教科書のページを倍にして「ゆとり教育」とやらから脱却しようという動きがあるようだ。
詰め込み教育がよくないという観点から、ゆとり教育というものが始まった。
にもかかわらず、それで学力が落ちたからページを倍にしましょうでは本末転倒だ。
問題はそういう所にはないはずだ。
現在の学校教育そのものを根底から変革させないことには問題の解決にはならない。
受験を念頭に置いた教育をしているうちは、
どんな方向に教育方針が傾いたところで根本的な解決にはならない。
日本における受験勉強が持つ最も重要な意味は、
作業能率や合理的な思考を培うプロセスを知らず知らずの間に行わせることにある。
さらに言えば受験勉強は高い集中力を持った人間と、
そうでない人間を振り分ける役割も果たしていると言える。
良い大学に合格できる人間の多くは、上記のような能力に秀でており、
こうした人間は日本の会社組織において安心して獲得できる人材候補となる。
極端な話をすれば、
日本の教育は資本主義的なシステムの中に完全に組み込まれており、
この現状では本来の意味での教養の向上など望むべくもない。
人はなぜ教養を深めるのか?
この問いに対して現在の教育者たちはどのように答えるのだろうか。
その教育者たちは、教育を通して一体何ができると考えているのだろう。
当然企業にとっては上記のような、最大公約数的に、
能力に秀でた人間をピックアップできるシステムは楽な雇用スタイルである。
このシステムが多すぎる人間を振り分けて、
効率的に能力の高い人間を獲得できるようにしていた訳だが。
人口が年々減少傾向にある現代の日本においては、
この振り分けシステムはさらなる教養の低下しか招かないと考える。
教養の底上げができないのであれば、
受験はただの振り分けシステムにしかならず、
大学や高校に進学する学力がないと分かった人間は、
そこで学ぶことをやめてしまう。
比率的に考えて振り落とされずに、
競争を勝ち抜ける人間はほんの一握りであり、
残りのほとんどは振り落とされた側という認識になってしまう。
しかしそこで学ぶことをやめてはいけないのだ。
良い企業や大学に入るためだけに学ぶ訳ではない。
何か自分にとって金銭的な見返りがなければ学ぶ必要がない、
そう考えさせてしまう思考形態を作ってしまったり、
勝ち組や負け組という考え方が生まれてしまったのは、
歪んだ資本主義社会が生んだ悪癖と言えるかもしれない。
学びたいことは存分に学べる環境を。
なぜ学びたいのか、学ぶことはなぜ楽しいのか。
それを教えられる人がいないのは寂しいことだ。
勉強は苦しいことではなく、楽しいことである。
思い返してみるに。
俺が受験勉強で得たものなど何一つなかった。
そこで何かを得ることができた者は、
やはりこの資本主義社会の枠組みの中に上手く適合できているし結果も出せている。
しかし、だ。
だからといって、俺はそんなことで腐るつもりもない。
現在の資本主義社会の枠の中に入らなくても、
必ず自分のような人間が生きぬく道がある。
それを見つければ良いだけの話だ。
つまり本来の教養とは、そのように自分がいかなる状況に置かれたとしても、
必死に考え、自分なりの答えを導き出すための力のことである。
その為に様々なものを見て、考えなければならないのだ。
教科書のページを倍にした所で、そんな力が養われるとは到底思えない。
学ぶということの最も重要な点は「観」ということではないだろうか。
自分が得た知識から、どのような観点を手に入れるのか。
情報は情報でしかない。
情報を情報として詰め込むだけでは何も面白くはない。
手に入れた情報から人は何を観ることができるのか。
それを教えることができる人間を教師というのだ。
教師というのは学校にいるものだけではない。
世の中には自分の教師となるはずの人が沢山いるはずだ。
それを見つけ出すことを教えるだけでも充分教育と言える。
自学自習の為、などというのなら
まずは子供達に自学自習をしたいと思わせてあげなければならない。
強要などしてしまっては本末転倒だと気付いているのだろうか。
参考URL:
教科書のページを倍に=ゆとり教育脱却へ-再生懇が素案