正しい
「正しい」という言葉は危ないよね。
・・・。
まあ、こんな感じで入ると、引き付けられるかなと思いましてw
さて、本題です。
仮に「正しい」ということを定義できたとすると、
そこから外れるものは「間違い」になるのか否か?
少々哲学的なお話になりますが、
「正しくない」という言い方はできるかもしれないが、
「間違い」にはならないだろう。
何故か?
「正しい」ということを真摯に捉えるなら、
「正しい」とは「間違い」であるかもしれない、
ということをも内包しているから正しいと言えるだろう。
「正しい」というのは、基準点をどこに置くかによって、
その在りようを変化させる価値観である。
自らの信念に基づいた正しさ。
多数決的な数の論理に基づいた正しさ。
状況や立場によって様々な正しさがある。
では正しいと信じることをしていれば人は間違えないか?
これには誰もが違うと答えることができるはずだ。
goo辞書で「正しい」を引くと、一番目に
物事のあるべき姿を考え、それに合致しているさまをいう。
とあった。
「物事のあるべき姿」というものを全ての人が考えた場合、
全員が納得する答えが出ることなどない。
もちろん物事の本質が見失われていることは多くあるが、
その本質のみが「正しい」訳ではない。
間違った行為にだって正しさを見いだすことはできるし逆もまた然り。
つまり真に「正しい」ことはこの世界にはないということだ。
また「間違い」のない人もこの世界にはいない。
ここまで沢山言葉を尽くして来た。
しかし、実は「正しい」という言葉にはすでに、
俺が今までに尽くしてきた言葉に似た本質が含まれている。
「正しい」には最初から「ただし」という、
その言葉自身の持つ曖昧性が加味されている。
正しいという言葉はその本質を、
言葉の中に内包し訴えていたのかもしれない。
では「正しい」を使って例文などを。
『俺は正しい、だから俺は間違えない』
という言葉は人の世では成立しない。
なぜなら「正しい」ことは定義のできないことであり、
間違えることイコール正しくない事であるとは限らない為。
だが
『間違っていたとしても、俺は正しいと信じる』
という言葉は成立する。
その信じた正しさが他者に及ぼす影響などは別問題として。
「正しい」ことが定義できない以上、
人は正しさを信じる為に間違いを受け入れる必要がある。
「正」と「誤」とは相克するものではなく、
もっと両義的なものであると思っていい。
「正」の画数が五画で「誤」を内包しているのも偶然とはいえ面白い。
そして「正しい」ということを定義するために、
教義や法が生まれた。
そこには秩序がある。
しかし「間違い」のない人間はいない、
ということは世界中の誰もが知っている。
正しさを盲目的に信じるくらいならば、
間違う自分を認め、恐れず進もうとする意思こそを、
俺は「正しい」と思いたい。
間違っているかもしれないけれど。
・・・。
まあ、こんな感じで入ると、引き付けられるかなと思いましてw
さて、本題です。
仮に「正しい」ということを定義できたとすると、
そこから外れるものは「間違い」になるのか否か?
少々哲学的なお話になりますが、
「正しくない」という言い方はできるかもしれないが、
「間違い」にはならないだろう。
何故か?
「正しい」ということを真摯に捉えるなら、
「正しい」とは「間違い」であるかもしれない、
ということをも内包しているから正しいと言えるだろう。
「正しい」というのは、基準点をどこに置くかによって、
その在りようを変化させる価値観である。
自らの信念に基づいた正しさ。
多数決的な数の論理に基づいた正しさ。
状況や立場によって様々な正しさがある。
では正しいと信じることをしていれば人は間違えないか?
これには誰もが違うと答えることができるはずだ。
goo辞書で「正しい」を引くと、一番目に
物事のあるべき姿を考え、それに合致しているさまをいう。
とあった。
「物事のあるべき姿」というものを全ての人が考えた場合、
全員が納得する答えが出ることなどない。
もちろん物事の本質が見失われていることは多くあるが、
その本質のみが「正しい」訳ではない。
間違った行為にだって正しさを見いだすことはできるし逆もまた然り。
つまり真に「正しい」ことはこの世界にはないということだ。
また「間違い」のない人もこの世界にはいない。
ここまで沢山言葉を尽くして来た。
しかし、実は「正しい」という言葉にはすでに、
俺が今までに尽くしてきた言葉に似た本質が含まれている。
「正しい」には最初から「ただし」という、
その言葉自身の持つ曖昧性が加味されている。
正しいという言葉はその本質を、
言葉の中に内包し訴えていたのかもしれない。
では「正しい」を使って例文などを。
『俺は正しい、だから俺は間違えない』
という言葉は人の世では成立しない。
なぜなら「正しい」ことは定義のできないことであり、
間違えることイコール正しくない事であるとは限らない為。
だが
『間違っていたとしても、俺は正しいと信じる』
という言葉は成立する。
その信じた正しさが他者に及ぼす影響などは別問題として。
「正しい」ことが定義できない以上、
人は正しさを信じる為に間違いを受け入れる必要がある。
「正」と「誤」とは相克するものではなく、
もっと両義的なものであると思っていい。
「正」の画数が五画で「誤」を内包しているのも偶然とはいえ面白い。
そして「正しい」ということを定義するために、
教義や法が生まれた。
そこには秩序がある。
しかし「間違い」のない人間はいない、
ということは世界中の誰もが知っている。
正しさを盲目的に信じるくらいならば、
間違う自分を認め、恐れず進もうとする意思こそを、
俺は「正しい」と思いたい。
間違っているかもしれないけれど。
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