「苦労は買ってでもしろ」←アホの意見
「苦労は買ってでもしろ」という言葉が大嫌いだ。
苦労せずにすむなら、苦労などしないほうがいい。
苦労なんてもんは他人様に見せたり、
ましては苦労比べをするためのもんじゃない。
その経験で人間的に成長できました、なんて言ってる奴は
自分のした苦労に対してツバを吐いてるようなもんだ。
苦労によって人が成長するという誤った認識も改めて欲しい。
人によっては経験した苦労によって
どうしようもないほどズタボロの人生に落ちていく人だっている。
もちろんその苦労が活きて成功をする人も沢山いるが。
こればっかりは個々人のもつ資質と運による所が大きい。
それに多くの苦労をした人でも、
人によって出来上がる人間性というのは様々だ。
自分が経験した苦労をかさにきせて、
人間的な成長をうたうような奴を俺は信用していない。
すでに苦労を終えた人間の語る苦労など、
喉元を過ぎた熱の残滓にすぎない。
今自らが「本当にどうしようもない」という状況におかれた人間に、
その苦労は大切だ、と誰が言えるのか。
しかし沢山苦労した人の多くが、その過去を振り返りみて、
苦労したことが自分にとって
良い経験になったと思っているのは事実なのだろう。
ではなぜ人は苦労から成長したり、
劇的に価値観を変えたりすることがあるのだろうか。
それは苦労のすぐそばに必ず苦悩があるからだろう。
苦悩するということは多くを考え、
現在の自分を取り巻く状況からの抜け道を探る修練となる。
人は苦労したから成長するのではない、
苦労せざるを得ない状況に追い込まれるからこそ、そこで苦悩する。
そうして自分が経験した辛苦から逃れたり、
その苦労を無駄にしない為に、
価値観を変えたり、忘れたり、目を瞑ったり、
状況に応じた自分のバランス感覚を鍛えていく。
買って出るような苦労は苦労ではない。
そこに本当の意味での苦悩はない。
そして
苦悩し、新たな道や価値観を見いだせる資質を持った人ならば、
本当は苦労などせずとも多くの事柄から多くを学び、
自分の人生に活かすことができるはずだ。
本当は苦労から得られるのは苦労のみだ。
だからこそ人は苦労に意義を見出そうとする。
少しくらい何か見出さなければやってられない。
それが苦労による成長や価値観の変化に繋がる。
そうして苦労の本質を忘れる。
苦労をした人間は偉いのか?
違うはずだ。
苦労をせずに苦労した人間と同じことができる人間は、
苦労した人間より偉くないのか?
苦しいのや辛いのは嫌だ。
それを知っているからこそ、
多くの人が、そうならない為の世界を作ろうとしているのではないのか。
多くの人が自分が経験した観点でしか物事を見れない。
その苦労や苦悩がどれほどのものかは他人には想像できない。
当然、自分が苦労と立ち向かうと決めることも自由だ。
自分が選択した結果に責任を持つからこそ。
人は成長していく。
成長せざるを得ないからだ。
意識や志の低いものが、どれだけ苦労をしようが、
それはただの苦労にしか過ぎないことがわからず、
そこから何かを得たような錯覚に陥って、
自らの価値観を他者に押し付けようとする。
他人様に苦労をしたから成長できるなどと、
恥も外聞もなく説けるような人間の経験した苦労など、
所詮たかが知れている、と俺は思う。
自分の力ではどうにもならない苦労というものが世界には数多くある。
苦労によって本当に人間的な成長を遂げたような人は、
自らの苦労を他人に自慢げに語って聞かせるようなことはしないと思う。
そのどうしようもない絶望を知っているからこそ、
他人には同じような経験をして欲しくないと思う。
少なくとも俺は、苦労によって成長を実感したことなど一度もない。
苦労はせざるを得ない状況が勝手に来るものだ。
それを何とか乗り越えてやっと、
変化した状況に納得したり、自分を納得させていくことを身に付ける。
明日、餓死するかもしれない人たちに、
「その苦労は宝だよ」と声をかける人間がいるだろうか?
しかし、それほどまでに身に迫った苦労でないのなら、
そこから人が人間的に成長するなどということはほとんどない。
つまり「苦労は買ってでもしろ」という言葉は、
本当の苦労を知らない人か、
自分の経験した苦労こそが絶対だと信じて疑わない人の、
独善的な考えから生まれ出ている気がする。
苦労なんて、誰だってしたくない。
少しでも多くの人が苦労せずにすむ世の中を作るためには、
まず自分が苦労を大切だ、などと思わない所から始めるしかない。
苦労は苦悩とセットになって初めて
人格形成において意味を持つものであろう。
苦労という経験のみを取り上げて、
他者に苦労を背負い込ませるような言葉は
誰の為にもならないと俺は思っている。
苦労せずにすむなら、苦労などしないほうがいい。
苦労なんてもんは他人様に見せたり、
ましては苦労比べをするためのもんじゃない。
その経験で人間的に成長できました、なんて言ってる奴は
自分のした苦労に対してツバを吐いてるようなもんだ。
苦労によって人が成長するという誤った認識も改めて欲しい。
人によっては経験した苦労によって
どうしようもないほどズタボロの人生に落ちていく人だっている。
もちろんその苦労が活きて成功をする人も沢山いるが。
こればっかりは個々人のもつ資質と運による所が大きい。
それに多くの苦労をした人でも、
人によって出来上がる人間性というのは様々だ。
自分が経験した苦労をかさにきせて、
人間的な成長をうたうような奴を俺は信用していない。
すでに苦労を終えた人間の語る苦労など、
喉元を過ぎた熱の残滓にすぎない。
今自らが「本当にどうしようもない」という状況におかれた人間に、
その苦労は大切だ、と誰が言えるのか。
しかし沢山苦労した人の多くが、その過去を振り返りみて、
苦労したことが自分にとって
良い経験になったと思っているのは事実なのだろう。
ではなぜ人は苦労から成長したり、
劇的に価値観を変えたりすることがあるのだろうか。
それは苦労のすぐそばに必ず苦悩があるからだろう。
苦悩するということは多くを考え、
現在の自分を取り巻く状況からの抜け道を探る修練となる。
人は苦労したから成長するのではない、
苦労せざるを得ない状況に追い込まれるからこそ、そこで苦悩する。
そうして自分が経験した辛苦から逃れたり、
その苦労を無駄にしない為に、
価値観を変えたり、忘れたり、目を瞑ったり、
状況に応じた自分のバランス感覚を鍛えていく。
買って出るような苦労は苦労ではない。
そこに本当の意味での苦悩はない。
そして
苦悩し、新たな道や価値観を見いだせる資質を持った人ならば、
本当は苦労などせずとも多くの事柄から多くを学び、
自分の人生に活かすことができるはずだ。
本当は苦労から得られるのは苦労のみだ。
だからこそ人は苦労に意義を見出そうとする。
少しくらい何か見出さなければやってられない。
それが苦労による成長や価値観の変化に繋がる。
そうして苦労の本質を忘れる。
苦労をした人間は偉いのか?
違うはずだ。
苦労をせずに苦労した人間と同じことができる人間は、
苦労した人間より偉くないのか?
苦しいのや辛いのは嫌だ。
それを知っているからこそ、
多くの人が、そうならない為の世界を作ろうとしているのではないのか。
多くの人が自分が経験した観点でしか物事を見れない。
その苦労や苦悩がどれほどのものかは他人には想像できない。
当然、自分が苦労と立ち向かうと決めることも自由だ。
自分が選択した結果に責任を持つからこそ。
人は成長していく。
成長せざるを得ないからだ。
意識や志の低いものが、どれだけ苦労をしようが、
それはただの苦労にしか過ぎないことがわからず、
そこから何かを得たような錯覚に陥って、
自らの価値観を他者に押し付けようとする。
他人様に苦労をしたから成長できるなどと、
恥も外聞もなく説けるような人間の経験した苦労など、
所詮たかが知れている、と俺は思う。
自分の力ではどうにもならない苦労というものが世界には数多くある。
苦労によって本当に人間的な成長を遂げたような人は、
自らの苦労を他人に自慢げに語って聞かせるようなことはしないと思う。
そのどうしようもない絶望を知っているからこそ、
他人には同じような経験をして欲しくないと思う。
少なくとも俺は、苦労によって成長を実感したことなど一度もない。
苦労はせざるを得ない状況が勝手に来るものだ。
それを何とか乗り越えてやっと、
変化した状況に納得したり、自分を納得させていくことを身に付ける。
明日、餓死するかもしれない人たちに、
「その苦労は宝だよ」と声をかける人間がいるだろうか?
しかし、それほどまでに身に迫った苦労でないのなら、
そこから人が人間的に成長するなどということはほとんどない。
つまり「苦労は買ってでもしろ」という言葉は、
本当の苦労を知らない人か、
自分の経験した苦労こそが絶対だと信じて疑わない人の、
独善的な考えから生まれ出ている気がする。
苦労なんて、誰だってしたくない。
少しでも多くの人が苦労せずにすむ世の中を作るためには、
まず自分が苦労を大切だ、などと思わない所から始めるしかない。
苦労は苦悩とセットになって初めて
人格形成において意味を持つものであろう。
苦労という経験のみを取り上げて、
他者に苦労を背負い込ませるような言葉は
誰の為にもならないと俺は思っている。
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