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一握の糞

うん。ここ最近、便の出が悪い。
その原因が今日ようやくわかった。

岩のような硬さのうんこが通せん坊してました。
ダイヤモンドさながらの硬さでしたね。
うーん。                こ。
偏った食生活が、不健康な便を作り出すのだろうか。
また毎日ヨーグルトを食べて胃腸に気を使うことになりそうだ。
くそぉ!ふんっ!

糞を愛する歌
気張れども、気張れども
我が肛門、排便せざり
ぢっとうんこ見つめたい

インスパイアド バイ 石川啄木
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嫌な予言

なんか凄く居た堪れなくなる映像を見た。

亡くなられた飯島愛さんが
3年前に3年後の事を話しているものだ。



本当に最初からそうなる運命だったのか。
それはわからないけど。
「人が死ぬ日」なんてものは、
たとえ本当にわかったとしても
伝えるべきじゃないと思う。

もし彼女の死因が自殺だったとしたなら。
その予言めいたものが、
最後の引き金になった可能性だって決して否定できない。

このことを知っていた周囲の人間や、
収録に居合わせた人たちはどんな心境なのだろう。
知っていたはずなのに何もできなかった自分を悔やむだろうか。

現実っていうのは、いつも悪い予想の方には簡単に転ぶ。

この占いは残酷だ。

人が生きる、人は生きる。

さて、今年もいよいよ終わりが近づいている。
今年の目標は「折れない心で頑張る」だったけど、
これは・・・うーーーーん。
守れたような、守れなかったような。。。

ま、それでも体重減量は成功したし、
変化が無かった訳ではない気がする。
自分の中での変革のようなものも無いではなかった。

良い年だったとは言えないかもしれないけど、
悪い年でも無かったんだろう。

とりあえず、今生きているだけでも僥倖だ。

友人や親類や先輩方に助けられながら、
色んなことに感謝して今年を終えられそうだ。

嫌なことも沢山あったわけですが、
そういうのは日常の一部だ。

嫌なことくらい誰にでもあるもんで、
そんな所に目を向けてたら俺程度の人間が前に進めるわけも無く。
日々是精進也。

来年はどんな年になるといいだろうなぁ。

先日、占ってもらったら来年は勉強の年だと言われた。
自分自身、来年は自分を磨く年にしたいと思っていたので
星と意思の導くままに生きてやろうと思う。

でも、そんなことは毎年の延長のようなもので、
それとは別に何か自分に科す目標が欲しい。
というか、自分がどんな自分の明日を望むのかが重要だ。

なんとなくだが、色んな人の笑顔が見たいなぁと思う。

ま、来年の目標は来年の俺に決めてもらうことにして。
とりあえず今年の俺への労いの言葉・・・
は必要ないか。

適度に頑張って、適度に怠けて。
いつも通り。
しんどいことにも目を瞑ったり逃げたり。
向き合うときには向き合って。
みんなと同じような人生だ。

人一倍に何かを努力したと、
胸を張って言えるような人間にはいつなれるのか。
そんな程度のことを目指しているようじゃ、
まだまだって事なんだろうな。

とりあえずは享楽にふけって、
わかったようなことを言いながら、
何も判らない自分の人生だから。
楽しむくらいしかやり様がないねぇ。

人生なんてつまらん。
つまらんから楽しもうと思うんだ。

これもまたわかったようなわからんような。。。

よしっ

抱え込むのはよくないねぇ。
いろいろと。
でも、そうとわかっても、
抱えちゃってるから抱え込んでることが良くない、と。
そう、思ってしまうんだ。

『よしっ』

いつも自分に言い聞かせるように言っている気がする。

声の出る場所
聞こえる場所
跳ね返る場所
声に出すとわかる。
自分の場所は、自分がいる場所だ。

とりあえずは、それでいいや。

M-1終わってた。

メリークリスマス。

何がびっくりしたって、
今年のM-1が21日だったことにびっくりした。

ネットの記事で先に優勝者を知ってからM-1を見るなんて…
最悪だった。
毎年25日とかだったから油断してたんす。

普段テレビを見ないとこういうことになるのだなぁ。

決勝3組に残ったのは順当なところだろう。
個人的には笑い飯のもうひとつのネタが見てみたかったが。
せっかく今年は面白かったのに、来年に期待。

今年のM-1は全体的にネタの質が高かったなぁ。
審査員全員の採点にブレがなく安定していたというのは、
それだけしっかりした漫才が多かったということだ。

いつもほどの熱さや爆発力は感じなかったけど。
毎年泣くほど感動するんだけどなぁ。

NON STYLEやダイアンは数年前から関西でもプッシュが強く、
昼間や深夜のテレビでも良く見かける機会が増えた。
ただ、個人的にはやはり「隙間の世代」というイメージがあって、
関西では彼らより下の世代の若手が注目されることが多くなった。

だが、そんな状況の中で踏ん張り続けるのがどれだけ大変で、
実力を必要とするかということは見る側はいつも失念してしまうのだ。

NON STYLEもダイアンもキングコングも、
若手の頃からそつないネタをこなす器用な芸人だった。
丁寧なネタ作り。
悪く言えば平均点的なネタ構成。
しかし、それが漫才を支える力だということを忘れてはいけない。

俺の知っている頃のNON STYLEは、
ツッコミの井上のイキリをいじって展開していくネタが多くて、
個人的にそういうタイプの漫才は好きじゃなかった。
NON STYLEは正直、好きじゃなかった。
まあこれは完全に好みの問題なので仕方がない。

しかし、そのシステムを捨てて、
新しい形の漫才でチャレンジして見事優勝。

もちろん今年のNON STYLEのネタでは笑いましたよ!

これまでに見たこともない、そんな衝撃はない。
それでも漫才は面白いのだ!

では、一応ネタ順どおりに感想をば。

トップバッターのダイアンはかなり緊張してたようですが、
ネタは去年よりグンと面白くなってた。すごいなぁ。

今年の笑い飯は面白かった!!!
はてさて永遠の優勝候補で終わるのか!?

モンスターエンジンは今年は勝ちに来てる感じじゃなくて、
来年以降に向けて虎視眈々という印象を受けた。達者なコンビだ。

ナイツは面白いし上手い。基本構造は古典なのに新しい。
ボケの数とツッコミの拾い方のセンスが抜群。好きだ。

U字工事のネタは展開が弱かったように感じた。
栃木ネタ一本だったのがなぁ…次は他のネタも見てみたい。

ザ・パンチは、もうこうなると逆に記憶に残るから有り。
っていうくらいに手痛い目にあっていたなぁw

NON STYLEに関しては上でも書いたけど、
新しいスタイルの漫才やって優勝できる実力は叩き上げだからこそ。

キングコングは去年の方が面白かった。
ネタ選びが難しいネタ順だしね。

敗者復活のオードリーはツッコミの若林が上手い。
春日のような強いキャラの漫才は、まず磐石のツッコミありきだ。

--------------

さて、ここでM-1自体への感想をば。
M-1という賞レースは今や、
芸人にとって欠かすことのできない番組となり、
それを指針にバラエティが動く状況となった。

開始当初はそれでよかったかもしれない。

しかし、逆に『M-1』という意識が強くなりすぎて、
本来M-1をとっていなくても仕事が増えても良いはずの芸人たちが、
いまだに日の目を見ないままだというのは寂しい現状だ。

あと、毎回思うが
ネタを見ている芸能人のリアクションをカメラで抜く必要はあるのか。
結構重要な部分が撮れていなかったりして、
テレビ的に優しくない。
というかまず何故あの場に芸能人を呼ぶ必要があるのやら。

吸い込む息が冷たく乾燥して肺にはりついていく。
吐き出す息は溶け出すように白くゆらめきたつ。

目に見えてしまう分、
体温が失われてしまったことがわかる。
少し寂しい。

でも、貰った暖かさだものなぁ。

諸星大二郎 / コンプレックス・シティとか色々購入

やったー!
諸星大二郎のコンプレックス・シティを手に入れたぞ~♪

コンプレックス・シティ

ずっと読みたくて古本屋を探し回っていたんだけど、
奈良県やその付近の他府県では見つけられずに、
ずっと気になっていた作品。
というのも、これには諸星大二郎のデビュー作
『ジュン子・恐喝』が収録されているのだ。

すでに絶版になっていて、古本屋でも見かけなくなった。
その為にAmazonの中古価格だと、
初版のものでなくても2,000円オーバーの価格帯。

もう少し安ければ…

そこでヤフオクで検索してみたところ、
発見しました!

しかも5冊セットで2,000円という良心的な価格!

セット内容は、

コンプレックス・シティ
マッドメン
海竜祭の夜 -妖怪ハンター-
暗黒神話
栞と紙魚子の生首事件


マッドメンは文庫版では持っていたが、
ワイド版のものは持っていなかったので、ずっと欲しかったのだ。
しかもワイド版でもジャンプスーパーコミックスの上下巻タイプのものではなく、
中央公論社の一冊にまとまった中公愛蔵版の奴だったので嬉しかった。
他に収録されている短編も読んだことないのもあったし。
嬉しい嬉しい♪

「暗黒神話」と「栞と紙魚子の生首事件」は持っていた。
「海竜祭の夜」も、
確か文庫版の妖怪ハンターに収録されていた気がするが、
やはり諸星はワイド版がいい。

Amazonで買っていたら一冊しか買えなかったが、
上手く探せば同じ金額でも5冊も買える。
まあ2冊くらいは完全に被っちゃったけど。
被ったのは友人にでもあげるとしよう。
マッドメンとコンプレックス・シティが嬉しいね。

いやぁ、楽しいねぇ。
マンガを置く専用の部屋が欲しい今日このごろ。

あ、そういえば昨日、新刊の巨人譚が発売されてたんだった。
買いに行かねば。

追記:15:05
みなさん、悲しいおしらせです。
買ったコンプレックス・シティを本棚に入れようとした所、
奥のほうで輝く一冊。
それはまさしくコンプレックス・シティでした。
僕はコンプレックス・シティを持っていたようです。
しかも購入価格は600円。
ひさびさに地獄をみましたw

マッドメンと妖怪ハンターだけでもいいやい!

凡愚ゆえに。

先日、自分の曲の歌を録音していたのだが、
いやはや自分の歌の下手さ加減には辟易するものがある。
歌が下手っていうのは音感がないとかリズム感がないっていうのにも、
かなり大きな影響を受けているとは思うのだが。
やっぱり下手だっていうのは自分で分かる。

しかし、だからこそ今は多少充実している。

下手だということを自分で認識できたなら、
それは下手からの脱却の糸口となる。
当然、苦悩はある。
できない自分にノイローゼになりそうにもなる。

それでもやっぱり音楽は楽しいという原点があるから。
表現に対して努力できる。
声で身体感覚や皮膚感のようなものを表現するには、
歌の練習だけではダメなのだろうな。
ということが、なんとなくわかってくる。

感情移入をしたり、演じるということからも見えてくる側面。
自分でも気づいていなかった自分の一面であったり、
日常生活から抜け落ちていた忘れかけていた感覚。

自分の中にないもの。
自分から抜け落ちたものを再び認識し再構築する。

下手でなければ味わえない快楽。
できないことが少しずつできるようになっていく過程は、
凡人がゆえに味わえる特権のようなものだ。

明日も凡愚のままだけど。
いつかは自分の歌を。

内面世界と外の世界の垣根を越えるような、
本当の自分の歌を求めている。

内面に深くもぐるということは、
外の世界と隔絶されるということではないはずだ。
少なくとも、今の俺には世間と自分は同じ領域のものだ。

100年後でも違和感なく聴けるような、
ちゃんとした遺作を残してからじゃないと死ねんよな。

キンモクセイ / 車線変更25時 [今、あえて]

こないだ音楽の話を色々としてたんだけど、
キンモクセイ」っていうバンドの話になった。

このキンモクセイは現在は活動休止中のようなんだけど、
セカンドシングルの『二人のアカボシ』っていう曲がヒットして、
一時的に世間の認知度が上がった。
とはいってもWikipediaの情報ではオリコン最高位が10位らしいので、
俺が思っていたほどは世間は意識していなかったのかな?
しかも、それ以降のシングルは、
オリコンランキングの10位圏内には入っていないようである。

今から約7年前くらいの話になるが、
『二人のアカボシ』は2001年の1月にリリースされている。
その当時の俺は18歳くらいの学生だったと思う。
その時期特有のヒネ根性もあってか、
昭和歌謡曲をモチーフにして、
ノスタルジーに浸りたい世代をターゲットにしたようなバンドが現れた。
くらいに思っていた。

『二人のアカボシ』という曲自体は好きでも嫌いでもなかった。
ただ、俺は昭和歌謡曲が大好きだったので、
目の付け所に少しシンパシーを感じていた部分はある。
だけど、その分だけ彼らに対する評価には、
なんとなく違和感を感じていた。

というのは臆面もなく言ってしまえば、
『二人のアカボシ』という曲は、
昭和歌謡曲のそのままの焼き直しだったからだ。
もちろん、それが逆に新鮮で判りやすかった為に、
この曲がヒットした理由の一つだろうとは思うが。
当時『二人のアカボシ』を購入した人たちというのは、
一体どういう感覚でキンモクセイを捉えていたのか興味がある。

個人的には『二人のアカボシ』という曲の時点では、
キンモクセイは特に気になる音楽をやっていなかった。
引っかかりの無い昭和歌謡曲の手法的模倣の域を出ていなかった。
昭和歌謡曲の中にある名曲の本当の力は、
模倣では再現のできないものだ。
当時の歌謡曲に曲を提供する作曲家の人たちというのは、
本当の化け物ぞろいで、
手法もセンスも量産力も全ての水準が高かった。

それだけに安易に昭和歌謡曲のニュアンスを模倣する
キンモクセイの存在を俺はあまり素直に受け止めることができなかった。

ところが俺の中の彼らの印象をガラっと変える曲が、
2002年の11月に発表される。

それが『車線変更25時』という曲だった。

最初にこれのPVを見たときに、
「キンモクセイは化けた!」と心の中で拍手喝采だった。
昭和歌謡曲の雰囲気はそのままに、
楽曲の中にはちゃんと個性を感じさせる独特の味が浮かんでいる。
さらにPVの映像も凝っていて、
古い世代の音楽をモチーフに音楽をやっている自分達を、
ある種コメディリリーフ的なダサさで表現することにより、
心地よいユーモアのセンスを感じることができた。

滑稽だけどカッコイイ。
この感覚は、昔の映像なんかと一緒に流れる
昭和歌謡曲を聴くときに感じる変な違和感の面白さに似ている。
ノスタルジーだけではないエネルギーがあるんだよ。
しかも実際、曲の出来がいいんだコレが。

だけど、オリコン最高位は22位という残念ぶりのよう。

いくらなんでもこれは評価低すぎだよ。
曲自体の出来だけでも本来ならもっと売れていいはずなのに。
まあそのCDを買っていない俺が言うべきことじゃないけどw

でも明らかにキンモクセイは『車線変更25時』という曲で、
総合的な表現者として覚醒している。
この曲をきっかけにキンモクセイはもっと売れるだろうな。
という予感がしたのを覚えている。
でも結局は、これ以降も世間的な評価は変わらず、
セールス的にはさらに下降してしまったようである。

かくいう俺も頭の片隅にはキンモクセイの存在は残ってはいたものの。
追いかけてチェックをするほどではなかった。
それに、もうその頃には俺自身が、オリコン至上主義に嫌気がさし、
自己模倣を繰り返すことでマスコントロールを覚えた業界側扇動の
サイクル型の商業音楽の台頭に飽き飽きしていたので、
流行の音楽というものに急速に疎くなっていったのにも原因はあるが。

しかし、今だからこそあえて改めて言うが、
『車線変更25時』はもっと評価されて良い曲だ。
キンモクセイ自体のことは、他の曲も知らないので何とも言えないが、
少なくとも、この曲は良い曲だと思うので、
今だからこそ色んな世代の人に、
ちゃんとこれを聴いて欲しいなぁと思う次第だ。
昭和歌謡曲の良さも、キンモクセイの良さも、
どちらもが詰まった面白い曲だと思う。

ザックリと握る

先の見えない無明の世界にも、
いつか光明が差し込み
仄白い月輪は密やかに浮かぶのだろう。

いつの日か、ひっそりと。

しずかに。

そうなるように、じっくりと。

溜め込むように、

息を吸い込んで。

・・・・・・・・・・・・・・。

吐き。

吸い込んで。

・・・・・・・・・・。

吐く。
吸い込み。

・・・・・。

吐いて。

そうしているうち腑に落ちる。
染み渡る。
血潮となり駆け巡る。

全身を。
血管を。
細胞を。

気のせいで気のせいが
気のせいじゃないような気のせいがする気がするが気のせい。
その気のせいで気のせいじゃないのに
気のせいは気のせいのままで気のせいじゃなくなる。
でもそれが気のせいだって気もしなくもなくもない。

で、「気」ってなんだっけ?

把握とは案外そういうもんだ。

性空説

世の中には大きく分けて人の本性を説く説が二つあるよね。
性善説性悪説

一部で誤認されているこの二つの説は、
人の本性は善だとするのが性善説で、
反対に悪だとするのが性悪説と言われてる。
ただし、誤解を受けやすいけど、
性善説と性悪説はそういった意味での二元論じゃない。

・性善説
「性善説は、人は生まれた時には善だけど、
歳をとるにつれて本性を隠したり堕落したりすることで、
後天的に悪行を覚えていくという説。」

・性悪説
「逆に性悪説は、生まれた時には悪だけど、
歳をとるにつれて理性を学び、
後天的に善行を重ねる為の修練をしていくという説。」

性善説は孟子って人が解いた説で、
性悪説はそれに対する荀子の反論の説として生まれたとされてる。
だから、この二つは相反する説のように思われがちなんだけど、
実はまったく同じことを言っているように思う。

性善説は人の本性は善だが悪行を覚えていく。
性悪説は人の本性は悪だが善行を覚えていく。
一見相反する説のように見えるかもしれない。
けれど、実はこれらはまったく矛盾などしていないんじゃないかな。
つまり人の本性とは「空」であると俺は認識してる。

・性空説
「人は生まれた時には空っぽだけど、
歳をとるにつれて多くの物事を知り、考え、学ぶことで
後天的に善行や悪行を覚えていく。」

善悪というのは定義のできないものであり、
それは時代や土地によって異なる価値観へと変わる。
自らの中に蓄積されたそれらを、
善や悪の価値観で分断しようとすると、
絶対に矛盾という命題にぶつかる。

善悪を定義しようとするのはナンセンスだ。
多くの宗教や法律がそれらに挑戦してきたが、
それらは個人や群集の意思をコントロールする為に、
都合の良いように使われてきただけだ。
宗教における教義や戒律には、
ここでは語りつくせないほどに複雑な意味や意図が組み込まれている。
なのでその辺のことは、ここでは割愛するけど。

人は群集になると途端に個人の価値観を見失う。

本来は人は孤独になることで自らの「空」を見つめる。
一人で居すぎると人はどんどんと孤独との対話を初めてしまう。
空とは無に似ている。
自分の中の空っぽ。
全ての人の中に常に満ち溢れているものとは、
絶対的な喪失感である。

多くの人がそれらの喪失感を埋めるために、
様々な行動をとる。
たとえば物欲、たとえば情欲、たとえば食欲。
欠損・欠如・欠落により人は求める。
求めることは悪か否か?

それは誰にも分からない。

人の創造力の根源は喪失感にある。
「無い」から「欲しい」し
「欲しい」から「創る」。

それが時に、ある価値観において善であったり悪であったりするだけだ。

大切なのは誰かの権利を侵害して、
それらを成そうとしないことだ。

空っぽの世界に空っぽの生命があふれている。
そこには必ず何かが満ちている。
その「何か」こそが「空」の本質であるはずなのだ。
自己紹介
  • 世界の住人である証として


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