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正しい

「正しい」という言葉は危ないよね。

・・・。
まあ、こんな感じで入ると、引き付けられるかなと思いましてw

さて、本題です。
仮に「正しい」ということを定義できたとすると、
そこから外れるものは「間違い」になるのか否か?

少々哲学的なお話になりますが、
「正しくない」という言い方はできるかもしれないが、
「間違い」にはならないだろう。

何故か?

「正しい」ということを真摯に捉えるなら、
「正しい」とは「間違い」であるかもしれない、
ということをも内包しているから正しいと言えるだろう。

「正しい」というのは、基準点をどこに置くかによって、
その在りようを変化させる価値観である。
自らの信念に基づいた正しさ。
多数決的な数の論理に基づいた正しさ。
状況や立場によって様々な正しさがある。

では正しいと信じることをしていれば人は間違えないか?
これには誰もが違うと答えることができるはずだ。

goo辞書で「正しい」を引くと、一番目に
物事のあるべき姿を考え、それに合致しているさまをいう。
とあった。

「物事のあるべき姿」というものを全ての人が考えた場合、
全員が納得する答えが出ることなどない。
もちろん物事の本質が見失われていることは多くあるが、
その本質のみが「正しい」訳ではない。
間違った行為にだって正しさを見いだすことはできるし逆もまた然り。

つまり真に「正しい」ことはこの世界にはないということだ。
また「間違い」のない人もこの世界にはいない。

ここまで沢山言葉を尽くして来た。
しかし、実は「正しい」という言葉にはすでに、
俺が今までに尽くしてきた言葉に似た本質が含まれている。

「正しい」には最初から「ただし」という、
その言葉自身の持つ曖昧性が加味されている。
正しいという言葉はその本質を、
言葉の中に内包し訴えていたのかもしれない。

では「正しい」を使って例文などを。

『俺は正しい、だから俺は間違えない』
という言葉は人の世では成立しない。
なぜなら「正しい」ことは定義のできないことであり、
間違えることイコール正しくない事であるとは限らない為。

だが
『間違っていたとしても、俺は正しいと信じる』
という言葉は成立する。

その信じた正しさが他者に及ぼす影響などは別問題として。

「正しい」ことが定義できない以上、
人は正しさを信じる為に間違いを受け入れる必要がある。
「正」と「誤」とは相克するものではなく、
もっと両義的なものであると思っていい。

「正」の画数が五画で「誤」を内包しているのも偶然とはいえ面白い。

そして「正しい」ということを定義するために、
教義や法が生まれた。
そこには秩序がある。

しかし「間違い」のない人間はいない、
ということは世界中の誰もが知っている。
正しさを盲目的に信じるくらいならば、
間違う自分を認め、恐れず進もうとする意思こそを、
俺は「正しい」と思いたい。

間違っているかもしれないけれど。
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ヒカシュー

先日は平沢進とP-MODELを紹介したので、
今回は同時期にテクノ御三家と言われていたヒカシューを紹介。

はっきり言って当時のテクノ御三家はすべて頭がおかしく、
後の日本のテクノサウンドの礎になったとはいえ、
その独自性は現在でも色あせることはない。
むしろ音楽がより大衆的になった現在だからこそ輝く。
しかしながら、ヒカシューはその中でも特に異端で、
電子音を使用してはいるものの到底テクノと呼べるようなものではない。

さらに大衆に受け入れられることは、まずありえない。
映像と音楽から嫌悪感を催される方すら居るかもしれない。
ということを最初に明記しておく。
ただし、ハマれば面白い。

即興演奏に対するこだわりが強いようで、
近年の「転々」というアルバムでは一切の作曲活動を行わず、
すべて即興演奏によってアルバムを製作したようである。
この作品についてはフリージャズほど無茶苦茶ではないものの、
作曲活動を行わない即興演奏という難しい題材のために、
本来マニアックな人たちに好まれるヒカシューでも、
賛否の分かれるアルバムとなっているようである。

ちなみにボーカルの巻上氏は、アニメ∀ガンダムの主題歌である、
「ターンAターン」の冒頭のムィイイイイイイという
ホーミーを担当していることでも知られている。

他の情報など知りたい方はWikipediaのヒカシューの項目を参照して下さい。

さて、前置きはこれくらいにしておいて、
早速映像の方を見ていただきましょう。
まずはヒカシューのみではなく当時のテクノ御三家と呼ばれた
P-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスのすべてが出演している
歴史的価値の高い映像から見ていただくことにしましょう。
ちなみに演奏されるのはすべてデビュー曲です。

注目は当然ですが今回のメイン、2番目のヒカシューの異端っぷり。
とにかく曲が始まる前の巻上さんのキチガイっぷりに愕然として下さいw
ではどうぞ。



はいっ、というわけで。
まあ、恐らくですが、
10人見た方がおられたら約9名の方が、
ヒカシューに対して言いようのない感情を抱いたことかと思います。
しかし、たぶん正常な反応です。
次々見ていけば慣れます、人によってはクセになります。

一応上記の映像の演奏順にコメントなど。

P-MODEL/美術館であった人だろ
P-MODELだけに限らずですが。
この時代に電子音を使うというのは、
コンピューターですべて簡単に処理できるような、
現代の状況とは違い、とんでもない手間がかかります。
映像が1980年なので、
丁度マイクロソフトのMS-DOSなどが登場した年のようです。
当然GUIを搭載したMACやWindowsの登場など、まだまだ先の話。
歌詞はデビュー当時から相変わらずぶっ飛んでいる師匠でしたw

ヒカシュー/20世紀の終わりに
俺がヒカシューが一番異端だと言ったその理由の一端が、
曲にはいる前のボーカル巻上さんの「いやよん♪いやよ♪いやよっ♪」です。
人の形をした化け物が現世に現出した訳です、これは現実ですか?
曲自体は特に好きな訳でもないのですが、
上記のように歴史的価値の高い映像なので一応ついでに。

プラスチックス/COPY
俺がまだ唯一他の曲を聴いたことがないテクノ御三家。
P-MODELやヒカシューよりもさらにサブカルチャー臭が強い印象。
上記二組と同じで否が応でも耳に残してくる独自性がある。
ちなみにリズムボックス担当の島武実氏は作詞家などとして活動しており、
「ごっつ」や「HEY!x3」などの番組アドバイザーとしても参加しているらしい。
サブカル系の人たちは活動が多岐に渡るのが特徴的だ。

さて、以下からは、ようやくヒカシューのみの紹介。

○ヒカシュー/パイク
確かな情報ではないが、
この映像は当時ヒカシューがライブでやっていたパフォーマンスを、
テレビで同じようにやったもののようである。
個人的には好きなパフォーマンスなので是非見てほしい。



もともと巻上さんは劇団を主宰していたらしいこともあり、
曲の途中からラストまでの紙芝居などが相互作用しあって
見事な複合芸能になっている。
セルフプロデュースのパフォーマンスとしても最高に面白い。
大槻ケンヂが影響を受けたというのはよく分かる。
語りの持つ力というのは凄まじいものがある。

○ヒカシュー/プヨプヨ
序盤からイカれ具合は十分に見て取れるが、
本当に面白くなるのは4分あたりから。
狂気の体現者、ヒカシューここにありw



この人の場合、本当に頭がおかしいのか、
狂気を演じているのかがよく分からない。
だから不思議で、それが余計に変で、気持ちが悪い。
そしてなぜか耳に残る異物感が、
いつしか心地よさのように感じられてくる。
俺がヒカシューに諸星的なものを感じてしまうのは、
こういう異物感の心地よさなのだ。
そこには毒とユーモアが混在している。

○ヒカシュー/びろびろ
これを見て映像も歌も全てひっくるめて笑ってしまえ。
そしておののけw



自分が曲を作ろうと思って、
これを作れますか?っていう話ですよw
俺にはどう頑張っても無理ですw
まず、曲を聴く人間の第一印象を決める一番大切な歌い出しが、
『快楽に脳が痺れて やーらららぁああ!!!』
理論を越えた感覚の奔流がそこにはあるw
漫画原作者の小池一夫氏が、
「冒頭、銀座を裸の女が走っている」
という言葉で読者を引き付ける為の演出論を伝えたらしい。
これはまさにそれと同じことだw

ヒカシューがデビューした1978年から30年が経ち、現在2008年。
恐らく当時はまだテクノというジャンル自体が新しいものであり、
現在のようなテクノらしいサウンド様式は確立されていない頃。

電子音という新しい音に興味をもった当時のミュージシャンたちが、
自分たちなりにサウンドを模索して試行錯誤していたのだろう。
そしてYMOなどを筆頭に、テクノ御三家などが、
それぞれの独自性で新しい音楽を確立させてくことになり、
結果的には現在のPerfumeなどへと繋がっていくのである。

さて、長くなりましたが今回はこんな感じで。
ヌード!ヌード!ヌードな気分♪
ピース!ピース!ピースな気分♪
チーズ!チーズ!チーズな気分♪
というわけで、さようなら~

にけつッ!!

にけつッ!!が面白い。
ジュニアとケンコバの打ち合わせなしのガチンコトーク番組。
あの伝説のパペポTVを思い出させる空気の番組だ。

ラジオ番組をテレビで見ているような感覚。
これを待っていた。

コバとジュニアだけという余分なもののない環境。
どちらもが認知度も上がり全国区で売れてきた今、
このタイミングで、このガッツリとした
お笑い好きに愛されるタイプの番組が始まった。
本当にうれしい。

出来れば長く続いてほしいなぁ。
今後の二人の礎となるような番組になって欲しい。

こんにゃくゼリー状の脳みそプルプル感

こんにゃくゼリーを喉に詰まらせて亡くなった人が、
計22人であることが毎日新聞調べで分かったようだ。
実際はまだ多いかもしれない、そうだ。

こんにゃくゼリーは製造中止。
以降販売されない。

これに対する多くの人の反応は「戸惑い」だったのではないだろうか。
こんにゃくゼリー以外の危険物のランキングまで発表された。

1位:もち(168例、「こんにゃく入りゼリー」の84倍危険)
2位:パン(90例、「こんにゃく入りゼリー」の45倍危険)
3位:ご飯(89例、「こんにゃく入りゼリー」の44.5倍危険)
4位:すし(41例、「こんにゃく入りゼリー」の20.5倍危険)
5位:あめ(28例、「こんにゃく入りゼリー」の14倍危険)
6位:だんご(23例、「こんにゃく入りゼリー」の11.5倍危険)
7位:おかゆ(22例、「こんにゃく入りゼリー」の11倍危険)
8位:流動食(21例、「こんにゃく入りゼリー」の10.5倍危険)
9位:カップ入りゼリー(11例、「こんにゃく入りゼリー」の5.5倍危険)
10位:ゼリー&しらたき(それぞれ4例、「こんにゃく入りゼリー」の2倍危険)

これが、どれだけ正確な統計かは分からないが、
まずこんにゃくゼリーよりカップ入りゼリーの方が事例が多い時点で、
今回の件が報道によって加熱させられたものである事がうかがい知れる。

少年がパンを喉に詰まらせて亡くなった事件もあった。
それもそのはず2位である。
給食が危険だから親はお金を払っていなかったのですね。

お正月は餅を食べて皆で黄泉路を渡るのだ。
どうやら餅つきは自殺の準備だったようだ。
ぜひ餅つきしている人を見かけたらその歪んだ正義感で、
餅つきを止めてあげて下さい。

おかゆを喉に詰まらせて死ぬような奴は大体何食べても死ぬ。

こうして転ばぬ先の杖のようにして、
物や言葉が世間から消えていくことで得られるものはなんだ?
死のない平穏か。

人は100%死ぬ。
だから生まれた時から自分の命に対する責任は自分が負う。

他人の命に対して責任を持てる人間などいない。
にもかかわらず。
いざ自分の周囲に危険が及ぶと
「世間の為」と声高に叫ぶ人たちがいる。

亡くなられた方は残念だ。
遺族の憤りも理解できなくはない。
しかし、物を喉に詰まらせて死ぬということは、
食事に対し人間としての能力が及ばなかったということだ。

悔しさは分かるが、これは諦めるしかない。
もし誰かを責めることができるとするならば、
監督不行き届きであった自分くらいであろう。
それを食べ物を製造した側に責任を求めるのは筋違いも甚だしい。

ご飯を一生懸命つくってくれたお百姓さんに、
米が喉につまったからといって文句を言う者がどこにいようか。
食べ物が消費者の手元に届くまでの過程を
消費者が当たり前だと思うから、こうした無責任な主張が生まれる。

シャケの切り身が泳いでいると思っている子供がいるそうだが、
大人もそれとたいして変わらない。
想像力が貧困なのだ。

こんにゃくゼリーが本当に食べ物として危険なのであれば、
それが世の中から消えることに対しては、
個人的にはそれほど思うところはない。

そのうち先端恐怖症の子供や老人が増えたら、
コンペイトウはまずなくなるだろう。
潔癖症の子供や老人が増えたら、
タンポンは店頭から消えるだろう。

いつか子供と老人だけの国になればみんな住みやすいだろうね。
誰がそいつらを面倒みるのかは知らんが。

知識の在り処

Wikipediaの姉妹サービスのWikibooksをご存知だろうか?
Wikibooksはフリーの教科書サービスらしく、
さきほど発見して没頭して読みふけってしまった。
どうやらずっと昔からあったようなのですが、
見落としていてWikipediaの方しから知らなかったようだ。
なんたることか。

ネット辞書としての役割を十分に果たしたといえるWikipedia。
WikibooksはそのWikipediaをさらに深くサポートし、
且つ、インターネットの良い利用方法の一例となっていくはずだ。

これは恐らくは素晴らしいことで、
インターネットができる環境にさえあれば、
教科書などを買うためのお金がなくても、
学ぶことができるということである。

経済が育たなくなり、人の心が枯れ始める時、
それらを支えるのは教養だ。
新たな可能性を学ぶことができる。
それは人にとってどれだけの希望であろうか。

他人の思想や主義が入り込むかもしれないという懸念はあるが、
その懸念は紙媒体であっても同じこと。
つまり学ぼうとする心に応えるシステムがあるかどうか。

歪んだ資本主義に毒されたこの国は、
学問すらビジネスにしてしまった。
その為に勉強は面白くないものへと成り下がり、
誰もが資本主義的な社会の「為になる」か「為にならない」かで
学ぶことを取捨選択してしまうようになってしまった。

しかし、知らないことを知るということは、
この上のない娯楽の一つである。
これを多くの人間が忘れてしまっている。

それが誰の意図によるものなのかは知らない、
戦後の日本が抱えた悪癖なのか、植えつけられた悪癖なのか、
先達の遺産にすがるだけの体制に慣れてしまったからだけなのか。
本当のことは分からないが、
学ぶことは楽しいことだと胸を張って言える大人を、
かっこいいと思ったからこそ、
俺も学ぶことの楽しさに気づけた。

大学以前の学校の教師には俺はそれを教えてもらえなかった。
それを教えてあげたいと思う教師はいたかもしれないが、
恐らくはシステムがそれをさせなかった。

大学の講師達は比較的自由に見えた。
学ぶこと、教えることの楽しさを満喫していた。
俺自身、ちょうどその頃くらいから意識の改革のようなものが始まっていた。

自分が何も知らないと気づきはじめて、
それでも見栄を張りながら、
自分は手探りだけで日々を過ごしてきたのだと思い至る。
そしてそれは充実の日々だったのではないか?
実りは何もなかっただろうか?

ちがう。
「知っている」ように振舞ったことで、
知らず知らず本当に自分は知識を得ていった。
それは間違いなく自分の中に根付き、
複合的な人格形成過程において重要な役割を果たしていた。

自分以外の全てが、あらゆる意味での教師だと気づいた時、
学問とは自分が生きることだと実感した。

文字を読み学ぶということは、
たとえて言うなら自分にとって生きやすい生き方を模索することの、
表層的な過程でしかないということだ。

ドアを開ける際に、
横にスライドさせるか、手前に引くか、奥に押すか、
またはシャッターのように持ち上げるか、自動で開くのを待つか。
それらの選択肢があるということを学ぶだけで、
人間は日々を暮らしやすくできるようになる。

知らなければ、ドアは開かない。
学ぶというのはその程度のことだ。

しかしその程度のことだからこそ、
やりがいがあるとは思わないか。

もちろんままならないことは沢山ある。
学びたいと思っても認識がついていかない。
それが悔しくてさらに学べる人、
挫折して学ぶ気をなくしてしまう人。
色んなタイプがいると思う。

人それぞれに自分にあった学び方がある。

ひとつのことに特化するのも、
表層的なことだけを多く知るのも学ぶ側の自由だ。
与えられるのは可能性だけ。
得た知識を、自分の人生にどのように活かすのかは、
結局は自分自身に委ねられる。

その選択肢の幅を広げるだけのことである。
だから学ぶことの意義など、その程度だ。

ならばそれを娯楽として楽しむことができれば一番ではないか。
そして、何かがうまくいって
自分の人生に活かすことができれば一石二鳥。

学問の素晴らしさはそこにこそあると俺は思う。
Wikibooksには誤った情報が掲載される可能性もあれば、
日本政府に検閲され、十分な情報が掲載されない可能性もある。

それでも学ぼうと思う心に応える知識が、
いつでも我々の世界に存在しているという事は、
喜ぶべきことだろうと思いたい。

学問の根源とは、自らを含む人類すべてが、
何も知らず、愚かな民であると知ったからこそ、
せめて少しでもマシであろうとして発展してきたものだと思っている。
少なくとも自分はそうでありたい。
足りず、知らず、愚かだ。
だから補填して、少しでもマシであろうとする。

心を育てる為に学問はある。
どこかでその意思は揺らぎ、違うベクトルを持つかもしれないが、
それでも、各々が少しでもマシであろうと思いあう世界であれば、
希望を抱いていける。
だからまだ人類は滅びずに世代を重ねているのかもしれない。

自分の欠損を知ることから何かは始まっている。

明晰夢の位相幾何学

先日、良い景色がいくつか撮れたので、
趣味である自分の曲のジャケット風イメージを作っていた。
結構キレイなのができたので他人様に見てもらいたい、
ということでアップすることにしました~♪

曲の方はまだ弾き語りでしかできていないのでUPしませんが、
画像だけでも見てやってくださいw


(※クリックすると大きく表示されます。)

ちなみにQRコードはこのブログに飛ぶだけなので、
まったく意味はありません。
俺の名前をこう並べたら、ものすごい四角だったので、
比較する意味で置いて見ました。
自分の名前に相反しとるなぁ…

平沢進とP-MODELの歴史

久々に音楽の記事でも。

今年は筋肉少女帯や特撮といった、
大槻ケンヂ関連の音楽にどっぷりハマった。

そして、その次にハマったのが平沢進と、その前身のP-MODELだ。
最近は平沢ばかり聴いている。
P-MODELは1979年にデビューしたテクノ最初期のバンドの一つで、
平沢は2008年現在まで現役バリバリの超ベテランさんである。
そんな平沢のことをファンは親しみと敬意を込めて
「師匠」という愛称で呼ぶそうだ。

よし、ではここは俺もそうさせてもらおうではないか。
師匠は自分の音楽が
インターネット上で紹介されることに対して肯定的な人で。

それは友人同士がカセットテープに
ダビングした音楽を紹介しあうのと大して違わない。
むしろ結果的には
多くの人の目に触れる意味でプロモーション効果になる。
というような内容のことをインタビューで答えていた。
なので是非、紹介してみたいと思う。
(※問題があれば削除します)

一応曲の発表年代順に並べますが、
映像の年代は順序が入れ替わったりしてる可能性があります。
表記の年代も大体ですので間違っている可能性あり。

○ヘルス・エンジェル(1979)
映像は1980年ごろのよう。
YMOが海外で人気を得始めた頃くらいですかね?
ではどうぞ。

はい、おつかれ様でした。
これがテクノ?と思われるかもしれませんが、
当時は電子音を使って演奏される音楽をひっくるめて、
テクノと呼んでいたようです。
乳脂肪分2%のドライミルクでチューンナップされる~♪

○Speed Tube(1992)
P-MODELが活動休止して6年ぶりのアルバムの1曲目。
サウンドがより先鋭化して平沢的テクノポップになる。
これはテクノだと言われても素直に理解できると思います。
しかしこの映像の見所は音楽と映像のギャップです。
番組との相性の悪さが恐ろしい。
映像の編集の仕方とか、悪気のない悪意を感じますw

まず衣装に驚き、マラカス兄さんに驚き、キーボードテロリストに驚き、
師匠の憮然とした表情に腹筋がよじれたこととは思いますが。
それでも音楽のかっこよさだけは本物でしょうw
歌詞がすごい!

○Rocket ShootⅡ(1997)
映像はP-MODELとは関係ありませんw
この曲は電子悲劇-ENOLA-というアルバムに収録されています。
電子悲劇は粒揃いで個人的には大好きなアルバムの一つ。
Rocket Shootは、とにかくとんでもない迫力と、
エスニックな生々しさとテクノサウンドとの絡み合いが醍醐味。

楽曲的にはこのあたりでほぼ現在のような
師匠独自の音楽形態が完成する。
完成といっても進化が止まるわけではなく、
圧倒的な独自性が確立されたという意味だ。

○BERSERK~Forces~(1997)
これはアニメ版ベルセルクの挿入歌として使われた曲で、
知っている人も多いかもしれない。
もともとは1994年に発売されたソロアルバム
『Aurora』中の「舵をとれ」という曲の再構築バージョンと言っていい。
思えば師匠は気づかぬうちに
俺の青春の一ページを刻んだ人であったのだなぁ。

いつも思うが師匠の歌詞のセンスはとんでもない。
見えている世界の規模が常人とは違う。
視野の広さと、それを結実させる個人の深さを持っている。

○白虎野の娘(2006)
ベルセルクから一気に9年飛びましたが、
その間にも一杯曲はあるんですよw
この曲は筒井康隆原作の映画パプリカの主題歌で、
賞も取ったのでご存知の方も多いかと思う。
まずは曲をどうぞ。

ああ・・・いいですねぇ。
ヘルス・エンジェルを歌っていた人間とは思えません。
でもヘルス・エンジェルを歌っていた人だから、
ここへ来ることができたのでしょう。
唯一無二で、ジャンルは「ヒラサワ」だとまで言われる独自性。
感じて頂けましたでしょうか。

抱腹絶倒。
阿鼻叫喚。
空前絶後。
そんなお時間を楽しんで頂けたなら幸いです。
師匠の音楽が気に入ったら是非、
買うか借りるかして聞いてみてください♪

他にもとんでもないのが沢山あります。
個人的には電子悲劇の中に入っている、
衛星ALONEとかをお勧めしたいのですが、
映像がなかたったので、今回はこれだけということで。

一人

何かを背負うと覚悟を決めた時から、
人は一人になる。

一とは人が背負う覚悟の象徴のようだ。

一人になるということは大人になるということだ。
一人とはそのまま大をあらわす。

一人であることに責任を持とう。
そこから他人というものが初めて見えてくるはずだ。

ベルセルクはやっぱり凄い

もう読まれた方もいるでしょう、
三浦建太郎のベルセルクの最新刊。

これを読んで感想を書かない人間がどこにいましょうか。

漫画の展開的にも盛り上がりを見せ始める巻だとはいえ、
凄まじい画力とコマ構成力である。
素人目から見ても明らかに漫画として進化している。

当然、独特なコマ割りの仕方は昔からそうなのだが、
そこに新しいギミックを足してみたり、細かく洗練されて来ている。
俺程度の素人でも気づけるレベルなのだから、
途方もない試行錯誤があったことだろうと思う。

画力の向上も毎回すごいなぁと関心しながら見ていた。
32巻から33巻の間で突然変化した訳ではないが、
それでも、この33巻には本当に驚かされた。

まずキャスカが海に落ちるシーンでの、
オーバーラップの見事さには舌を巻いた。
ここでこれまでに丁寧に積み上げてきた、
多くの出来事と現在のガッツを形作った人格形成過程が、
再び読者とシンクロする。

さらに海皇紀も真っ青のロデリックの海戦。
独特のコマ割りの中にカットイン的に入るコマが見事!
もはや完全に自分の物にしているようで、
劇としては間延びしてしまいそうな海戦部分を、
少ないページ数にも関わらず信じられないような速度で、
情報量を損なうことなく楽しませてくれる。

そして作品の根幹となるこれからの為の伏線。
グリフィスとガッツの視覚的な対比演出。
これらはこれまでも丁寧に積み上げられて来ていたものだが、
ガッツの全身の裂傷がさらに増えて描かれ、
狂戦士の甲冑を着ていない状態でも線の量が増え黒くなる。
逆にグリフィスはさらに白くなっている。
31巻と33巻の表紙を見比べると非常に面白い。

特にクシャーン大帝とバーキラカのキャラ立ちの上手さは、
ベルセルクを読み返す楽しみを与える素晴らしいテクだ。
本当に長い時間をかけて結実する漫画の描き方をする人だと思う。

さて、世の中にはアンチヒーローやダークヒーローと呼ばれる、
いわゆるヒーローらしからぬヒーローが数多くいるが。
ガッツほど丁寧に、明確な内面描写をすることなく、
出来事と群像劇の積み重ねだけで、
その人格形成を描いたダークヒーローは存在しないだろう。

青年期に至るまでの出生と成長の過程、
そしてそこから蝕が起こるまでのいわゆる青春の過程、
さらに蝕以降の崩壊へと向かう狂戦士の過程。
それらをリアリティを持ったファンタジーの世界で描いてしまえる凄さ。

すべてが途方もない丁寧さで、少しずつ積み上げられていく。
加えてグリフィスの側を描く際も、
何を考えているのか分からないように丁寧に描いている。
特に転生後のグリフィスの目は眼前のものを見ておらず、
常に遠くを見つめているようにつとめて描かれている。
これが読者にとってのグリフィスの印象を決める。

本作品内でグリフィスの内面描写が行われたのは、
ミッドランドの牢屋の中での夢と、
ゴッドハンドとの接触時くらいだろう。
さらに、雑誌には掲載されたが、
単行本には未収録のエピソードなどもある。
細かな内容は無粋になるので書かないが、
それは確かグリフィスの内面描写にまつわるエピソードで、
グリフィスがゴッドハンドのフェムトへと転生する際の描写であった様に思う。

つまり三浦建太郎はグリフィスの意思を決定するような、
もしくはグリフィスの思考が理解できてしまえるような描写を、
あえて避けて描いている。

おそらく演出家としての能力が非常に高い為だと思うが、
言葉や表情に本来以上の力を持たせる為に、
途方もない細やかな演出を積み重ねる。

このたゆまぬ努力が、
一般的には子供の為の世界でしかなかったファンタジーの世界を、
限りなくリアリティを持った生々しい世界にできた理由の一つだろう。

これからどうなるかは分からないが、
グリフィスの内面を描いてこなかったが故に。
他者の内面に触れることのできるシールケや妖精たちが活きてくるだろう。
エルフヘルムで何が起こるのか。

クライマックスを迎えようとしているのか、
それとも三浦建太郎にはまだ、その先が見えているというのだろうか?

ああ、次が楽しみで仕方がない。

自分を見つめなおせ

すぐに責任を他人に求める。
だから責任の重圧が増す。
責任など負いたくないと誰もが思う。

そうして責任への責任感が薄まり、
すべては無責任になっていく。

自分の所在は一体どこにあるのだろう。

自分という存在への責任。
それを失ったとき、人は人でなくなる。

かなしばりん

とてもじゃないが金縛りが怖くて寝れない
しかも幻聴まで聞こえやがる始末

















む っ さ こ わ い












(改行で引っ張る割にまったく面白くないオチという笑い)

モーニングが大変だ!

モーニングが大変なことになる。
小学館の申し子とでも言うべき浦沢直樹が、
講談社のモーニングで新連載を開始する。

それだけでは飽き足らず、諸星大二郎までもが連載開始だ。
しかも、ずっと連載が中断されていた、
西遊妖猿伝の連載が再開されるというのだから期待も上がる。

すごいことだ。
今や一番の売れっ子マンガ家といってもいい浦沢と、
アングラ、サブカル系の人々に支持されつづけて来た諸星が、
同じ雑誌に連載されるような事になろうとは。
これは事件といってもいい。

さらに湘南爆走族の吉田聡と、
ドラゴンヘッドの望月峯太郎の新連載も始まる。

望月は前作の万祝がおもしろかったので次回作には期待している。
今となってはドラゴンヘッドも望月なりのギャグとして見ることもできるが、
やはり望月といえばバタアシ金魚だ。
ただ万祝がバタアシ金魚に近い熱血バカ漫画だったので、
次は作風をガラっと変えてくる可能性が高い。
タイトルは『東京怪童』というらしい。
なんとなく望月ホラーな予感。

他にもBoichiという韓国の漫画家が、
矢島正雄(人間交差点やPS羅生門などの原作をやっている人)と組んで新連載。
絵は上手いがストーリーが苦手、というタイプなのだろう。
しかし矢島正雄も小学館の匂いがする原作者だ。

連載開始の順番は、

10/16浦沢直樹
10/23諸星大二郎
10/30吉田聡
11/06Boichi
11/13望月峯太郎

以上の通りだそうです。

個人的には浦沢と諸星と望月の3者が、
同じ雑誌で連載するというだけでも粒ぞろい感が否めない。
特に諸星ファンの俺としては西遊妖猿伝の再開はかなり嬉しい。

とはいえ俺は雑誌を買わないコミック派の人間なので、
ラインナップにときめきはする物の、だからといって雑誌は買わないだろうなぁw

ちなみに個人的には望月は諸星にも多少影響を受けた部分があると思っている。
というのは望月の短編集に『ずっと先の話』という作品があるのだが、
その冒頭フルカラー作品のCOLORというエピソード内で、
人間が内側から肉がめくれ上がってひっくり返って内と外が裏返しになるという
衝撃的な描写表現をやっているのだが。

これは、諸星の『諸怪志異』という中国の聊斎志異をモチーフにした作品内での、
人間の裏返り描写に酷似している。
諸星の表現に望月的なアレンジを加えたものであると俺は解釈している。
もし機会があれば是非見比べてみて欲しい。
とくにこのエピソードはすべてフルカラーなので、
それだけでも一見の価値あり。

特に望月の色使いのセンスは非常に素晴らしく、
いつかカラーページのみで一冊漫画を描いて欲しいと思わせる漫画家だ。
機会があれば立ち読みなどでもいいので、
『ずっと先の話』という作品の冒頭は目を通しておいて欲しい。

祭のあと

もっと言葉多く語りたいという気持ちの奔流はあれど、
あの時感じた以上のものを言葉で伝えることなど不可能。
であれば、必要なのは不必要な言葉ではない。

ありがとうございました。
バッファロー吾郎、優勝おめでとうございます。
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