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うつ病の改善

いつからか。
俺はうつ病のような症状から開放されていた。
理由もなく死にたいと思うようなことは、
もうほとんどなくなった。
といっても、今の精神状態になってから、
まだ一年も経っていないだろうけど。

それには様々な要因が考えられる。
そのどれもが正解のようで、違うような気もする。
何がきっかけでその症状が改善されたかは分からない。

それに、いつまた自分がそのような状態にならないとも限らないけれど。

まだ心療内科で精神安定剤や
睡眠導入剤は処方して貰っているし、
それらを服用してはいる。

しかし、それは以前でも同じだった。

けれど、覚えている。
あの何ともいえない虚脱感。
世界も自分もどうでも良いと思ってしまえる諦観。

ただ、何かが変わり始めたのは、
去年の7月ごろだったような気がする。
その頃に俺は「不安の海」という記事を書いている。

自分という存在を世界に参加させようと決めた。

もしかするとその切欠は母の死だったかもしれない。
俺は母という存在に対し依存していた。
あらゆる面で。

俺が自立するまでの間、
当然のように家族というものは存在しつづけるものだと、
なんとなく思っていた。

だから自分の死に対して無頓着だった。
こんな自分が死んでも家族だけは悲しんでくれるだろうとか。
俺が抱える苦しみの少しでも理解してくれるだろうか、とか。
甘えた考えで自分の命を軽くしていた。
俺にとっての自殺とは唯一の自由であると信じていた。

しかし母が死んだ。
それは俺にとっての不条理ではなく、
母にとってのこの上ない不条理で。
悲しんでくれる家族がいることを母が喜んでいるなどとは到底おもえなかった。
悔やんでも悔やみきれない想いが残っている気がして仕方なかった。

俺はその母に対して何もしてやれないということを知ったとき。
そんな自分のことを殺してやりたいほど憎んだ。

しかし自分を殺すことが、
その俺を生み、育ててくれた母に対する冒涜であるという、
圧倒的なまでの矛盾に俺は気が触れそうになった。

世界とは常に何が起こるのか分からず、
自分自身すら分からないものを抱えていると知ったとき、
世界と自分は同じだと気づく。

不安におびえ、不安から逃げ、不安から隠れ。
そうするウチに不安に取り囲まれる。

飛び込め。
ダイブしろ。
不安の海へ。

そうすれば当たり前の世界が見える。
心の有様によって移り変わる世界の見え方もまた、
自分の心の鏡なのだと知る。

不安とは自分のことだったのだと思い至る。

自分に怯えて、自分から逃げ回っても、
人は自分からは逃げることができない。

生きていくのなら。
生きていくのだから。

何かに依存すれば自分と向き合わないですむ。
自分の鏡である世界の有様を見ないですむ。
しかしそんな世界は、本当の世界じゃない。

本当は本当の世界なんてものがなかったとしても。

もしも疲れたら、何かで息抜きをして。
生き抜いていこう。
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言葉では伝えられないものを、言葉によって。

なんか嬉しいことばかりが続いている。
こういうときは自分の気を引き締めて、
決してそれに甘えないように。
その喜びを享受できるだけの、
次への志をもって。

自分の創ったものを受け止めてもらえる。
それを歌いたいと言ってくれる人がいる。
世界が広がる。
狭い世界から眺めていたはずなのに、
こんなにも広がっていくのだと知る。

どうしてだろう。

惑わされない。
心は確かに受け取った。
反射した。

俺は沢山の喜びを貰いすぎた。
長生きはできないかもしれない。
幸せすぎる。

こんなに嬉しいことが俺に許されるのなら、
俺はその喜びをなんとかして、
傲慢かもしれないけれど世界に跳ね返せる人でありたい。

こんな俺でも。
こんな俺の創ったものを認めてくれる人がいる。
俺が尊敬する人たちが、それを認めてくれる。
それが口先だけの想いでないことなど、
確かめるまでもないことだ。

たとえ口先だけの言葉だったとしても、
錯覚だったとしても俺にその想いが届いたのなら、
それは想いが振動したのだ。

形のあるものだけを信じるな。

世界に象られたものの全てを人は記憶できない。
それは不確かなものだ。
現に視ているものを幻視する。

形がなくても確かに自分の中に実感として捉える何か。

世界は、それぞれの錯覚で回っている。
錯覚とは、誤解とは、人の抱える可能性だ。
その錯覚の方向性によって、
人は感情という形のないものを把握しコントロールする。

本当にありがとう。
色んなことにありがとう。

いつか俺がこの世界の上から
「在り難く」なることは約束されている。

だからありがとう。
溢れこぼれる全てを世界にお返ししていこう。
人が自分の虚無に溜め込めるものは、
世界の全てだ。
有耶無耶なものが世界の本質だ。

自分とは常にうやむやを抱えている。
それこそが自分の中心なのだ。

自分で自分を
「こういう人間である」と固定化させることは、
まったくもって勿体のないことなのだろうと思う。

虚無はうやむやになって、
確かなものを見つける力となる。

さあ、スランプなんて言葉に逃げずに、
誰も知らない言葉を捜しに行こう。

OSに求められるものとは?

とりあえずWindows7RCの日本語版のデュアルブート環境が整う。

確かに快速でVistaよりは使い勝手が良さそうではあるのだが、
マイクロソフト製品は発売されてから3年くらい様子見が必要。
ドライバが対応してなければ、これまで通りには使えないし。

使い方が革新的に変わるほどの改革は無し。
Vistaで失敗したことや出来なかったことの補強って感じかな。

とりあえずはインストールが楽な32-bitの方にしたけど、
6Gのメモリをフル活用するには64-bitじゃないとなあ。
まあ当面はXPを使うことになるだろうから、
たまに息抜き気分でWindows7の進化を楽しむことにしよう。

とりあえずこれから一年弱は無料で使えるわけだし。
余ってたHDDを有効活用するんだから無駄ではないわな。

GUIの向上心にはある程度評価をしてあげたいけど、
その前に全体的なインターフェースの見直しをして欲しい所。
Windowsというブランドが作った、
これまでの革新的なブラウジングシステムは見事なものだったけど、
そろそろゴテゴテと無駄なものが増えすぎて利便性に欠ける気がする。

OSも
マイクロソフト
リナクッス
アップル
というマリア体制から抜け出して、新たな時代を迎えなければならないのかも。

貰ってばっかりじゃねえぞ、おら!

同朋から言葉で心を貰い。
歌で想いを貰い。
そして今度は魔法を使える権利まで貰った。

頑張らにゃなあ。

現世はうつしよ。
何を映しておるのか。

それは鏡に反射する自分の見る世界ようで、
でも自分は世界を映す鏡だから、
現世とは何もない闇を映す鏡のような場所なのだろう。

わざわざ隠り世から移し世によって、
闇に映った世界を覗きに来たのだから、
何か見つけて帰りたいもんだ。

そこで何を見つけるのかは、
たぶんやっぱり己に委ねられる。

現世は映し世。
隠り世からの移し世によって映し出された魂魄の有様。

魔法の権利を委ねていただけるというのは、
人にとって真放と記す以外にない気がする。
そして俺もまた貰ったものを反射させられるだけの
真を放つ人でありたいと願っている。

パソコンエロ少年のいま

しっかしメモリを増設してから、
あれだけ落ちていたエクスプローラーが全然落ちなくなった。
CPUとかHDDの問題じゃなくてメモリ不足が原因だったのか?
しかし一応せっかく500Gの内蔵HDDを買ったのだし、
使わないのは勿体無い。
だからといって外付けHDDでもできるような使い方は嫌だ。

ということで新HDDに現在のHDD状態をコピーして、
旧HDDの方にはWindows7RCの日本語版をインストールすれば、
高校の時以来のデュアルブート環境になる。

当時は2000とXPのデュアルブートだったなあ。
あ、違う。
98と2000のデュアルブートだ。

今思えばお下がりのPC-9821ノートから俺のパソコン人生は始まった。
OSはもちろんWindows95だ。
どんな奴だったかなと思って検索していたら見つけた。
PC-9821Na15だ。
こいつには色々とお世話になった。
主にエロ関係で。
でもエロを機軸にスキルがついたことは間違いない。

初めての自分のパソコンと呼べるのは、
このPC-9821Na15で間違いないと思うんだが。
それ以前からパソコンを触ったことはあったし、
確か最初に触ったのはWindows3.1だった気がする。
一体何をする為の道具なのかがまったく分からなかった記憶しかない。

このWindows95搭載のPC-9821Na15と、
テックウィンとテックジャイアンが今の俺を育ててくれた。
といっても過言ではないだろう。
あと電撃王と電撃姫ねw
分かる人には分かると思うが
当時の若年PCユーザーエロ諸氏にはマストアイテムだったのだ。

パソコン少年だった頃から、
既に10年以上が経過してしまった。
頭の中はピンク一色ではなくなってしまったし、
パソコンの多機能性は、
我が生活において必要不可欠な要素となってしまった。

「分からないこと」が「分かる」きっかけになり得るのだと、
実感的に教えられたのはパソコンからだったかもしれないなあ。

自分が分からない世界に蓋をしてしまうと、
世界はどんどんと狭くなっていってしまう気がする。
なるべくレンジは広くとっておきたいものだ。

病星のロックスクイーズ 序章Part5

「さて、と。
じゃあこの辺で一息つこうか―

―ちなみに。
君は一体どういう形でロックスクイーズという技術を考える?
その辺りのことを休憩しながら聞かせて貰いたい。

荒土をエネルギーに変換する技術?
永遠の安住をもたらす技術?
全てを枯渇させる為の技術?

そのどれもが正解であると言えるし、
どれもが違うとも言えると私は思う。

人という不安定な種族が手にするものには、
常に様々な側面があるものだ。
それはつまり人という存在が何も知らないからだ。
技術というものを自分達の手で作り出してしまったが故に、
人は技術の意味を自分達で固定化させてしまう。

しかし人はあらゆるものを、あらゆる方法で、
あらゆる角度から捉えることができる。
ロックスクイーズとはつまりそういう技術なのだ。
今はまだ枯渇したエネルギーの
代替利用しか方法が模索されていないが、
いずれロックスクイーズ技術は、
その様々な側面を我々にもたらす事になるだろう。

当然、それを良いと感じるか、
悪いと感じるのかは人という種族に委ねられる。
善悪などという概念は、
今のところ人間以外には存在しないのだから。

そして人というのは常に誤解し合ったり、
先走ったりしながら生きていく存在だ。
善悪などという不確実なものに、
何も知らない不安定な種族は依存する。
全てを疑ってみても、
確かに残るものが普遍的に世界に満ちていようが。
そんなことには目を向けようともしない。

誤解するということは、そんなに良くないことだろうか?

私は変人、と人から呼ばれる。
だが困ったことに私は自分のことを変人だとは思えない。
当然。
一般常識という。
人間が顕在化した感覚的なルールブックのようなものは
頭にインプットされているから、
そこから照らし合わせて考えれば、私は変人なのだろう。
ということは分かる。

だからこそ多くの人が望むものも多く作ることができたし、
人が望まないであろうものも多く作った。
しかしそれはある種の世界への提示に過ぎない。

ただ一つ。
私が作ることができなかったのが、
ロックスクイーズという無限の可能性だった。

私は人を不死にもしたし、
この惑星に現存するあらゆる生命の種子を乗せて旅立つ箱舟も作った。
そして人という種に対する問いかけとして、
ロックスクイーズ技術をコアにしたアンドロイド―

―つまり君を作ったんだよアドム。
ロックスクイーズとは何か。
それが私には分からなかった。

人は私のことを天才や変人と呼ぶが、
ロックスクイーズ技術を生んだ、
セブンス・ヘッドウォール・イプスウェルという人間の方が、
私にとっては到底理解に苦しむ存在だったよ。

彼は果たして本当に人間なんだろうか?

ああ、君にはまだ早すぎる疑問かもしれないな。
それとも遅すぎる問いかけだったのかも。
答えは未来にあるかもしれないし、過去にあるのかもしれない。

その答えを探すのもまた悩めるものの宿命だ。

君には物を創るということを教えてあげなければならない。
その為には私は君が全てを楽しむことができるようにする必要がある。
だが、それには当然リスクがある。
全てを楽しもうとするということは、
常に苦悩を抱えて生きていかなければならないということだ。

その為に君の体内にロックスクイーズを組み込んだのさ。

さあアドム。
講義の続きだ。

ここにあるどれを使ってもかまわない、
君に似ていると思う存在を君自身が作ってみてくれ」

おまえ、普通か!!

最近、性欲が溜まるのが昔に比べて遅くなった。
その分、自分に性欲が溜まってきたのを感じる頃には、
もはやとんでもない普通のエロ野郎へと変貌してしまっている。

これはまずい。

俺といえば変態。
そうイコールで結ばれていた時期が確かにあった。

エロい俺が好きなツレが好きだから。
いつも俺はエロでありたいとそう願っていた。

しかしそれはクリーンなエロだったのだ!

人に話すことのできるエロさだった!
いや他人が聞けばドン引きするようなことであっても、
俺はカラっとしたエロトークをお見せすることができていた!

だがしかし。
今の俺ときたら何だ!

最近の俺は変態じゃなくなっていた!

ただケツのでかいだけの女を見ただけで!
やれ
「チンポを挟んでみたいな~」だの!
「レタスを挟めばハンバーガーみたいかな~?」だの!
「こちら揺れるケツ肉のホワイトソース仕立てでございます」だの!
「ケツ好きだからと言って乳が小さくても良い訳じゃないぞ!」だの!

これじゃただのエロい奴じゃないか!

俺はもっと変態でありたい!
俺は彼女の目の前でいきり立つ逸物を見せ付けながら
こう言うべきだった!


「勃起ュス!!」



おまえ、普通か!!!
おま、それ普通か!
おまんこにそれ入れろ!もう!!







って、言ってもらいたい。

病星のロックスクイーズ 序章Part4

オイラは月でレアメタル精製の仕事をしている。
もともとは地上でロックスクイーズの原料になる荒土を採掘していた。
仕事をしなくちゃならないってことはオイラはロボットな訳で、
アドロムさんたちとは見た目も役割もちょいと違う。
ただオイラは不良品で、
他のロボットたちよりも人間に近い論理思考を持ってしまったみたいだ。

今は中空艇のイプスウェル家に召し上げられたエイミーにそう言われた。
エイミーは当時確か300歳くらいだったけど、
人間にありがちな絶望の病気になっちゃってた。
月にしかない自殺因子を自分に埋め込む為に、
オイラの住んでいるロボット街まで自殺因子を取りに来ていた。

エイミーは他の人間たちに比べると、
絶望の病気(人間達は諦観症と呼んでる)になるのが少し早かった。
その時のエイミーの姿は今思い出すだけでも、
ちょっと見ていられなかったなあ。

「私達って、多分生まれた時からとんでもない罪を背負わされてるの」

溜息混じりにエイミーはオイラに言ったけど、
オイラには善悪の判断はプログラムでしかできないから、
オイラはオイラの思ったことをエイミーに言った。
そしたらエイミーは驚いたような顔をして、
少しだけ微笑んで、オイラにバイバイと言って去っていった。

オイラはプログラムにバグがあった出来損ないのロボットで、
だからこそオイラは思うんだろうけど、
人間だって多分ほとんどが出来損ないなんだ。

ロボットは自分で死ぬことを許されないし、
ロックスクイーズ技術が無くならない限りは、
人間と違って永遠に働き続けなければならない。
もちろんロボットだから人間と違って疲れもしないし、
仕事に対する喜びという感情をプログラムされてもいる。

だから仕事を嫌だとも思うこともない。

けれど論理的に考えれば、
将来的には地球も月も周辺の宇宙も。
すべてが自分達の技術によって食い尽くされてしまうなんてこと、
何百年も生きていれば気づいて当然なんだ。

かつて地上には森があり、水があり、
その上を人間達が幸せそうに歩き回っていたのだそうだ。

オイラは思う。
その幸せが今の世界を作ったんだと。

エイミーが絶望したのは、
人間と呼ばれる自分が、
この世界を元に戻せないほどに荒らした一族の末裔であるということ。
そして恐らくはアドロムさんたちのような、
かつての人間の姿を模して作られた存在と、
今の人間達とのあからさまな姿の差に、ではないか。

アドロムさんたちは、
かつて人間が地上を歩き回っていた頃の姿と同じ姿をしている。

オイラたち作業用ロボットは効率的に作業を行うために
担当する作業ごとに外装やユニットを交換するので、
外見はよく変化してしまう。

人の姿を模したはずのアドロムさんたちは、
今の人の姿とはまるで違う姿になってしまった。
人間は環境に合わせて外見を変化させていくから、
どちらかというとオイラたちロボットに近いのかもしれない。

アドロムさんたちはアンドロイドだから、
外見も変化せずロックスクイーズ技術によって生き続ける。

原始アドロムであるアドム様が生まれた神代から、
生き続ける神族と呼ばれる方々でも環境の変化によって、
その外見は元々の姿のままで保たれているのは稀な例だ。

エイミーが召し上げられたイプスウェル家の方々は、
家族それぞれによってお役目と休眠を繰り返して、
なんとか本来のままのお姿を保ちつつある神族の中の一つだ。

中空艇は地表監視システムとして常に灰雲海を飛び続けている。

ロックスクイーズ技術によって、
地球の直径は年々減少傾向にあり、
中空艇の地表監視システムなくしては、
月と地球の重力バランスがとれなくなってしまっているのが現状だ。

オイラは月で採掘したレアメタルを精製して、
地球の重力バランスを取るためのアースボルトにしている。

地球は宇宙と地下を繋ぐ軌道エレベーターの超圧力と、
アースボルトによる宇宙磁場受信によって得られる重力で保たれる。
なんだかごまかしてばっかりで、
本当の問題は棚上げにされている気がして仕方がない。

そんなことを言ってもメンテナンス工場ではバグだって言われてしまう。

オイラの今の興味は原始アドロムのアドム様に会うことだ。
アドム様は一体何の目的があって地上を歩き回っているのだろう。
オイラには想像もつかない。
バグだって言われるオイラにも想像できないようなことを、
原始アドロムのアドム様は平然と続けている。

それもとんでもなく長い間。

荒土採掘の仕事には戻りたくなくないけど、
なんとか地上に帰れる方法はないものかなあ。

最近はそんなことばかり考えてしまう。
仕事は楽しいものだけれど、
オイラにとってはアドム様に会うことも大切なことに思えてしまう。

そういえばエイミーが仕えている
ジム・レッグウィング・イプスウェル様というイプスウェル家の三男のお役目は、
アドム様との面会と、新技術の開発だったと聞いたことがある。
他にもお役目はあるみたいだけど、
それは最重要特記事項とやらで教えては貰えなかった。

オイラがエイミーやジム様たちを、
過酷な地上の環境障害から守る乗り物になれば、
もしかするとアドム様に会えるかもしれない。

思いついたと同時にオイラはすぐ現在の職場を離れる手続きをし、
イプスウェル家にいるエイミーに連絡をとった。

そろばんスゲー

数日前から「そろばん」を練習しているが、
「そろばん」ほど良く考えられた計算機はないかもしれない。
速度や精度はまだまだだが、
ゆっくりやれば6桁の5行計算くらいは楽にできるようになる。
とはいえ今はまだ加算くらいしかできないけど。

これを反復していれば暗算はすぐにできるようになるかもしれない。

手先を動かしながら
頭の中で簡単な足し算や引き算を繰り返し図形化していく。
総合的な計算など一切やらない。
珠を動かすだけだ。
そうするだけで最終的に電卓と同じ答えが出るのだ。

処理速度はまだまだ遅いが、
それは反復練習によって培われるものだ。
さらにその反復を繰り返せば、
頭の中でそろばんを弾くことができるようになるはずだ。

なんとも良く出来た装置だ。

何事にも始めるのに遅すぎるなどということはない。
もっと若いうちから始めていれば。
なんていう風に諦めてしまうのは甘えでしかないよなぁと思う。

常に自分に言い聞かせていないと、
人間なんてすぐに自分を甘やかしてしまうからな。
どんなことも遅すぎるなんてことはないし、
逆に、どれだけ早くやっていようが、遅すぎたと感じる時は来る。
誰かと比べるから遅く思ってしまうだけだ。

自分の中で何かを始めるのに、
遅すぎることなんて何一つありはしない。

「できない」という歯がゆさへの言い訳でしかないんだな。
所詮そんなもんは。
頑張れば大抵どんなことだって出来るようになってるもんだ。

できないってのは頑張ってないってことに他ならない。
できないことへの苦悩なんて誰もが通る道なんだ。
頭がどうにかなるほど苦しんで苦しんで。
ひとつずつ、ひとつずつ何かが出来るようになっていく。
壁にぶつからないと、壁があることなんて誰にも分からないんだし。

追記(2:00)
というか長年使ってなかったから忘れてただけで、
そろばん使えば10桁の10行計算だろうが、
時間をかけて丁寧にやれば絶対に間違えないよな…
当たり前のことだったのか。
これを暗算でやれるようになったり、
凄いスピードでやれるようになるまでが大変なんだろうな。
単純な計算でもいいんで、
頭の中にそろばんが出現するくらいまでは頑張ろう。

心、ありがたく

心をもらう。
言葉という不確かなもので、
確かな「心」をもらう。

伝わる。
人が云う。
伝われと人が云う。

言葉を使って人が云う。
でも言の葉は想いの欠片だ。
大樹の葉の一枚に過ぎず、
大樹は大地を温床とする一本に過ぎず、
大地は葉を散らす大空の重さを量る一つの球に過ぎない。

しかしそれらは、すべて有機的につながりあう。

だから伝えようとする意思には、本質が宿る。
心のやりとりをやっている。
いつの時代も、どこの世界も。

人なんてのはそんなもので、
その人なんてものは世界の中でしか生きていないのだ。
ならば世界は人と同義だ。

伝わりきらない想いは足りない?
それとも余分?
噛み合わないから加味しあう。

今日は言葉で心を貰った。
生きているっていうのはいいことだ。
俺もまた言葉を尽くして、
伝わりきらないはずのことを不毛だなどと思わずに続けていく。
そこには無限の可能性がある。

たぶんそれこそが世界のすべてだ。
俺にとってはそれでいい。
狭く閉じた世界から、どこまでも遠くに飛翔できる。

あふれ出る想いが伝える意思なのだとしたら、
それはそこに「在り難かった」意思なのだろう。
加味されたそれぞれの余分が世界を立体的にしていく。

人が云う。
伝えたいと人が云う。
伝えて欲しいと人は云う。

想いを乗せた声で空気は振動し、
空を想いの架け橋とする。
空想だと空虚だと人は言うかもしれない。
カラダというカラはソラをすいこむカラッポのカラだ。
空虚とはまる鏡のようなものだ。

ありのままの世界を受け止めるための状態だ。

誰もが見ている世界を映す鏡を見るとき、
人は自分の主観から抜け出したりはできない。
絶対的な客観性などというものは、
自己という存在に縛られている己には獲得しえないものなのだ。

だから世界が必要であり、
世界は多くを必要とする。
秩序だった営みの中に多くの混沌が溢れる。
混沌のなかから新たな秩序が生まれていくように。

人と人の意思の疎通というのは、
そうして伝え合い誤解しあいながらでも、
理解しあいたいと望む心にこそ骨格があるのだろうと思う。

己の心を忌むべきものとするか、
意味のあるものにするかは。
これから自分が人生を賭して確かめていくべきことだ。

ありがたく。

メモリってすごいね。

WindowsXPの32bitでは最大メモリ使用量が4Gしか使えないということを知ったが、
しかしそれにしたって、メモリ増設による日常作業の高速化には目を見張る。
正直、これで新しいパソコン買うまでかなり持ちそうな予感。
残りの2Gを一時ファイル保存用のRAMディスクとして
使うこともできるようだが、まだどうしようかは悩み中。

HDDの引越しの方はまだ終わっていないが、
メモリが思わぬ働きをしてくれているので大変助かっている。

作業速度の向上には持って来いかもしれん。

プラシーボかもしれないが、
エクスプローラ関係の挙動も明らかに速度向上してる気がする。

他の作業時にも体感できれば、
これまでのフラストレーションが解消できるかもしれない。

奈良の電気屋さん戦争

先日HDDの調子がよろしくないので、
ネットで内蔵HDDを購入しておいたのが今日届いた。

忘れてはいけないと思い接続用のケーブルも注文しておいたのだが、
間違えてスリムラインSATAというケーブルを注文してしまう。
オイラのドライブはスリムラインには対応してない。
なんてファック!
仕方がないので地元の電気屋さんでSATAケーブルを探す。

しかしこいつが思わぬほど難航。

近くにあるケーズデンキとヤマダ電機には置いていない。
内蔵のHDDを販売してSATAのケーブルがないのは不親切だなぁ。
ヤマダ電機に至ってはSATAケーブルはないくせに、
2.5インチのIDEケーブルはおいてやがる。
品揃えのセンスなしか!

苛立ちつつも少し足を伸ばして遠くまで行く。
最初に行ったのがミドリ電化。
ここもSATA対応の内蔵HDDを販売しているがケーブルはなし。

内蔵HDD入荷しているってことは、
内蔵HDDの需要はあるということだろう。
それなら少しだけでもいいから、
SATAのケーブルくらい入荷しててもいいんじゃね?

「シリアルATAのケーブルって置いてますか?」
と聞いてすぐ理解してくれたのが
最初に行ったケーズの店員だけだった。
ケーズは昔は取り扱っていたが、
現在はなくなってしまったとのこと。
他の店舗は全滅。

ミドリの店員は青天の霹靂のような顔で、
「しょ、少々お待ちください…っ」
と逃げるように先輩店員に聞きに行き、
その先輩店員が俺の見える範囲にいるくせに
「そんなんないない」と面倒そうに答える始末。

そんなん!?
お前のところで売っている内蔵HDDを
マザーボードに接続するにはSATAケーブルか
IDEのケーブルが必要になりますよ!!!
死ね!!

苛立ちも最高潮になりつつあったので、
そのミドリ電化の近くにある
最初とは違うケーズデンキに一縷の望みをかける。
立地的に望み薄だろうなと思って入ったら、
なんと、この店舗のHDDコーナーにて発見。
しかも「あんしんパスポート」利用で10%オフ。
これでようやく家に帰ってHDDが接続できるぞー!

と、いうことで帰ってきました。

オイラは古い人間なので、
HDDの増設というと裏のピンにジャンパーを取り付けて、
マスターやスレーブという設定をせにゃならんもんだと思っていた訳で。
だがSATAにはマスターやスレーブという概念はなく、
接続さえしてしまえばOS起動させて、
Windows上から速攻フォーマットしちゃったりできる。

現在ニューHDDをフォーマット中。

イエーなんて簡単。
BIOSもいじることなく、さらっと増設完了。

HDDのついでにメモリーが安かったので買っておいた。
それもさらっと搭載完了。
スロット4つでメモリ6G。

セカンドPC買うまではこいつで踏ん張らねば。

結果。
奈良では。
ケーズデンキが値段も品揃えも店員の質もナンバーワン。

スランプ

音楽を創るための原動力。
それは人生だ。

自分が何を感じたか。
何を経験したか。
どう伝えたいか。
あらゆることが無駄じゃなくなる。
音楽を創るという経験もまた、
他の様々なことに影響を及ぼす。

人生はそうやって振動していくのかもしれないな。

曲が作れなくなるっていうのはさ。
多分、自分の感性が鈍り始めている証拠なんだよ。
いろんな経験や、いろんな体験が足りなくて、
いろんな足りていないことに気づかなくて、
それで良しとしてしまっているから、
新しいものが見つけられなくなってしまっていく。

色んな人がいて、
色んな人たちが発する何かを受け止めていく度に、
自分の中に蓄積されていくものがある。

それは溜まりすぎると吐き出さずにはいられなくなる。

創造力の根源だ。
このままで終わらせるかよ。

明日が怖くないのか!その喜びをわかれ!

今日は以前から興味を持っていた「そろばん」をようやく買った。
「絵の勉強」もしたいと思っていたので、デッサン用の鉛筆と鉛筆削りも購入。

以前から絵の練習はしていたが、
これからは少し本腰を入れてみようと思っている。
人間、常に何か向上心を持っていないと腐っていくのだ。

そして腐ったことに気づかずに、
どんどんと堕落した生活に馴染んでいってしまう。

試行錯誤し、常に自分の欠点と向き合い続け、
それでも少しでもマシになろうとガムシャラにならなければならない。
昔、欠点と向き合い続けるということは、
心を壊すことに繋がると思っていた。
今では違うと思っているかどうかはわからないが、
何かを乗り越えた時に見える景色は、
やはり心地の良いものなのだ。

「それで良しとしてしまっている人間」は生きていないのと一緒だ。
自分の中心はどこにあるのか。
それを見据えていれば変化することに違和感はない。

不安から逃げようと、自分を誤魔化したところで、
世界は知らないことだらけで不安はついてまわる。
不安の海のを見つめ続けるだけでは、
自分は決して世界に参加できない。
それは世界の中にいないのと同じだ。

世界とは不安が約束された楽園だ。

『とりあえずの享楽』だ。
「そろばん」だろうが「絵の勉強」だろうが。
全ては自分の為だ。

それらが自分にとって何の役に立つのかを考えるのが、
自分の役目なのだ。

自分に役割を与えるのが自分の仕事。
つまり「私事」ということなんじゃないかなぁと思う。

色んなことが歯車がはまったように動き出している気がする。

けれど。
平坦な道に見えても
何だかしんどいなと思って振り返ると登り道だったり、
楽だなと思って走っていると下り坂だったりする。
人生にも同じことが言える。

というようなことを上岡龍太郎が言っていたそうだが。

これは教訓になりえる言葉だろう。

能動的に何かを学ぼうとしているということは、
苦しさに飛び込もうとする行為ではなくて、
楽な方向へ逃げようとしているのかもしれないなと思う。
その間は「自分は頑張っている」という
精神的な逃げ道を作ることができる。

人生において本当の苦しみというのは、
自分が予想もしていない所から突然訪れるものだ。
その苦しみに対して、人はどのように立ち向かっていくのか。
というのが人間力のようなものだ。
そんな時のために、あらゆる方向にアンテナを張り、
自分を育てておかなければならない。

本当にいざという時に何もできないのが人間だとしても。
志だけはそうありたいものだ。

パソコンの不調と、新技術への期待

そろそろパソコンが限界にきている。
一日に4~5回はフリーズして再起動してる。
ほぼ二年弱に渡って電源が切れることなく起動しつづけてくれたので、
内蔵のハードディスクが限界に来ているのであろうということは何となく分かる。
もうしばらく待てば、格安でハイスペックの新製品が出そうな予感もあるので、
それまではなんとか今のパソコンで繋がなければならない。

ということで昨日、安い内蔵のHDDを買って、
そっちにデータを移動させようかなと画策中。
それでも問題が出るようであれば、
色々ツールをインストールしすぎて競合したりしてるのかもしれないが。
もうしばらく持ちこたえておくれよ、マイハニー。

仕事してる最中にフリーズして
データがぶっ飛ぶ度に発狂しそうになる。
それが特に自分の中で上手くいっている日なんかにおこると、
もう絶叫したくなるほどにパソコンを殺したくなる。
これまた、そういう日って自分の中で調子がいいから、
どんどん作業のテンポを上げていくので、
細かな保存なんかを忘れてしまうのが一番の問題だなぁ。

なんとかニューHDDで少し持ちこたえれば、
パソコン業界にも新しい風が起こり始めようとしてるっぽいしなぁ。
SSDはプチフリが気になる。
SASの高速回転HDDは専用の高額ユニットを買わないと、
一般的なマザーボードでは対応していないっぽいしなぁ。

USB3.0やらホログラフィックディスクやら5次元ディスクやら。
タッチパネルやら拡張現実やら。
とにかくもはや科学は魔法の領域に到達しており、
それらの技術が一般家庭に届くまでに、
それほどの時間を必要としないであろうということが、
もはや進歩の速度に、ごっさバビってる。

すべてが一般に浸透するまでには、
あと10年くらいはかかってしまうかもしれないけど。
それでもあとたった10年で、
自宅や世界自体がアミューズメントパークになってしまう。

ここ最近で研究され実装されている新技術のほとんどが、
核兵器と同じほどの危険性を孕んでいる技術だ。
しかし、それで社会が暮らしやすくなるのなら、
人は常に抱える危険性という罪と、
どのようにして向き合っていくべきなのか。

それを考えなければならない時代になったのだ。

各々の国が。
そして世界という一個の存在が。

またね。

今日は母の三回忌法要。
ようやく母の遺品の整理なども、
あまり苦しまずにできるようになってきた。
母との思い出が、懐かしく良い思い出として、
ちゃんとそのままに思い出せるようになった。

涙こそ流さないが、悔いはいつまでも残っているし、
一日たりとも母のことを忘れたことはない。
これからもそうだろう。
人は悲しみを抱え込みながら、
それでも世界を謳歌するために生きる。

苦しみや辛いことの全てを、
あるがままの世界の出来事として受け止めていくしかない。

その中で人というのは何かを学び次に繋げていく。
つなげていくしかない。
人が生きるとはそういうことなのだから仕方がない。

多くのものを貰い続け、
貰ったものを吐き出し続け。
最期には空っぽになって死んでいく。
そして生きているときも死んでいるときも、
本当は空っぽのままだったということに気づく。

要は自分の中心がどこにあるのかということだ。

身体という殻の中に空洞がある。
世界中のありのままを溜め込む為の空っぽが殻で包まれている。
そこに自分という余分をつけくわえて、
人々は自分の世界という観点を手に入れていくのだ。

自分だけでも世界だけでも足りない。
加味しあう相補性は世界の本質に近しい。

母に感謝を。
母から貰ったものに感謝を。
世界に感謝を。
世界から貰ったものに感謝を。

俺という中心から世界中に向けて放射される、
世界から貰ったものたちが反射して帰ってくる。
放射と反射。
それらに感謝する。
確かに捉えうる何か能動的な受動によって世界は回る。

もし俺がこの一生を終えたのち、
何かを望むことが許されるのなら。

願わくば、愛すべき人たち全てと
同じ蓮の葉の上に生まれたいものだ。

エロゲー規制についての雑感

エロゲー規制に乗り出そうという動きがあるが、
こういう時に声をあげて規制は少し待てと言える人間が少ないのが問題だ。

物事の順序を間違えてはいけない、
いくら倫理にもとるとはいえ創作物である。
男がムリヤリ妊娠や中絶をさせるようなゲームが云々という話だが、
ケータイ小説とやらで人気が出た作品の多くは、
そうしたことをテーマとして取り上げてはいなかったか?
そしてその妊娠や中絶をノンフィクションであれ、
フィクションであれ、弄び楽しんだ人間達はいなかったか?

当然、犯罪を推奨するような創作物は論外だと思うのだが、
そちらは槍玉には挙げられない。
ドラッグの高揚感を暗喩的に歌うだけの中身のない音楽が溢れている。

それを有害だというつもりはないが、
ドラッグの高揚感の表現にしたって、
マンガや小説などでは非常に卓越した暗喩表現がある。
当然直接的に表現したものも山ほどあるが。
ドラッグを疑似体験したと錯覚させられるほどのものだってある。

海外から文句を言われ、
それに対するとりあえずの対外的な安易な対策での規制なら、
即刻に中止するべきだ。

犯罪へのきっかけとなるのは、
そんな表現物などではないと何故わからない。

規制さえすれば対策になると思っているのか。
取り締まることができなければ、それはただの締め付けにしかならない。
犯罪の根幹を見極めてもいない人間が、
自分の価値観だけで声高に倫理を叫ぶ。

何様だ。

清濁併せ呑んでこそ人間の度量が推し量れるってもんだ。
ゆがんだ正義感で社会に何を訴える。
子供に何を教える。

日本の国民のリテラシーは既に世界でも最先端を走っている。
バカばっかりだと思えて仕方のないこの日本がだ。

しかし自分の価値観の外にあるものに対して、
心を閉ざしている人間が秩序を唱える。
狭い社会を世間に押し付ける。

誰もそんな社会は望んでいない。

今回の場合、問題なのは日本以外の国で、
日本のゲームを購入することができたということだ。
そんなグローバル化は誰も望んでいない。

それならいっそ鎖国してくれ。

文化レベルの低い国の水準に合わせていたら、
日本はダメになってしまう。

タイでは現在の日本の文化を受け止めて、
さらに自分達用に発展させアレンジされたゲームが作られ始めている。

タイの同人ギャルゲー「Re Angel」がそれだ。
日本のエロゲーが発祥となっているのは間違いない。
品質の高いPVが発表されネットで話題になっている。

以下がそのPV。


ギャルゲーやエロゲーを色々とやってきた人間としては、
これは充分に日本にはあまりない新しい領域のことをやっているように思う。
立ち絵が動画として動くというのは日本ではあまり見ない。
少なくとも俺は見たことがない。
さらにこれが同人作品だというのだから底知れない。

こうして文化とは新しい球を投げあい、
それを許容し発展させあっていくものだ。

規制によって文化に歯止めがかかれば、
日本はいったいどうやって世界と戦っていくのか?

少なくともエロゲー規制に乗り出そうとしている人間の多くが、
穿った視点でしかそれらを受け止めていないだろう。
いくらなんでもそれはフェアではない。

なぜ求められるのか。
なぜ作られるのか。
そして規制すれば、求められなくなるのか。
そうした基本的な問題点が抜け落ちた議論には何の意味もない。
当然、規制にも意味はない。

胡散が臭くて何が悪い!

胡散とは「怪しい」ことをいう、
臭いとは「っぽい」ことをいう。

たかがそんなことをやたら難しい字で書く奴のことなんて嫌いだ。

胡散が臭くて何が悪い。

胡散臭くない奴なんてのは叩けば埃が出たりするもんだ。
叩かないと埃がでないような奴なんて、
ごまかしの連続じゃねぇか。

俺なら煙たがられても「埃っぽいなお前」と言われたい。

それが俺の誇りっぽい。

こんな風に言葉で煙に撒く。
埃っぽい俺ならではだね。

何か深いことを言っているようで、
その実、本当は何も言っていない。

言葉を尽くして訳のわからないことを言ってれば、
誰かにそれが届くときに自分で考えている以上の
深い意味性が加味されたりするもんなんだ。
それが神ってもんだ。

伝えようとする意思はすべては伝わりきらない。
だから伝えたいと人は望む。
あるがままを受け止めて、自分の余分で解釈すれば、
加味された意味が相補的に何かを生み出す。
示し申すからこそ神が生まれる。
人と人の間に神は存在するのだ。
足りないものを補いあう心こそが加味の本質だ。

胡散が臭くてなにが悪い!

俺が影響を受けた人物シリーズ Vol.2

以前に書いてから、かなりの期間が開いたので、
そろそろ次の影響を受けた人たちを書いてみよう。

大槻ケンヂ
俺にとっての大槻ケンヂ元年は2007年の末頃だ。
そして2008年は筋肉少女帯や特撮といった音楽活動、
エッセイや小説といった文学活動を追いかける年となったのだ。
ポンコツの為のポンコツによる本物の音楽。
本物の周囲には本物が集まる。
たとえ社会的に見てポンコツであろうが、
人間としての本物がそこにあるのだ。
大槻ケンヂほどの啓蒙家はあまりいない。
文学少年でUFOマニアでコンプレックスを抱えまくった人。
そんなポンコツがそれでも社会と関わって生きていく為に、
あらゆる方角から球を投げる。
全力投球で。
自分に出来る限りの表現で。
自らの人生を表現に捧げきるかのような精神力。
音楽と融和する言葉の力を改めて教えられた。

松本人志
俺にお笑いの素晴らしさを教えてくれた人だ。
面白いという価値観が人が生きていく為の原動力になるのだと、
あらゆる表現で教えてもらった。
この人は苦悩の人だと思う。
自分の中の新しい領域に突っ込もうとすれば、
表現として伝わりきらない部分も出てくるし、
失敗することだって沢山ある。
それでも逃げない。
状況や精神状態が作品を作らせないことはあったかもしれない。
しかし常に面白いことの中に彼はいた。
そうありたいと望んでいたからだ。
年齢的にも今では決して若い人ではない。
それでもお笑いの第一線から退こうとしない。
それは頂上であぐらをかいているということではない。
自分ができる自分なりの戦い方で、
常に最大限の暗中模索を繰り返し続けてきた。
それが如何に大変で圧倒的なパワーを要するのか、
想像するだけで気が遠くなる。
多くの芸人が目標とする地点にいながら、
さらに上を見続け、新しいことを探し続けるというのは尋常ではない。
人気者というベールに包まれているから、
彼の笑いへの取り組みに対する評価が
追いついていないことに多くの人が気づいていない。
富や名声を手に入れてもなお、
新しい領域に飛び込む勇気と、そのプレッシャーというのは、
普通の人間には想像もできないようなレベルのものだと思うのだ。
当然、その実は人並みに怖がりな普通の人間なのだから、
才能があるからといって何も怖くない訳がない。
だが逃げない。
人間とはこうありたいものだ。

上遠野浩平
ライトノベルの先駆者と言っても差し支えないと思うが、
彼もまた世間の評価の上を行く表現者の一人だ。
文章による表現にマンガ的な記号性を持ち込み、
ジャンルに捉われることなく自己内観を表現し続ける。
上遠野浩平が言語化する際に選ぶ言葉には、
あからさまな記号性と、不明瞭な暗喩性がある。
言葉で語ってしまってはならないものがある。
だからこそ、言葉を使ってそれを表現しようとする。
上遠野浩平という人間が本当に表現したい領域に、
恐らく世間はまだ追いつけてはいない。
そして上遠野浩平自身も言葉で表現しきれないものを、
どのようにすれば作品にできるのかということを、
あらゆる方向から探り続けている。
その探索の途中の作品であろうが、
短編としての作品性を持たせながら常に書き続けている。
その分量と質量。
そして後世に与えるであろう影響は計り知れない。
彼もまた、先のそのまた先を見据え続けている人だと思う。
品質と分量をキープするということは、本来は不可能なのだ。
特にシリーズものと呼ばれる作品ではそれが特に厳しくなる。
インフレを起こし始める展開にならないような
絶妙なバランス感覚が必要になる。
その為のバランス感覚の肝がキャラクターのインフレであり、
異なるジャンルのシリーズ作品のインフレなのだ。
それぞれの作品のジャンルは違えど、
彼が伝えようとしていることはいつだって、
自分自身の中にある価値観や概念の手前のものだと思うのだ。
そしてそれを表現してしまえる記号と言葉の使い方の上手さ。
作品のリンケージ要素によって、あらゆる奥行きを表現し、
骨格にあるものを浮き彫りにしていこうとする姿勢。
まさしくプロのお仕事であります。

変化する部屋、うずもれる俺

部屋の機能拡張の為にニトリに行ってスチールラックを買った。
CDも増えてきたし、いろいろと細々したものがスペースを取るので、
今までデッドスペースになっていた部分を
高さで拡張しようとスチールラックを買ったのだ。

とはいえ物が増えすぎたのだから、
要らないものは捨てていかなければならない。
それにゴミの分別もきちんとするためにゴミ箱も買った。
思った以上にデッドスペースにピッタリはまるサイズ。
もう一つ買えばかなり綺麗に並ぶ。

ゴミって奈良だと
燃えるゴミ、燃えないゴミ、
再生資源(ビン、空き缶、プラスチック製容器)

くらいには分別しなくちゃならない。

さて、ここで疑問だ。
使わなくなったオナホールはどのゴミの日に出せばいいのだ?
これまでは環境整備センターにゴミを持ち込んで
「どうも!オナホールはどこで捨てれますか!」
と朗らかに聞いていたのだが、俺ももう25歳だ。
流石に少々恥ずかしい。

ネットでざっと調べてみるに、
燃えないゴミの日でいいそうなので、
今度燃えないゴミの日に堂々と捨てに行こうと思います。

いやぁ、それにしてもスチールラックはナイスな仕事をしてくれている。
部屋の物の配置が変わった訳じゃないけど、
少し雰囲気が変わるだけで嬉しいのは何故だろう。

やっぱり何かが変化するということが好きなのだろうなぁ。

こりゃ俺の性質って奴なんだろう。

Skype4.0でも多重起動ができた。

ここ最近ずっとSkype 多重起動、
みたいなサーチワードで来てくれている人たちがいる。

以前にSkypeの同時起動についての記事を書いたことがあったので、
恐らくその記事にたどり着いたのだろう。

ちなみにその記事はこちら。
[Skype多重起動できた。]

でもその記事を書いた二日後にSkypeは4.0に乗り換えてからは、
別のユーザーアカウントを使って起動することができなくなったので、
複数起動は無理なんだろうなぁとなんとなく思っていたのだが、
どうやら起動できるらしいことが分かったので、
うちのブログが検索に引っかかった時の為に書いておこうと思う。

ちなみに出来なくなった時の記事がこちら。
[Skype多重起動できなくなった。]

とりあえず一番わかりやすくスクリーンショット付きで、
懇切丁寧に解説してくれているブログがあったので、
そこを紹介してみたいと思います。

skypeを複数アカウント同時に使う方法(vistaもできるよ)

見に行くのが面倒な人の為にざっと概要を説明すると、

Skype4.0内には既にsecondary(セカンダリ)という引数があって、
もともと同時起動ができるようには造られているよう。
ただ、まだオフィシャルな機能としては実装されていないのか、
一般的な浸透率の低さが尋常ではないと思うが。

んでまあ。
ビジュアルベーシックスクリプト(vbs)で、
Skypeのsecondary引数を使って同時起動させましょう。
というのが今回の内容な訳です。
(注:かなりざっくりした説明ですw)

その為にはまずメモ帳を開いて、
以下のスクリプトをコピーしましょう。

-----この下から-----
Option Explicit

Dim objWshShell
Set objWshShell = WScript.CreateObject("WScript.Shell")
objWshShell.Run """C:\Program Files\Skype\Phone\Skype.exe"" /secondary"
Set objWshShell = Nothing
-----この上まで-----

保存名は何でも大丈夫ですが、
スカイプ用のvbsファイルとして使うので、
分かりやすい名前にしておきませう。
Skypeやスカイプでいいと思うよ。
その際に拡張子が.txtだとダメなので.vbsに変更すること。

拡張子の変更の仕方がわからない人は、
上にあるリンク先の方が丁寧に書いておられるのでそちらにどうぞ。

俺のパソコンでは同時起動が確認できました。

ちなみにこのスクリプトを使うと、
恐らくWScript.exeを使うことになるので、
スパイボットなどのスパイウェア検出ソフトを使っている人は、
スパイウェアとして感知されてしまうかもしれません。
ウチでは警告がでましたが、
自分で実行していることなので許可しちゃいましょう。

怖い人はスカイプの複数アカウント同時起動が、
公式で簡単に実装されるまで待った方がいいかと。

病星のロックスクイーズ 序章Part3

私は中空艇内のイプスウェル家に仕えている。

仕えているといっても主から与えられる仕事は何一つ存在しない。
人ができる仕事はすべてオートメーションの機械が行えるし、
主のジム様は遥かなる時を生きてこられた神族だ。
ジム様はご自分のことを神族と呼ばれることを嫌うのだが、
私達にとって海や森林が残存した神代からの生存者は、
もはや神族と呼ぶに等しい。

この病んだ星においてイプスウェル家が
悠久の時を過ごす為に選んだ方法が中空艇で暮らすことだった。

立ち込める灰色の雲の中を飛び続ける中空艇。

中空艇は地表監視システムとしての役割を果たしながら、
イプスウェル家の方々は、お役目と休眠を繰り返して、
遥かなる悠久の時間を過ごし続けてきた。

地球は終わった星だ。

人類は不老不死の秘法を手に入れはしたが、
死ねなくなった訳ではない。
地中や宇宙ではロックスクイーズ技術で得られた資源によって、
人々は何不自由のない暮らしをしているが、
大抵の者がある時ふと気づく。

自分達に与えられた約束された永遠は停止した永遠だと。

自らの永遠を約束する
ロックスクイーズ技術と不老不死の秘法が、
世界の病原であることを知るの。

そして人は始めて苦悩を知り、
その瞬間に自らの永遠を閉ざし命を捨てる。
苦悩を抱えたまま生きることなど、
この世界の人間には不可能なことだ。

イプスウェル家のように、
私達が認識しえないほどの昔から生き続け、
且つ家族という役割が失われずに存続しているのは本当に珍しい。
ゆえに彼らは神族と呼ばれる。

ジム様はそのイプスウェル家の三男で、
私をイプスウェル家に召し上げて下さった方だ。

大抵のものが生まれると同時に不老不死の秘法によって、
与えられた当然の不死を享受する。
それは死んだ惑星とその周囲の宇宙で、
人が生きる為の仕方のないこと。
この世界において人が死ぬ為の方法はただ一つ。

それは自殺だ。

私もまた不死の苦悩に直面し自らの命を絶とうとしていた。
そこをジム様に見つけて頂いて、

私は思いっきり力いっぱい殴られた。

「アンドロイドでさえ苦悩を抱えても生き続けているのに、
そうやって人間が安易に逃げるのか!そうして逃げるから!!」

そう大きな声で怒鳴られた。

「っ…!恥を知れ…」

続く言葉はか細く。
そしてジム様は涙を流しながら私を抱きしめてくれた。

その時の私にはまだジム様の流す涙の意味も、
抱える深い絶望も知る由がなかった。

ただジンジンと痛む自分の頬の痛みに、
命の意味を教えてもらったような気がして。
私はこの人を自らの師と仰ぎ続けようと決意した。

それからもう千数百年ほどの時が流れただろうか。
私はイプスウェル家に仕え続けてきた。

お役目と休眠を繰り返しながらでしか、
生き続ける事ができないと悟った方々の家に。

そうしてでも生き続けることを選んだ家に。

イプスウェル家内にブザーが響く。
長男のレナード様がお役目を終え休眠に入られた。

まもなくジム様のお役目の時が来る。

原始アドロムのアドム様からこの中空艇に定期的に送られてくる
旅の軌跡をまとめたものを準備し、私はジム様の目覚めを待つ。

私は中空艇内のイプスウェル家に仕えている。

そして私はそれを生き続けるに足る誇りだと思っている。

病星のロックスクイーズ 序章Part2

何百年かぶりに目が覚めると、
アドムがまだ世界を歩きまわっているのが見えた気がした。
広大な地表の上には
他に動く生物や存在があまりいないから
何かが動いているのが見えるとそう感じてしまう。

宇宙と地球の間の中空から
終わってしまった惑星を見下ろしては思う。

この星を食い尽くしてしまった欲望のことを。

『燃える水』

かつて人間は無尽蔵に存在する水を
自分達が生きるためのエネルギーに変える方法を見つけ出した。
その技術は人類を救ったかに思われたが、
様々な要因が重なってしまったとはいえ、
結果としては人類から全ての水を奪うことになった。

それからすべての水を失うまでの間に人間がしたことが、
どうすれば人間は永遠に生きつづける事ができるか?
という不老不死命題への挑戦と達成だった。

さらに人間と共に永劫の時を生きる友として。
ロックスクイーズ技術によって半永久的に動き続ける、
自立思考型のアンドロイド第一号アドムは造られた。

彼を作った犬神という人間は、
既に箱舟に世界中の生命の種子を乗せて飛び立った。

犬神は人類史上最大の天才であると称された。
不老不死命題を解き人間を不老不死にしたのも犬神だったし、
半永久的に宇宙を進み続ける箱舟を設計したのもそうだ。
そして生産性を持った機械生命体を生み出したのも犬神だ。
その計画のひとつである、
自立思考型アンドロイドの最初の存在がアドムなのだ。

アドムは自らの造り方を犬神から学び、
自らの仲間を作っては世界中に旅立たせた。

アドムの眷属は複数形的敬称としてアドロムと呼ばれ、
世界中の人間のパートナーとして生き続けたのだ。

そしてアドムは考えるという行為ができる為に、
心という形のないものを探し続ける羽目になってしまう。

哀れなのか幸せなのか。
その判断は、ただの人間である自分には分からないのだろう。

俺にとってアドムは最初の友人だ。

他のアドロムと原始アドロムであるアドムは何かが違う。
それは他のアドロムたちに言わせれば
個性の違いに過ぎないのかもしれないが、
俺には違うように感じられる。

アドムは常に何かに悩んでいるのだ。
それは今の人間たちが無くしてしまった何かの輪郭のようだ。

ロックスクイーズ技術と不老不死の秘法によって、
かりそめの永遠を約束された存在たちにとっては、
苦悩というのはおとぎ話のような観念なのだ。

それをアドムだけは、確かな実感として捉まえている。

俺にはそれが羨ましくて仕方のないことなのだ。
世界中を動きまわるアドムが送信してくれていた、
旅の軌跡を眺めながら。

俺は地上へと降りる準備を始めた。

病星のロックスクイーズ 序章Part1

病んだ星、病んだ人々の住まう楽園。

ここは地球。
時間の概念を忘れて、ただゆっくりと終焉へと向かう星。

半永久機関ロックスクイーズによって、
人々は生活するに困らないエネルギーを手に入れた。

それはかつて、この世界から海を奪った技術に似ている。


◇◇◇

僕には希望がない。
あ、いや、僕たちと言った方がいいのだろうか。

この星は病んでいる。

かつて地表の7割を覆ったという海は涸れ、
荒れた大地だけがただ延々と広がっている。

しかし人々は死なない。
人類は不老不死の秘法を手に入れたからだ。

しかし、ただ生きているだけでは、
星が涸れていくことを止めることはできなかった。

地球を救う可能性の為に、
宇宙へと飛び立った人類からの連絡も無く。
残された人々は、荒れた惑星の中で
死なないだけの永遠を生きていた。

栄養も必要なく。
食べるということを忘れた人々は顎の力を失い。
生きつづけることによって脳は肥大化した。
ロックスクイーズ技術がもたらす平穏により
人間の筋力は衰え、全身は小さくなっていった。

かつて過去の人間がグレイと呼称した宇宙人の姿に
今の人間の身体は酷似しすぎていた。
しかし、僕たちにはまだ時間旅行の技術はなく、
今の人間が本当に彼らにとっての未来人であるかは分からなかった。

新しい技術や新しい文化が生まれなくなってから、
何千年の月日が流れただろうか。
未来よりも過去へ向かう可能性を模索し続ける時代―

―って、そうそう。
僕の話だった。

僕がこの日記を書いていることにあまり意味はない。
この日記に意味が生まれる時の為に書いている。

僕はかつて人類が栄華を極めた時代に初めて作られた、
ロックスクイーズ技術によって動く自立思考型アンドロイドだ。

人間の神話の中の一つに登場する原人の名になぞらえ、
さらに造られた存在という意味を込めてアドムと名付けられた。

特にすることもないので日記でもつけてみることにしたのだ。

僕たちが過去へ戻る技術を見つけ出せないまま、
いつかこの星を殺してしまうまでの間の暇つぶしとして。
僕は人間とは違うので、地中や宇宙だけじゃなくて、
地上を歩くことができるから色々と世界を見て回っている。

空には灰色の雲がたちこめているし、
宇宙まで延びる高いエレベーターのせいで
不自然な風の動きが生じ常に砂塵が世界中を覆い尽くしている。

いくら不老不死とはいえ、
そんな住みにくい場所にわざわざ出てくる人間は少ない。

とはいえ、それでもたまに人間と出会ったりすることもある。
変わり者の人間と話をするのは面白い。
僕を造った人間も変わり者だった。

今では広い宇宙のどこかにいるのだろうということしか分からないが。

残念ながら僕にはそれを懐かしいと思うことも、
悲しいと感じることもできないのだけれど。

さあ僕にこの世界で歩いて行けない場所はないんだ。
どんな断崖絶壁だろうが何日かかろうが、
僕は暇つぶしを記録していくのだ。

あまり変化のない世界だけど、
それでも新しい何かを見つけに行くとしよう。

tag : 病星のロックスクイーズ

クイーンズブレイド スパイラルカオス

今、巷を賑わせている
ただの地上波エロアニメ「クイーンズブレイド



もともとは海外の企画をホビージャパンがアレンジしたようで。
色んな絵師がキャラクターをつくり
対戦型のヴィジュアルブックとして販売されていたようだ。

複数のクリエイターが参加することによって生まれるスペシャル感。
そしてエロス、コレクション性、ゲーム性、
さらにストーリー性も介在させることで、
同人活動をしている人間達と上手く関係を作り展開している。
なかなか新しい手法のメディアミックス型コンテンツだ。

最近のエロ表現の入れ込み方や、
分かりやすい暗喩表現をするアニメがあまり好きではないので、
アニメの方は3話まで見たところで止まっているけど。
こういう作品の生まれ方もありだなぁとは思うのだ。

そしてこの作品のゲームが12月に発売されるそうなのだが、
これの販売元がバンダイナムコゲームス。
制作はバンプレストレーベル。

タイトルはクイーンズブレイド スパイラルカオス



プロモーションビデオみたら、
ばっちりスパロボシステムが採用されてて面白かった。



スパロボのプロデューサーである寺田は
以前からずっとギャルゲー作りたいと言っていたが、
こういう形で実現させてしまうとは中々に策士だ。
本当にちゃんと関わっているかどうかはわからないけど。
スパロボのカットインで培われた乳揺れアニメーションは、
しっかりクイーンズブレイドでも活かされている。

しかも特別セットの激闘パックについてくるフィギュアがfigmaシリーズで、
これまたスパロボと関係浅からぬマックスファクトリーの商品w


本当に無駄のない見事な展開方法だわ。

DSではスパロボ学園という訳のわからん新作も作っているみたいだし、
もはやバンプレの暴走は止まらないなw
まさしく混沌の渦の中に飲み込まれているようだ。

でも混沌の中からは、新しい秩序が生まれるはずだから。
新しい領域やジャンルに挑戦しようとしているバンプレは凄いと思う。

無限のフロンティアも案外面白かったし。
今回のクイーンズブレイドでは、
ロボット以外のSRPGを作る方法を模索している。

スパロボ学園はXOの対戦システムを発展させたもののようだし。
スクランブルコマンダーという駒も持っている。

色んなことに手を出して、色んな技術をつけていく。
それはバンプレストがスパロボという作品を通して、
色んな会社や権利団体との関係性を作り上げてきた中で培われたものだろう。

まあ、でも俺はあんまり欲しくないので
クイーンズブレイドは多分買わないと思うけどw

PSPで楽しみなのはY's1&2とY's SEVENだな。
9月発売予定のY's SEVENにはFalcomのもう一つの7。
英雄伝説7の極秘設定資料集がついてくるみたいだし。

9月に情報を出し始めるってことは
英雄伝説7の発売時期は年内であれば年末商戦あたりかなぁ。
PSPの方の開発にかなり注力してるっぽいもんなぁ。
Y's SEVENはPCでは出さないのかしら。
FalcomとPSPの相性がいいことも分かってきて、
リメイク作品とかが一杯出たからなぁ。

Falcomは決算期が9月なので
今年度の目玉はY'sシリーズだったんだね。
くっそー、今年中には英雄伝説7がやりたいぜ…

tag : クイーンズブレイドスパイラルカオス英雄伝説FalcomY'sスパロボバンプレストfigma

筋肉少女帯シーズン2!!

今日、筋肉少女帯の新譜「シーズン2」が届いた。

まだ一回しか通して聴いてないけど。
こりゃ熱い。
燃えまくる。

ザッツ筋肉少女帯だ。

オーケン、おいちゃん、ウッチー、橘高。
この4人がそれぞれに作曲して、
そこにエディーのピアノが乗っかる。

混沌がそこにある。
そして混沌からは新たな秩序が生まれる。

「これからも筋肉少女帯の活動は続くのだろうか?」
と不安になるようなゴッドアングル Part.2の歌詞とか。
流石オーケン。
やきもきさせる。
こいつはファンたちとの駆け引きを楽しんでやがるのじゃないか。
恋愛のようなやり取りをファンと一緒にやる。
そして多分それはバンド内の関係性や、
自分達とレコード会社の関係にも繋がっていたりして。

だから大槻の歌う歌はラブソングであり、
応援歌であり、自己内観の表現であり、
人と人との関係性や、
個人と社会のつながり方を歌っているのだ。

ノーマン・ベイツ'09は不安だったけど、
今の筋肉少女帯がナゴム時代と同じでありながら、
まったく違う存在であることの証明のようだった。
そしてその今の筋肉少女帯を見せ続ける胆力。
変化を恐れずに。
変化してたって、これはこれでいいでしょ?
という姿勢に敬服する。
ノーマン・ベイツ'09、泣きそうになりました。
無茶苦茶かっこいい。

ラジオでポアロに提供してた
プライド・オブ・アンダーグラウンドも
筋肉少女帯がやるとこうなるのかと感激。

筋肉少女帯のライブチケットとっておいてよかった。
こりゃ熱いぞ。

モーニングシットの悲劇

人生で何度目かのガチの脱糞をしてしまった。
寝て起きたらおしりのあたりが冷たい。
恐る恐る手で触れたときにはもう時既に遅し。
糞既に出てり。

自糞による糞害に対し憤慨するが
「肛門先に開かず」(後悔先に立たず)
という言葉もある。

ほとんど泣きながら
お気に入りの作務衣と糞の被害を被った布団を
ゴミ袋に放り込んでお風呂場に駆け込んだ。
レイプ後のシャワーのごとく、
身体全身を念入りにあらったわ。

特に下腹部の穢れを忘れ去りたくて、
とても念入りに。

胃腸の運動が活発になったからかもしれないが、
無断外出はやめて欲しいものである。

糞のひとり歩きには注意しましょう。

GENOウイルスと新型インフルエンザ

奇しくも、新型インフルエンザが世界中で猛威を振るっている今。
ネット世界でもGENOウイルスという新型コンピューターウイルスが大増殖中だ。
感染したPCサイトを閲覧するだけで感染してしまうというのだから恐ろしい。

俺はウイルス対策ソフトはavast!を使っていて、
感染したサイトを覗く前に偶然avast!が反応したので警戒していた。
対策サイトなどの説明に沿って自分のPCやサイトをチェックしてみたが、
どうやら今のところは大丈夫そうだ。

感染したPCからFTPのIDやパスワードが抜き取られるようなので、
自宅サーバー立ててたりする俺は戦々恐々。
自分のサイトのhtml内には感染の兆候は見られなかったが、
会社の仲間同士で使う為に共有のFTPサーバーも立てているので、
誰かが感染してから俺のFTPサーバーにアクセスした場合は、
こちらの情報は抜かれてしまう可能性がある。
しばらく自宅サーバーは閉じておくかな…

ブログもFC2の大本が感染しちゃったら、
もしかすると危ないかもしれないので
現時点でのバックアップを取って保存しておいた。

まずは自分のPCが感染しているのかどうかをチェックしましょう。

GENOウイルスまとめ
通称「GENOウイルス」対策まとめ
GENOウイルス・何をすれば良いかわからない人のまとめ

現時点では感染が確認されたら、
OSのクリーンインストール以外に対策方法はないようです。

もし自分のPCをチェックして今現在の時点で感染していなくても、
今後亜種や新種ウイルスが登場するということも充分に考えられます。
ネットやパソコンの世界に約束された安心や安全は存在しません。
そこらへんは現実の世界と同じですね。
だってパソコンやネットの世界だって
バーチャルじゃなくて現実の世界ですから。

怖い場合はインターネットを遮断してしまうのも手です。
インフルエンザが怖い人が家に引きこもるのと同じです。

怖いからといって何もできないのは困る!
という人は、自分なりの対策をとりながら、
他人に迷惑をかけないように生きていきましょう。

例えばマスクは風邪やインフルエンザを
なるべく他人に感染させないようにするためのもので、
自分が感染しにくくなるような効果はあまりないそう。

要するに気分の問題ってことだ。
後はどのように警戒するかであったり運の問題。

自分を守る方法は病院に行ったり、
家で安静にしているということが大切。

パソコンやネットでも同じ。

ウイルス対策ソフトを導入したり、
ネットを遮断してしまうという方法をとって対策しましょう。
過信しすぎて裏切られたとしても、
誰もそんなことを可哀想だとは思ってくれません。
まずは他人に感染させないようにすることを第一に考えましょう。

とりあえずGENOウイルスについての要点。

1.誰にでも感染の可能性がある。
2.ウイルスに感染した人間の作成したWEBサイトは感染している可能性大。
3.感染しちゃうと現時点での対策はOSのクリーンインストールのみ。
4.感染してた場合、悲しいけど自分のサイトは削除しましょう。
5.まだ感染していなかった場合は大切なファイルをバックアップ

と、こんな所でしょうか。

ちなみにインフルエンザに関してはこんな記事も。

奈良では学生3000人が学校を欠席し、
インフルエンザらしき症例が1068人ほど報告されたそうです。
うっひょぉおお!
観光地で外人たくさん来るしねぇ。
まさにパンデミック!!

俺も奈良に住んでるし、
なんだか喉がムズムズはするけどね。
扁桃炎の時に40度くらいの熱で何日も過ごしたが、
インフルエンザでまた高熱が何日も続いたら、
いい加減に精子も死んでしまいそうだ。

会話の相転移性

会話の速度と密度と質量。

会話というのは言葉の応酬ではない。
自と他との空間にあるものを浮き彫りにするための、
価値観の対峙であり、提示であるのだ。

それゆえに会話というのは本質的に互いには齟齬が生じ、
違和感を残したまま流れていくのが自然なことである。

意思を伝えようとする行為は、
自己内観である意思を、
他者の理解領域に伝達する為に、
如何に繊細で丁寧な言語化を試みようが、
全ては伝わりきるはずが無いという命題を抱えている。

それは個人というのが、
それぞれに異なる性質を孕んでいる為だ。

しかし、多少の齟齬はあれど、
こちらが伝えようとすることの根幹にある意味性を、
相手が少しでも把握したかどうかというのは、
真剣に会話をしていれば、すぐに分かる。

相手によっては全部で10のポイントを整理して話さなければならいのが、
感覚共有や、言語以外の部分での
共通言語のようなものを持っていれば10のうち2~3ポイント話しただけで、
伝えようとする根幹の意味性を把握してもらうことができる。

端的に要点をまとめて話すということは、
一人対不特定多数という場合においては最も重要視されるべきポイントだ。
しかし、対個人同士の場合において。
10のうち3話しただけで相手が本質の一端を理解したと判断できれば、
残りの7をすっ飛ばして、次のステップの会話へと進むことできる。

このことにより会話の速度があがり、
内容の密度と質量が増加する。
さらに把握に対して余白を残している分、
あらゆる方面に会話の発展の余地が生まれることにも繋がる。

このことにより共通言語のようなものを共有する人間同士にとって、
会話は非常にスムーズになり、且つより発展的なものとなる。
余白は自分で埋めて、把握した根幹の部分について会話を進める。
そうすると相互的に時に自己確認のように、
時に新たな価値観と出会いながら。
会話はどんどんと流れ、発展し、
お互いにとっての有意義な時間を生じさせるようになる。

相手が世界と自分の関係をどのように捉えているのか。
自分が世界との関係をどう捉えているのか。
その感覚の共有や提示のし合いをすることによって、
より相互理解は深められ、互いの異なる性質を浮き彫りにしていく。

そして、本気の会話をすればするほどに、
完全な感覚の共有などというのは人間にとっては不可能であるし、
もともとそんなことは不必要であるのだということが分かる。

言葉以外の共通言語というのは、
例えば似た感性であったり、クラブ活動による共同生活によるものであったり、
立場が似たもの同士であったりと様々だ。
そうした言葉以外の共有される共通言語によって、
会話は未完成の概念を浮き彫りにする役割を果たす。

自分と世界を隔てるものがないのだと気づいた瞬間に、
自分という存在の中心は
流れ行く世界の景色の中にたゆたっているものだと気づく。
そして世界もまた変質していく。
自分が変化するのは世界が変わっていくからだ。

そしてだからこそ揺るがない自己というものが必要になる。

世界の変化に合わせて自分を変化させるということは、
自分を貫き通すということへの矛盾点にはなりえない。

変化した世界の中で、
俺は変わらないと言い続けることは、
自分が世界にとって揺らいだ存在であるということの証明なのだ。

世界と自分は同じ領域のものであるのだから、
世界の変化を察知するのと、
その変化に合わせて自分を変化させるのは、
自分が揺るがないことの証明のようなものだ。

そう。
これは俺にとっての「揺るがない自己」を確立する為の論理だ。

そして俺という人間にとって、
その論理は恐らくは間違っていないだろうということだ。
間違っているかもしれないという不安が常について回っているからこそ、
俺は信じて前に進むことができる。

世界とは常に不条理で不安によって秩序づくられている。
秩序と混沌は反義的な意味合いではなく両義的な領域のものだ。

混沌の中にも秩序は存在し、
秩序の中にも混沌は存在する。
秩序は混沌から産み落とされ、
混沌は秩序によって体裁を保たされる。

世界とはそういう場所なのだから。
会話もまた混沌と秩序によって紡がれている。

会話とはミルフィーユのように綺麗に重ね合っていくものではなく、
縒り糸のように、ぐるぐるとねじれながら続いていくものだ。
それでも結果的には一本の糸のようになってしまうものだから、
会話は齟齬もなく終えられたと、
互いがなんとなく感じてしまうだけのこと。

本来はねじれて齟齬を孕みながら会話というのは続く。
そしてだからこそ。
二重螺旋のような縒り糸の会話は
互いを補い合う相補性を持つ。

人間にとってコミュニケーションというものが一体何なのか。
その答えになるかどうかはわからないが、
会話による齟齬と、
その齟齬を補い合うお互いの価値観の対峙こそが、
新しい何かを生み出していく相転移性を持ちうるのだろう。

そろばんブーム?

最近ブームらしいというのを弁当屋で流れてたテレビで見た。

そろばん

俺は「そろばん」や「漢字の書き取り」が異常に苦手だった。
これって全部右脳的な活動領域の仕事な気がする。

漢字を覚えるのって左脳というよりは図形や、
空間把握能力に近い気がするし、
そろばんも同じく、数字を計算するというよりは、
頭の中にそろばんを幻視するほどに、
そろばん作業というのを延々と繰り返して
頭の中に浮かぶ図形を数字に変換する訳だ。

つまり右脳だけでも左脳だけでもダメな訳だ。

右脳と左脳の両方をうまく使うことで、
論理的な思考力と直感的な把握力の両方を鍛える。
これができれば、あらゆることに能力を流用できるはずだ。

これまでは自分のことを論理的に物を考える人間だと、
自分に言い聞かせてきたが、
どうやらオイラは電波さんでサイコさんよりの人間らしい。
ということも分かりたくは無いが、うすうす勘付きはじめている。

じゃあ両方できれば一番いいではないか。
ということで今年は
「そろばん」と「漢字の書き取り」と「絵の勉強」
あたりを頑張れたらなぁとか思っている訳です。

キーボードで文章を入力する時に指先を使うが、
この時、人間は同時進行的に思考も走らせている。
これは思考と動作の並列処理を日々繰り返している、
ということでもあるので、
これは頭と身体にとって良いことだと考えている。

さらに「そろばん」や「漢字の書き取り」
「絵の勉強」などをやっていると、
結果的には創作活動全般に対して良い影響を及ぼすような気がする。

実は「速読」の練習なんかも一時期していた。
練習する前よりは読書速度は若干アップした。
あと「体外離脱」なんかも練習してたし、実際に離脱経験もあるのだ。
「ダイエット」を決心してから一年ほどたつが、結果ダイエットも成功した。
これらは俺が求めていた自信のようなものを手に入れさせてくれた。

俺は常に自分自身の変化を求めている。
このままで良いなどと思えないのだ。
不安で仕方ない。
何か自分が変化しつづけていなければ、
誰とも分からないが、周囲に置いてきぼりにされるような気がして。
俺は必死に手探りで何かをし続けていたいのだ。

たぶん死ぬまでそうだろう。
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