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「苦労は買ってでもしろ」←アホの意見

「苦労は買ってでもしろ」という言葉が大嫌いだ。
苦労せずにすむなら、苦労などしないほうがいい。

苦労なんてもんは他人様に見せたり、
ましては苦労比べをするためのもんじゃない。
その経験で人間的に成長できました、なんて言ってる奴は
自分のした苦労に対してツバを吐いてるようなもんだ。

苦労によって人が成長するという誤った認識も改めて欲しい。
人によっては経験した苦労によって
どうしようもないほどズタボロの人生に落ちていく人だっている。
もちろんその苦労が活きて成功をする人も沢山いるが。

こればっかりは個々人のもつ資質と運による所が大きい。

それに多くの苦労をした人でも、
人によって出来上がる人間性というのは様々だ。
自分が経験した苦労をかさにきせて、
人間的な成長をうたうような奴を俺は信用していない。
すでに苦労を終えた人間の語る苦労など、
喉元を過ぎた熱の残滓にすぎない。
今自らが「本当にどうしようもない」という状況におかれた人間に、
その苦労は大切だ、と誰が言えるのか。

しかし沢山苦労した人の多くが、その過去を振り返りみて、
苦労したことが自分にとって
良い経験になったと思っているのは事実なのだろう。

ではなぜ人は苦労から成長したり、
劇的に価値観を変えたりすることがあるのだろうか。

それは苦労のすぐそばに必ず苦悩があるからだろう。
苦悩するということは多くを考え、
現在の自分を取り巻く状況からの抜け道を探る修練となる。
人は苦労したから成長するのではない、
苦労せざるを得ない状況に追い込まれるからこそ、そこで苦悩する。

そうして自分が経験した辛苦から逃れたり、
その苦労を無駄にしない為に、
価値観を変えたり、忘れたり、目を瞑ったり、
状況に応じた自分のバランス感覚を鍛えていく。

買って出るような苦労は苦労ではない。
そこに本当の意味での苦悩はない。

そして
苦悩し、新たな道や価値観を見いだせる資質を持った人ならば、
本当は苦労などせずとも多くの事柄から多くを学び、
自分の人生に活かすことができるはずだ。

本当は苦労から得られるのは苦労のみだ。

だからこそ人は苦労に意義を見出そうとする。
少しくらい何か見出さなければやってられない。
それが苦労による成長や価値観の変化に繋がる。

そうして苦労の本質を忘れる。
苦労をした人間は偉いのか?
違うはずだ。
苦労をせずに苦労した人間と同じことができる人間は、
苦労した人間より偉くないのか?

苦しいのや辛いのは嫌だ。
それを知っているからこそ、
多くの人が、そうならない為の世界を作ろうとしているのではないのか。

多くの人が自分が経験した観点でしか物事を見れない。
その苦労や苦悩がどれほどのものかは他人には想像できない。
当然、自分が苦労と立ち向かうと決めることも自由だ。

自分が選択した結果に責任を持つからこそ。
人は成長していく。
成長せざるを得ないからだ。

意識や志の低いものが、どれだけ苦労をしようが、
それはただの苦労にしか過ぎないことがわからず、
そこから何かを得たような錯覚に陥って、
自らの価値観を他者に押し付けようとする。

他人様に苦労をしたから成長できるなどと、
恥も外聞もなく説けるような人間の経験した苦労など、
所詮たかが知れている、と俺は思う。

自分の力ではどうにもならない苦労というものが世界には数多くある。
苦労によって本当に人間的な成長を遂げたような人は、
自らの苦労を他人に自慢げに語って聞かせるようなことはしないと思う。
そのどうしようもない絶望を知っているからこそ、
他人には同じような経験をして欲しくないと思う。

少なくとも俺は、苦労によって成長を実感したことなど一度もない。
苦労はせざるを得ない状況が勝手に来るものだ。
それを何とか乗り越えてやっと、
変化した状況に納得したり、自分を納得させていくことを身に付ける。

明日、餓死するかもしれない人たちに、
「その苦労は宝だよ」と声をかける人間がいるだろうか?

しかし、それほどまでに身に迫った苦労でないのなら、
そこから人が人間的に成長するなどということはほとんどない。
つまり「苦労は買ってでもしろ」という言葉は、
本当の苦労を知らない人か、
自分の経験した苦労こそが絶対だと信じて疑わない人の、
独善的な考えから生まれ出ている気がする。

苦労なんて、誰だってしたくない。
少しでも多くの人が苦労せずにすむ世の中を作るためには、
まず自分が苦労を大切だ、などと思わない所から始めるしかない。

苦労は苦悩とセットになって初めて
人格形成において意味を持つものであろう。
苦労という経験のみを取り上げて、
他者に苦労を背負い込ませるような言葉は
誰の為にもならないと俺は思っている。
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自我自散漫

よく、突拍子も無いアイデアが浮かぶ。

浮かんだアイデアをメモしておくのがクセなのだが、
それは本当に突然浮かぶ突拍子もないアイデアなので、
どうやって実現するんだ、といった類のことも沢山ある。
というかそれがほとんどだ。
メモした内容を読み返しても頭がおかしいなぁと思う。

実現できないと判っていてもアイデアを煮詰めていく過程。
他人からすればムダなことをずっとやっているだけの人間だ。

でも俺はそんな損得だけで考えずに
時間を浪費することが大好きだ。
有益か無益かということで考えれば、
価値基準をどう持つかにもよるが、
基本的に無益なことなどほとんどない。

ムダな時間を過ごしたと考えるよりは、
過ごした時間をムダにしない為の思考を見つける方が良いと思うからだ。

アイデアを煮詰めていく過程で得た、
ひらめきと洗練の手法というのは、
どういう状況においても流用できるしね。

こうしてブログを書いていても、どんどん話が飛躍して、
書くべきことを書かずに次へ次へと派生していくので、
本当に読みにくいブログになっているのだろうなぁと反省はするけどw

奥のふたにち

日曜日に奥井亜紀さんのライブに行ってきました。
場所はESAKA MUSE。
んで今日、もう昨日か。
なら100年会館での奥田民生さんのライブに行きました。

ということで奥の二日(ふたにち)。

奥井亜紀は15周年ライブだ。
今年は3月のハルドロップにも行ったので二度目の奥井亜紀だ。

CD音源も素敵だけど、
やっぱり奥井亜紀の生の情感の凄さったらない。
大好きな「愛はかける」をやってくれたし嬉しかったなぁ。
初めて聞いたのは小学生の頃だったから、
色々と思い出して感慨深いものがあった。

新曲の「月と自転車」っていう曲も良かった。
奥井亜紀の何が凄いって、
初めて聴く曲をいきなり覚えさせてしまえることだと思う。

十五夜の月は夢への入り口。

だったかな?
凄く好きな雰囲気の曲だった。

前々回のライブの時に
新曲の「海の底のホテル」を聴いて鳥肌がたったけど。
今回の「月と自転車」も凄かった。

ただ少し寂しいのは、
CD音源の海の底のホテルよりも、
初めて聴いた時の方が素敵だと感じたことかな。

アレンジやミックスって答えのないものだからなぁ。

最近のアルバムも勿論好きだけど、
音的にはDENIMUMやcyclongの頃の方が好き。
でも出来上がったものが楽しめるレベルであれば問題ない。
実際、生で聴くと本当に良いしね。

リズムセクションのないギターとシンセとボーカルだけで、
あれだけのライブを成立させてしまえるのは本当に凄い。
3500円の価値は十分にあるよなぁ。

さて、そんでもって今日は奥田民生だ。
「明日はどうだ」からラストの「イージューライダー」まで、
なら100年会館は熱狂に包まれていた。
しかも近くて楽しかったなぁ。

せんと君ネタは思った以上にウケが悪かった感じだったけどw

そういえば民生も今年は二度行った。
確か2月にFantastic Tourがあった。
よもやFantastic Tour Againで奈良に来てくれるとは。

奥井亜紀のハルドロップは今年の3月。
思えば、このときは奥のふたつきだったんだね。
この二人は同じ時期にライブをやるようになっているのか?w

とにもかくにも、
ライブはやっぱりいいよね、ってことで。

来年は新居昭乃が来てくれたらいいなぁ。
その前に新譜待ちかな。
2月にZepp東京であるみたいだけど。。。
来年、昭乃たんが来てくれなかったら、
東京まで見に行こう。

そういや坂本真綾のライブチケット取れるかな…

日ユ同祖論から考察する複合的な日本語形成

今月の頭に友人二人と一緒に伊勢旅行に行った。
その道中の車内の会話で、
日本人とユダヤ人との共通点についての話題になり、
まあ色々と話をしていたのだ。

その後、伊勢神宮に参り、
俺はこれまでに感じたことがないほどの心地よさを感じた。
伊勢神宮の雰囲気に飲まれたのは間違いない。

その後、色々と調べるうちに面白いことが分かり、
色々と妄想が浮かんだので、
考証を含めたトンデモ論として記しておくことにする。
かなり長くなるので、興味のない人は読み飛ばしてください。

俗説では日本のルーツのひとつに、
ユダヤ人の失われた十支族の渡来があるのではないのか、
という考証があることはご存知の方もおられるかと思う。

日本語とユダヤ人が使うヘブライ語の共通点については、
詳しくは以下のサイトなどをご覧になって頂くのが早いだろう。

Renaissancejapan:日本語とヘブライ語
言葉の杜

上記のサイトの日本語とヘブライ語からの一例をあげるならば、
ミカド (帝)     - ミガドル (高貴なお方)
サムライ(サムライ)  - シャムライ(守る者)
コマル (困る)    - コマル  (困る)
スム  (住む)    - スム   (住む)
ツモル (積もる)   - ツモル  (積もる)
コオル (凍る)    - コ-ル  (寒さ、冷たさ) 
スワル (座る)    - スワル  (座る)  
アルク (歩く)    - ハラク  (歩く)
ハカル (測る)    - ハカル  (測る)
トル  (取る)    - トル   (取る)
カク  (書く)    - カク   (書く)
ナマル (訛る)    - ナマル  (訛る)
アキナウ(商う)    - アキナフ (買う) 
アリガトウ(有難う)   - アリ・ガド(私にとって幸福です) 

等など、列挙しだすとキリがないほどである。
しかも酷似した言葉と意味が多すぎる。
これほど類似した言語体系を持つというのは、
果たして偶然なのだろうか?

冒頭の伊勢神宮のイセという言葉も
ヘブライ語にイェシュという似た言葉があるようで、
イェシュ=神の救いという意味だそうだ。

これはイエス・キリストのイエスにも通じるものがある。
そのイエス自身はもともとはユダヤ人であり、
ユダヤ教の完成を目指した宣教師であったと言われている。
また国によってはイエスのことをイセと発音する国もあるそうだ。

俺の中に渡来したユダヤ人の遺伝子が含まれているとして、
本能的に伊勢神宮を特別な場所であると感じるのは、
不思議なことではないのかもしれない。

また、日本の青森にキリストの墓というものがあるが、
これは流石に無理があるように感じる。
インドのカシミール地方にもキリストの墓と呼ばれる場所があり、
恐らく他の世界各地で同じような説があると思われる。
村おこしや町おこしの一環と考えるのが自然だろう。

ただし紀元前722年にイスラエルはアッシリアとの戦争に敗北し
イスラエルの十支族は東方へと逃げ落ちたという説があり、
その一部が東方の島国である日本へと辿り着いた。
というのは考えられない話ではない。

これは北側から攻め込まれ地中海や砂漠方面へは逃げられない
という地理的要因を考えればあり得ない話ではないようだ。
つまりこれが序盤で述べた
ユダヤ人の失われた十支族の日本渡来説の源流である。

さらにアッシリア侵攻以前の
ダビデ王に統治されていたイスラエルというのは
12の部族からなる王国であり、
その息子のソロモン王の死後、
南北に分裂し北王国イスラエルの十支族と
エルサレムを首都とする二支族に分けられたようである。

また北王国イスラエルは、ユダヤ教のような
一神教を奉じていなかったと考えられており、
これは日本神道の八百万の神の考え方にも通ずる所がある。

しかし一神教であるユダヤ教と
日本神道にもかなりの共通点がある。
塩での清め、神輿とアーク、三種の神器などなど。

さらに日本の皇室で使われる16枚の菊の紋も、
似たものがエルサレムのヘルデ門という所に刻まれているようだ。
これはユダヤだけではなく、
シュメールやバビロニアなどの王朝に使われていた紋のようで、
現在では16枚の菊紋を家紋とする王家は、
日本の皇室のみのようである。
ここに何らかの関係性を見いだすのは深読みだろうか。

さて、なぜ一神教を奉じていなかった失われた十支族と、
一神教であるユダヤ教の両方との類似点が、
日本神道の中には含まれているのだろうか?

一説には弥生時代の出雲族と日向族の対立は、
失われた十支族とエルサレム二支族との
対立構造に似ているとも言われる。
さらに出雲族と日向族はもともと同じ部族であり、
海の向こうから来たと言われている。
これが失われた十支族と
エルサレム二支族であったのかどうかは分からないが。

日本の先住民族は倭人と言われたが、
そのうちの『隼人』と呼ばれる民族は
インドネシア系の部族であったのではないかという説もあり。
その先住民族達もまた、
外から日本に渡来した民族であった可能性がある。

それら多種多様な民族が入り混じった島国において、
当然多くの戦いが起こったが、
やがてそれらは時代と共に融合、融和していったと考えられる。
それが日本神道における十支族と二支族の、
宗教的融合へと繋がったのではないかと俺は推測する。

また日本が他国の文化を取り入れるのが上手いのには、
そのような様々な民族が古代から入り混じり混血されたが故に、
多種多様な文化様式を受け入れる土壌ができ、
世代を重ねるごとに自然に溶け込んでいったのではないだろうか。

ユダヤ人は最も知的な民族集団の一つであるとされ、
また言語に優れた人種であることも知られている。
その為、現在でもイスラエルでは
数ヵ国語の言語を使うのは珍しいことではないらしい。

これが聖徳太子が十人の言葉を一度に聞いて理解した、
という逸話の元になっているかもしれないという説がある。
つまり聖徳太子は帰化人で、
十の国の言葉を使うことができたのではないか?
とする説があるのだ。

また、日本語が複雑で難解であるということは、
日本人自身も理解していることだろうとは思うが、
日本語の最も難しい所は文字種の多さと、
さらに読みのパターンの多さであろうと思う。

漢字やひらがなカタカナなどの多様な文字種、
なおかつ、それらを複合的に組み合わせつつ、
50音の表現領域ですべて結実させてしまっている。

音読み、訓読み、というのも日常的に使い分けているが、
普通に考えれば難解な言語であることは疑いの余地が無い。

これは日本語という言語自体が長い年月をかけて、
あらゆる民族と言語を取り込んで成立した
複合的な統一言語であるからだとは考えられないだろうか。

カタカナは漢字から作られた文字だという認識が一般的だが、
ヘブライ語を起源とした文字である可能性が示唆されている。
カタカナでコカコーラと書かれた看板をみたユダヤ教団の人が、
ヘブライ語を読んでいるのかと勘違いした、という話もあるそうだ。
さらにそれがヘブライ語でもコカコーラと読めなくもなかったらしい。
詳細は以下のサイトにて。
日本語の「仮名」とヘブライ文字の関係

漢字は古代中国から伝来した象形文字である。
右と左の書き順が違うのは、
右が右手を、左が左手をそのまま表しており、
それぞれ指の部分から書き始めるという法則がある為に、
左と右の書き順が異なるということになってしまう。
これを分かりやすく絵で説明したサイトがあったので以下に。
左と右の書き順の違い

少し話は戻るが、聖徳太子についてもう少し。
聖徳太子は馬小屋で生まれたと言われ、
その為に厩戸皇子と呼ばれた。
これはキリストの出生の逸話とほぼ同じであるが、
そこらへんのことは聖徳太子を神格化しようとした人間たちが、
後から付け加えた逸話であるとも考えられる。

そのキリストと日本の関係については、
象形文字である漢字が非常に面白い見解を示唆してくれる。
日はそのまま太陽を。
本を分解して考えると、一と人で大。
大は両手を広げた人間を表し、
その下に十という字がつき本に。
十は十字架をあらわし、
本は十字架にかけられたキリストを表す文字だというのだ。
眉唾ではあるが漢字自体も、
キリストの使途の末裔によって作られたなどという説もある。
当然真偽は定かではない都市伝説の類であることはご留意願いたい。

日本では秘伝書のことを虎の巻などと呼ぶが、
これは一般には中国の兵法の秘伝が記された
「虎韜の巻」が略されて虎の巻と呼ばれるようになった。
というのが通説である。
しかしエルサレムのヘブライ大学で大人気の、
日本の歴史を教える講義を行うシロニー教授によれば、
虎の巻のトラとは「トラー(モーセ五書)」ではないかという。
トラーとは巻物であり、知恵と霊感の源だそうだ。

俺にはこのどちらが虎の巻の語源であるかは分からない。
しかし全ての言葉というのは真理に近づく暗号であるという
自説を持つ俺にしてみれば、
そのどちらもが語源であると言えるのではないかと思える。

「断る」は断つことを意味する。
バベルの塔の話を思い出して欲しいが、
もともと世界中の言葉は統一されていたと考えられていた。
それが天へと届く高い塔を作り、
神の領域へと到ろうとした人類を罰するために、
神が人類の言葉を分けたという神話伝承がある。
これはつまり「言(こと)・割る」である。

しかし逆説的に考えれば「言」を「割る」ことで、
「言・割り」は「理(ことわり)」
つまり真理へと到る糸口でもあると俺は考える。

もし日本語が多民族の複合的な
言語統一が成された言語であるとした場合。
その言葉を深く探求することは無意味なことではないと考える。

ただし。
気をつけなければいけないのは、
日ユ同祖論の裏側には、
何者かの意図のようなものがあるかもしれない。
という可能性を頭に入れておかなければならないということだ。

日本人の国民性というのは享受と発展にある。
徹底的にオタク気質な国民性を持っている為に、
観点という指針を与えられてしまうと染まりやすい。
あらゆる物事を多角的に見て、
自分で考え捉えていくということが最も重要であろう。

しかし日本語とヘブライ語の共通点には目を見張るものがあるし、
今回では書ききれなかった多くの共通項が日本とユダヤにはある。

調べれば調べるほど、奇妙な共通点が見つかるのだ。
それゆえにエルサレムのヘブライ大学では、
日本の歴史の授業が立ち見が出るほどの満員の講義となるのだろう。
これらはもっと多角的な検証によって、
より明確にそれらのことが明らかになっていくかもしれない。

非常に興味深い。
かなり長くなってしまったが、
これでもまだ書き足りないことが山ほどある。
研究的に論理立てて考察するだけではなく、
娯楽としてこういったものを考察し妄想することこそ、
学問の楽しさというものではないだろうか。

そう思う今日この頃だ。

参考資料、及び参考URL
Wikipedia
Renaissancejapan:日本語とヘブライ語
言葉の杜
日本語の「仮名」とヘブライ文字の関係
左と右の書き順の違い
古代日本、ユダヤ人渡来伝説 (著:坂東誠、PHP研究所)

ダイエット中間報告

えー、俺がダイエットの決意をしたのが今年の2月ごろ。
当初の体重は97キロでありました。

そしてダイエット開始から約7ヶ月。
現在79キロまで体重を落とすことができました。
97キロが79キロになったので
記念の意味もこめた中間報告です。

4月ごろからスポーツジムに通いはじめ、
7月くらいにはレコーディングダイエットもはじめました。

ジムに通いはじめたとはいえ、
その7月ぐらいの時期までは
体重も増えたり減ったりを繰り返しておりました。
一時期は決意時の97キロを上回る、
99.9キロという銀河鉄道っぷり。
これではいかんとジムに行く回数を少し増やしましたさ。

ちょうど6月の奥井亜紀さんのライブのMCで、
キーボードの西本明さんが
レコーディングダイエットに成功して痩せた。
という話題が出ていたのもあって、
それじゃあ俺も始めてみようと軽い気持ちで始める。

そこから徐々に体重は落ち始めまして、
特にレコーディングダイエットは普段の意識を変えるという意味で、
非常に効果的だったと思います。
レコーディングダイエットを開始してから2ヶ月程度で、
ちゃんと覚えている訳ではないですが、
ダイエット開始当初から10キロ程度の減量には成功。
約87キロぐらいにはなっていたと思います。

が、しかし!
もしかするとレコーディングダイエットは俺に向いていないのでは?
という疑問が8月ごろから生まれ始める。

もともと間食をしないタイプの人間なので、
レコーディングダイエット特有の、面倒くささによる恩恵は
ほとんど受けることができていないことに気づきます。

ただし、コンビニなんかで食べ物を買う際に、
カロリーの記載を見るクセがついたのは良かった。

しかも、その8月頃はプライベートでも色々あり、
自分自身の意識改革をせねばいかんと決めた時期でもあります。
ブログの更新回数も8月以降は目に見えて減っています。

ちょうどこのくらいの時期に体調を崩したりして、
ご飯が喉を通らなくなって体重が落ちます。
さらにジムも休みがちになっていたこともあり、
多少つきはじめた筋肉も落ちて一気に体重が落ち始めます。

不健康な体重の落ち方ですね。

食べないことに慣れると、
丸一日食事しなくてもまったくお腹が減らなくなってきます。
その頃にはグングン体重が落ちる面白さから、
ご飯を食べないことにハマるという悪いダイエットをし始めます。
当然これは身体に悪いのでやらない方がいいです。
俺はそれで10月末に立ちくらみで倒れて額をケガしました。

そんな経験を踏まえまして、
最近は胃腸のことも考えてヨーグルトをよく食べたり、
ほんのり栄養バランスを意識したりしています。
意識する、というのはおそらく重要なことで、
脳がそれを意識してやることで
プラシーボ効果的に身体には結果が出始めます。

あと、ダイエットをしていて分かったことがいくつかある。

・寝る前の食事は太る
誰でも知っている当たり前のことなんですが、
夜型の行動パターンを持つ人にとって、
夜食の魅力というのは計り知れないものがあります。
そこに酒が加われば、もはや麻薬級です。
しかし就寝4時間前からはなるべく食べないだけで
体重は適正体重へ向けて下降するはず。

・カップ麺は体重を残す
何故なのか理由はわかりませんが
カップ麺は翌日以降にかなり体重を残す気がします。
同じカロリーのものでもカップ麺の方が体重が残ります。
感覚的には何日間かは残っている感じ。
痩せにくくなる身体になるというか、そんな感じです。
とはいえ夜食のカップ麺ほど美味いものはない。
太る為には黄金のコンビネーションだ。
食べたいものを我慢したくないなら、
やはり運動して調節するのがベストだと思います。

・声に出して言う
これはダイエットだけに限らずですが、
意思決定を他者に声に出して伝えれば、
次第に結果を伴わせることに繋がると思います。
言っているうちに自分もその気になってくる上に、
その為に身体は準備を始めます。
ブログに書くだけよりも、声に出して言う、
さらに一人の時より、誰かに対して言う方が効果的。
最初はウソでもいいので、
声に出して意思を明確化するということが重要かと。

はい、ということで、
以上でダイエット中間報告でした。
急激に落ちた体重なので、
リバウンドというのも全然考えられるんですが。
次の報告がリバウンド報告ではなく、
目標達成の報告にできるようにがんばります。

なんか普通のことばっかり書いてるな俺…
心の贅肉だけは落としたくないと思う今日この頃。
ムダなものって素敵だよね。

どうしようもないからやるんだよ。

人の世というのはどうしようもない。
どうしようもなく愚かだ。

愚かだと分かった時、人はどうすればいい。
どうしようもないと匙を投げればいいのか。

どうしようもない事が、どうしようもないと分かったなら、
人の愚かさを知ったなら、
人はせめてマシであろうと足掻いてみせるしかない。

キレイ事を言う覚悟。

このどうしようもなく愚かな世界も、その覚悟さえあれば。
本当はどうしようもないなんて事はないと思える。

自分と世界の成り立ちを考える。

父と母から生まれ、
色んな人と出会い、色んなものを知り、色んなものを見て。
今ある自我というのはそれらの反響のようなものだ。

自分は自分という固体が触れたものすべての残響。
その自分は父と母から作られたものであり、
本当の意味で自分が手に入れたものなど何一つありはしない。
人間の本質とは与えてもらうことと失うことだ。

ならば本当の自分はどこにある?
という命題に人は誰しも出会うだろう。
その答えは誰も知らないかもしれない。

自分の中に影を響かせる他者もまた、
自分と同じように何かの映し鏡なのだ。
万物のすべてが他からの恩恵や影響を受けざるを得ない。
個のみで成立する存在はありえない。

すると自分と他のものを隔てる境界は曖昧になる。
自と他の境界はない。
全ては一つの存在だ。
螺旋の中の鎖の一つだ。

そうして初めて他の存在がこそが愛だと感じられる。

完全であることは閉じた円環だ。
全ては不完全だから螺旋となる。

その螺旋の鎖の中の一つである、
愚かな自分には一体何ができるだろう。
賢くなれないのだから、できることは限られている。

ひとつずつ。
すこしずつマシであろうと前へと進みたい。
キレイ事をキレイ事で終わらせたくない。
腐った世界を美しいと呼ぶ為に俺は生きる。

この世界に俺を生んでくれた母に報いたい。
醜くて美しくて、苦しくて楽しかったよ、
だからありがとう。

そう言える自分でありたい。

チバマコト / 賢者の意思

結構前に友人にチバマコトというアーティストを紹介して貰った。
その友人も違う友人から紹介して貰ったらしいのだが、
最初に『賢者の意思』を聴いた時の衝撃ったらなかった。
丸一日、落ち込んだなぁ。
純粋にこの曲を良い曲として楽しめるようになるまで
結構な時間がかかったものです。

このチバマコトという方は一応プロではなくアマチュアの方なので、
勝手にブログで取り上げて良いのかという疑問もあるのだが。
とにかく良い物は沢山の人に聴いてほしいと思うので紹介。

パフォーという番組のサイトに投稿された映像と音源です。
番組の方にも出演したらしいのだが、
残念ながらそっちは見ることができなかった。

チバマコト/賢者の意思

独自性というものに対する憧れが強い人間なので、
こういう表現者には畏敬の念を抱かざるを得ない。

個人的にはどのような形であれ、
チバマコト氏には好きなように、
自由に自分の音楽を作り続けて欲しい。

言葉遊び -配列と印象-

今日はみんなの想像力を使った実験的な遊びをしてみましょう。

それぞれ単体で見たときにはあまり何も感じないが、
いざ並べられてしまうと
想像力をかきたてられずにはいられない。
そんな言葉遊びです。

関連性のない別々の写真を並べることで印象を付加する
モンタージュ技法という演出論がありますが、
それの言葉バージョンだと思っていただければいいかと。
ただし実験的な要素も強い為、
俺が付加したい印象は与えられないかもしれませんが。

あなたが何を想像するのも自由です。
俺はただ、楽しんでほしいと思います。
こんなに短い言葉だけでも世界は広がるとういことを。

ではどうぞ。

寝る

固い

飲む

包む

行く

幸せ


さて、あなたは何を想像しましたか?w
最後の方にはあからさまだと感じたか方もおられると思いますが、
言葉が他人の中で像を結ぶ
メカニズムを肌で感じられたことでしょう。

これらの単語がただ雑然と並べられているだけならば、
多くの人はそこから意図を見いだそうとはしない。

しかし、それらがある意図によって配列させられた時、
人はそこから何かを汲み取る。
これが配列による印象の操作だ。

余白の文化と言っても良い。
他人に認識の多くをゆだねる。
しかし、それらを意図的に配列することにより、
最大公約数的な印象を付加することができる。

話は飛躍するが、
我々がなぜ顔の絵を見たときに、
それを顔と認識することができるのか。
線が顔に見えた時の、
内側と外側の白の差は一体何なのか?

それは発信する側と受信する側の、
ある種の信頼関係によって成り立つ。

というよりは、
受信側のリテラシーに依存する部分が大きい。

今回の記事を書くにあたっても。
もっと言葉の数を減らしても大丈夫だろうという思いと、
意図を汲み取ってもらえないのではないか?
という不安の両方があった。

個人的にはかなりあからさまにし過ぎてしまったと思っている。
それは受信側をバカにしているからではない。

これよりも言葉数を減らして、
最終的に与える印象を同じレベルのものにしていく。
ということが手法的洗練である訳で。
それは受信側のリテラシーに対して、
どのレベルでアプローチできるのかという、
発信側のリテラシーを要求されているに等しい。

つまりバランス感覚だ。
俺にはまだそのバランス感覚が掴めていないだけだ。

さて、ここで一応、
俺がどんな印象を付加しようとしたのか、
ということを明確にしておかなければならない。

今回、俺が言葉の配列によって与えようとした印象とは、
『SEX』だ。

キーとなる単語を
イメージしやすいように行為的な時系列にそって並べる。
それも類型化されているAVなどの手順どおりに。

最終的には
「発射2回の気持ち良いSEX」を、
単語で切り取っただけのものが抽出される。

つまりこれは類型化されたAVを見ていない人、
またはそれを見た世代のセックスになれていない人、
などには恐らく理解しづらいものだったかもしれません。

それどころか、10人中9人は
分かるかボケ状態っていう可能性すらある訳ですがw
もしうまくいってなくても、
まあこんなバカバカしいことを大仰な理論をつかってやっている。
という所を楽しんで頂ければそれでいいかなと思いますw

タチ=ク=ラミ

はい。
本日のタイトルには富野風ネーミングセンスをあしらってみました。

ということで、立ち眩みですよ。
昨日はほとんど食事もとらず、満足な睡眠時間でもなかったのもあり、
そんな最近の不健康な生活のツケが祟ったのか、
立ち上がってから数秒くらいしてドサっと倒れてしまいました。

また、その時に運悪く頭を強打してケガをする。
右上のおでこのところに切り傷のようなたんこぶ出現。
頭だったので少し心配になり
久しぶりに病院に行き治療を受ける。
2~3日は入浴やアルコールを避ければ、
大丈夫だろうと言われ、帰宅。

痛み止めを飲んだせいか
いつもよりも早くに眠たくなってしまい、
記事を書いている途中で眠る。

おきてみれば深夜1時。
もう一眠りしたいが、タイミングが難しい。

さて日曜日は友人たちと温泉旅行だというのに。
まあその頃には温泉くらいには入れるようになっていることでしょう。
いやぁ、倒れるまでの立ち眩みになったのは初めての体験でした。
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