう。

自分という存在に対する嫌悪感や、
自分自身という異物を認識した瞬間の恐怖。

その違和感を他人に転嫁すれば、
世界は汚くて違和感だらけの場所になったりする。
これらは同じことだ。

世界の見え方を決めているのは自分自身なのだから、
世界全部が居心地の悪い場所に見えるのなら、
それは自分にとって自分が居心地の悪い存在だということだ。

気付くか気付かないかだけの差だ。
けれど気付いた所でどうということのないことだ。

だが気付かない違和感がついてまわる。
このままでいいのか。
この世界のままでいいのか、
今の自分のままでいいのか。
そんな違和感がねっとりと張り付いて離れない。

だから日常に異物を探す。
同類を探すように。

心のレイアウトが変わると、
その異物は一瞬にして宝物のように見えたりする。

気付けなかったことに気付くというのは、
幸せや恐怖と隣り合わせの行為だ。
ともすればオカルトやホラーになるし、
ともすればファンタジーやメルヘンになる。

人はいつも現実という刃の上でダンスを踊っている。
楽しいか怖いか、辛いか幸せか。
それを決めるための鍵はいつだって心の中に忍ばせてある。

忍ぶとは心の刃と書く。
心の刃とは、現実という刃と切り結ぶための武器なのだ。

「人」という言葉にはできない曖昧模糊とした存在と。
そこにある、というだけで実は漠然としている、
しかし厳然として存在する共通認識の温床たる「現実」とが対峙する為の。

いつだって、人は現実という刃の上でダンスを踊っている。
それ自体が十分に非日常的で違和感のあることだとは気付かずに。

ておくれ と いっておくれ 

どうして
なぜ
わからない

そういうところから
すべては はじまっていて

そして そういうことが わかったつもりになったときには
たぶん すべては とりかえしのつかないことになっている

ぎもん が うまれた とき に
たぶん すべて の こたえはすでに でてしまっていて

あとから そうしたことを そうだったのか

とりかえしのつかない じょうたいのときに しる

いや
なんということのない
おもったことを かいてみただけの
ただ それだけのこと なんだけれど

かんじ で かく かんじ になれなかったから
ひらがな で かいてみる こと に した

ひらがな だけ だと わかりやすいのかな
それとも わかりにくい の かな
それも わからない から
とにかく はじめてみる こと に した

もう とっくに ておくれ だったのかもしれないけどね

ここはどこだ!

静謐のアーク
聖櫃のカーム

そこは凪いだ棺
閉じた平穏

聖なる箱
静なる箱

羽ばたける翼
羽と異なる翼をもって
私たちは生れ落ちた

死した羽を束ねて翼にして
空の海を泳ぐ魚
大地の上を歩いて行くと決めた
翼魚人

両腕は抱きしめた人の死した羽を束ねる翼。
両足は大地を踏みしめ空の海を泳いでいく。

ここは轟々と鳴り止まない雑音の海
ここはびゅうびゅうと吹き荒ぶ風の空

死した静謐からは慟哭が生まれ、
生ける世界へ降り注ぎ全てを満たす。
閉じた聖櫃の中にしまいこんだ戒めの契約は遵守されず、
世界は未だに凪いだ平穏を手に入れられずにいる。

なぜ隠した。
なぜ画した。
なぜ写した。
なぜ移した。

同じ事を言っているのだな。
結局、生きているものには理解できないだろうと思いやがって。
ふざけるな。

貴様らだけが平穏を手に入れたと高い位置にいるから。
俺たちはこの地獄を謳歌してやる。

泳ぐために。
羽ばたくために。
歩くために。

世界には上も下もない。
ここが世界だ。

人とは大地に立ち、全てを受け入れていくのだ。
人が翼のように手を広げ、受け入れる覚悟をすると、
人は「大」という一人になる。

エゴでもかまわない。
貴様らが用意した世界というのはそういう場所だ。
ならその世界を住みよくしていこうとするのが人の役目だ。

一人とは独りではない。
一人とは、他者や世界と繋がろうとする心だ。
だから人は手を広げ、何かを受け止めようとするのだ。

俺はここにいる。

俺が求める以上の俺へ

俺の周囲の人には尊敬するべき人が多すぎる。
嬉しいことだ。

しかし同時に嫉妬する。

自分に課しているハードルが高くないと、
他人から尊敬されるような人間にはなれない。
だから俺が尊敬する人たちは、
自分の中のハードルを下げない人たちだ。
俺もそうでありたい。

夕闇に沈んでいく心の重み。

韜晦も謙遜もない世界へ。
あるがまま。
自分を見つめられる自分を求めて。

まだまだ足りない。
他人の褒め言葉や労いの言葉なんて必要じゃない。
自分が納得できる自分でありたい。

でなければ胸を張って、その人たちと話すことができない。

ありがたいことだ。
労いの言葉をかけてもらうことは。
嬉しいことだ。
褒めてもらうことは。
しかし、それで満足してしまっては、
俺は止まってしまう。

そこを目標にしている訳じゃない。

もちろん、労いの言葉や褒め言葉は、
例え嘘であっても嬉しい。
それを言ってくれる人がいることをありがたいと思う。

けれど俺は誰に恥じぬように生きたい?

そんなことは知らない。
自分が生きていくのに、
自分に納得のいかない人生のまま終わらせたくないだけだ。

誰かが敷いたレールの上に乗って、どこかへ運ばれていくのが嫌だ。

それが例えすべての人が運命というレールの上では、
定められたことから逃れられない存在だったとしても。

そんなものは知ったことか。
俺は尊敬される人間のようでありたい。
それは尊敬されたいからではなく、
尊敬される人の素晴らしさを知っているからだ。
敬われることよりも尚、大切なことがある。

上遠野浩平の世界

Amazonから届いたのは、およそ一ヶ月ほど前だ。
厳密に言えば恐らくまだ一ヶ月は経っていないはず。。。
その間に、

・ソウルドロップの幽体研究
・メモリアノイズの流転現象
・メイズプリズンの迷宮回帰
・トポロシャドゥの喪失証明

・殺竜事件
・紫骸城事件
・海賊島事件
・禁涙境事件
・残酷号事件

・しずるさんと偏屈な死者たち
・しずるさんと底無し密室たち
・しずるさんと無言の姫君たち

この以上の12冊。
もう読み終わってしまった。

これはいかん、面白すぎる。
上遠野浩平はまずい。
ライトノベルですぐに読めるとはいえ、
内包している情報量はとんでもない。
小説を読んでいない間に楽しめる情報量の凄さ。
反芻し、自分の中で構造を組み立てていく楽しさ。

さらに言えば普段から自分が考えているようなことを、
作品を通して言ってくれているという嬉しさや、
それを裏付けるような「あとがき」に感銘を受ける。
嬉しくて仕方がなくなる。

そう。
例えて言うなら「仲間」を見つけたような嬉しさ。
自分が世間や他人に対して言いたいことを、
作品という創作性の高いものを通じて、
ちゃんと言ってくれている人がいるという喜び。

勢いよく膝をたたいて、
「…っそうなんだよなあぁ!」
と感じ入ってしまうような、あの瞬間。

俺はもうさながら、
『この人はワタシの心を歌ってくれているわ』とかなんとか言って、
自分に都合の良い様に世界を理解する中2の妄想少女のようだ。

それよりはもっと確固たる意思を持っているつもりだが、
骨格としてはほとんど同じだ。
そして上遠野浩平の作品の恐ろしいのは、
それを許容してなお、与えるものを持っているということなのだ。
種を残す力を持っている。

もちろん「ソウルドロップシリーズ」だけでも楽しめる。
「ブギーポップシリーズ」だけでも、「しずるさんシリーズ」だけでも、
「事件シリーズ」「ナイトウォッチシリーズ」だけでも、
シリーズもの以外の短編ものとしてだって十分楽しめる。

しかし全ての作品を読み通すことで、
一つの作品を通して得られる深さがさらに増す。
作品が繋がることによって得られる立体感は、
恐らく、古今類を見ないほどのレベルに達している。
それは上遠野浩平ですら分からない深さの領域だからだろう。

自分が分からないことを
分からないと認めることができる作家は強い。
途中のまま終わっていくことに躊躇いがない作家は凄い。
物語として一応のカタルシスは得られるように、
それぞれを展開させてはいるだろうが、
もはやそんなことは瑣末な問題でしかない。

全てが繋がるが、
繋がったから終わるのか?
終わらないよ。
だって人が生きている限りは終わらないんだ。
文字にして書きたくはないが、
上遠野浩平は「人生の途上」を表現し続ける人なのだ。

人たるもの。
生きていれば、常に周囲から、
自分から発せられる何かを感じながら、
それを考え自分にとってそれはどうなのだろうか?とか。
他人にとっては無意味きわまりないようなことを、
ともすれば時間を忘れるほどに考えこんでしまったりする。

それを「作品」という形にしたてあげてしまえるのは、
もはやプロという以外に無く。

黒田硫黄の「茄子」という作品の中で
『プロってのは仕事以上のことをやっちまう奴なんだ』
という名言が登場するが、
まさしく上遠野のやっているお仕事はプロの仕事なのだ。

作品という枠に収めこんでしまっている部分から、
明らかに上遠野浩平という人間の凄さがはみだして、
恐るべき力をもって読む人間の心をかき乱す。

ジャンルとしての面白さも凄く。
哲学書としても、バイブルとしても、
構造概念を学ぶ意味でも。
とにかく、どんな角度からでも捉えることのできる深み。

表面だけをとって作品を読んでしまうような人には、
あまり面白くないのかもしれない。

俺はこれまでに何度か、
その作品を理解するために、
メモ帳などを開いて人物相関図や構造図などを作ったりした。
そこには当然、自分の推論なども含まれる。
俺は頭があまりよろしくないし、
作品にすべてが記されている訳ではないからだ。

上遠野浩平作品では事件シリーズでそれをやった。
それは作品内で長い時間経過によって、
人物の相関関係が複雑になっていくことで生まれる、
深みのある立体感を頭のなかで整理する為だ。

そして書かれないことによって、余白が生まれ、
残りの余白を自分の推論や想像で埋めることができる。
逆に言えば、そこに喜びを見出せない人には、
上遠野浩平の作品というのは、
説教くさくて観念的で、
小難しい文体を気取った作品にしかならないだろうなと思う。

しかし、はっきり言うが、
これはマンガやアニメでは絶対に表現できなかった、
個人による総合表現なのだ。

そしてアニメやマンガを否定するものではなく、
逆に言えばそれらによって培われた、
記号性や構造的意味性、暗喩的演出技法など、
多くのものを吸収している。
理解することと表現することはまったく違う領域の話しで。

作品を通して、それらを理解できたつもりになっても、
いざ自分の内面にあるものから、
それらの技法を用いて、さて作品を創ろうか。
ということになると、普通はまったく実践できないのだ。

それは頭だけでこねくり回すからで。
感情のベクトルがないままに、
頭でっかちな作品を創っても、
結局そんなものは自己満足にしかならない。
作品というのは伝えるものであり、
技法とはそれらを補助し増幅するものである。
感情なくして作品は出来上がらない。

しかし感情に赴くままに書くだけでは、
いつかは破綻するので、
バランス感覚としての理知的な理解力が必要になり、
それを作品に変換する能力が必要になる。

上遠野浩平がやろうとしているのは、
それらの能力が平均以上に求められる表現行為なのだ。

彼がライトノベル作家で良かったと思う。

マンガやアニメでこれをやろうと思ったら、
一人の一生では恐らく時間が全然足りない。
その分、短い言葉で立体的な情報量を構築する為の言葉選びや、
感覚言語を見つける労力を必要とするが、
創作者として上遠野浩平が選んだ道なのだ。

ファンとしては期待し続けるしかあるまい。

今日人

人の趣味を知りたいのは何故だろう?
自分の趣味を人に教えたいのは何故だろう?

たぶん、そこに人がいるからだ。

そして趣味には人があらわれる。
素直な音楽を好み、素直な言葉を好み、素直な心を持った人。
少しひねて、少し素直で、少し変わった心を持った人。

俺のように分からないことが嬉しくて、
あれやこれやと無軌道に手を出して。
それで自分が広がっているのだと感じ、
とりあえずの享楽や実感にふけりながら、
それでもそこから何かを見つけていきたいと望むのもまた。
何かの象徴であり意味性であり、
俺という記号をあらわす存在の証明になりうる。

そこには人がいる。

何かを通して人が見える。
表層的なものかもしれない。

しかし表層にあらわれるということは、
隠そうとしていたとしても、
それはその人の一部なのだ。

作品を通して人間関係というのは立体感を持ちうる。

誤解があってもいい。
齟齬があってもいい。
あってもいいから世界はここにある。

だって多分、嘘だとしても明日は来るのだろうから。

この世界が作られた世界だったとしても、
明日という概念は存在しつづける。
突き通される嘘がある。
それは奇跡だ。
誤解や齟齬がある。

苦しいことかもしれない。
けれど奇跡のようなことかもしれない。

何を言っているのかわからない?

わからなくてもいいんだ。
汲み取ろうとしてくれなくたっていい。
言葉が生まれた。

俺が生まれたように。
言葉が生まれた。

気配がする。

奇跡の気配がする。
ここにあるんだな、お前。

俺、ここにいるんだな。

明日よ。
俺はそっちには行けないよ。
昨日よ。
俺、そっちにも行けないんだ。
お前たちに可能性や意味を見出そうとしてやることはできる。

けれど今があるから。

俺、ここからいつも始まってるよ。

人を知って、世界を知って、自分を知って。
何も分からないことを知って。
知るという馬鹿馬鹿しさを知って。
自己嫌悪や変なプライドを持って。

多分、あたりまえに来るとみんなが思っている
今日っていう、昨日の俺にとっての明日を掴みにいく。

ぞっとするほど当たり前だ。

明日にぶつかる前から当たり前だ。
決まっているのは今という定義があるからだ。

あはは、何を言ってるか分からない。

強靭な狂人を気取って凶刃で今を切り裂いていく!

音色

かなしいひかり
人の想いが溶ける空

うれしいひかり
虹色のこえが響きあう

和音

裏と表のあいだ
とうめいのひかり

あざやかなせかい
すべて反射させて

心はわからない
色々の滲む虹のよう

全てあつめて燃やしてしまえ
虹の星
ここは太陽の海

音をとめて闇にしまえ
あらたな音になれ
とうめいのひかりを視るように
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