さっき少し変な記事を書いてしまい、
周囲の人間が心配するかもしれないので一応フォローをw
恐らくではあるが、
ここ数日、色々と考えることが多く、
頭を使い続けていたのと、
身体的疲労も相まって、思考回路が少々おもしろいことになったので、
そのまま感覚を言葉に移し変えてみました。
自殺したりはしないのでご安心をw
タイトルは信じないで下さい。
タイトルの方が虚偽の可能性があるという事を忘れないで下さい。
世界は常に真実を隠しています。
ということを信じているようでは、真実を見失いますよ。
今日の僕は少しおかしいので言葉には惑わされないように。
ああ、なんか今日はちょっとこんな風になってしまうw
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陰鬱な日々が続く。
とくに大きな理由も無く陰鬱が僕を包んでいる。
ほんの数日前はどうだった?
楽しかったような気もする。
でも今は陰鬱だ。
だからここ数日ずっと陰鬱だ。
心に支配される。
時間や記憶なんて曖昧すぎて―
―もう全部消えちまえよ。
ガンガン縮むために火を焚いてる太陽さん。
ありがとうって思うこともあるけどね。
おせっかいだって思うことだってあるんだぜ。
俺はそんなに光が欲しそうだったかい?
あいつもこいつも同じように照らしやがって。
嫌味のつもりか。
はっきりした衝動に身を任せたっていいんだ。
でも、それができないと知ってるから照らすのか。
大きなお世話だ。
気分次第。
所詮気分次第。
明日になったらこの衝動すら忘れて阿呆のように笑うだろうさ。
誰だってそうだ。
今の一瞬、今の気分の世界が全て。
脳が腐ってる。
腐った汁が脊髄をグルグルと回って下へ下へと降りてくる。
分かりやすいように赤と青だな。
溶けたら紫だ。
腐った色らしくていい。
脊髄が腐った汁で満ちる頃。
ぼんやりと思う。
この脊髄が樹だとしたら、根っこはどっちなんだろう?
養分は吸い上げられて行くんだから、根っこは養分があるほうだ。
腐った汁は脳から出てるんだから、根っこは脳みそだ。
腐った汁の行く先には欲望代理人が鎌首をもたげている。
結局、救われない。
ここではない、どこか。
そんな場所が仮にあったとして。
ここで何もできない奴は、どんな所へ行ったって何もできやしないだろうよ。
死ね。
死ねよ。
楽だろうな。
一発だ。
腐った脳髄をぶちまけて。
浄化される。
汚れは全部こっちに置き去りでさ。
透明でキラキラした世界にさ。
行こう。
思春期の頃のような衝動だ。
ほら、もう動くことができなくなる、黒い魔力だ。
苛立ちと焦燥感と寂しさと苦しさと圧迫感しかない世界だ。
でも明日になったら、忘れて笑ってしまうんだ。
許せない。
それすらも許せない。
左と右に脳があるのがいけない。
一つだったらずっと一緒なのに。
赤か青のどちらかだけだったら、こんなに腐らなかったかもしれない。
腐ってるのが分かる目線を一体どちらの色の脳が持っているんだろう。
もうやめてくれ。
雑音ばっかりで、何がなんだか分からなくなりそうだよ。
という恐ろしいタイトルで、あえて始めてしまう。
人は古来から、様々な形で神というものを作り出してきた。
我が国を含め、世界各地には未だに様々な神がいる。
それらには実はすべて共通点がある。
そして、その共通点を知る為のヒントは既に我々に与えられていた訳だ。
神という字を、分解してみると。
「示」と「申」という字になる。
「示」という字は自分の考えや物を人に見せることを意味する。
「申」という字もまた自分の考えや物を人に話すことを意味する。
「神」とは即ち、
人々が相互に理解を深めようとする意識の中に宿るものの事だ。
場合によってはそれが宗教のような形になることもある。
相手の考えや物を理解しようとする心がなければ、
相手の「神」を理解することなど到底無理な話なのだ。
逆もまた然り。
神がどこかにいるのだとすれば、それは人の中だ。
神は、
自分を他人に伝えようとする意思の中にこそ宿る。
他人を理解しようとする心の中にこそ宿る。
そういった物なのではないのかと思うのだ。
一つの神を信ずるも、八百万の神を信ずるも、己の中の神を信ずるも。
神がいないと信ずるも自由だ。
しかし一つだけ言えることは、
それらは他人がいなければ、生まれることすら無かった意識に違いないのだということ。
初めに言葉ありき
言葉は神と共にあった、言葉は神であった、
この言葉に命があった、そしてこの命は人の光であった
聖書の中に書かれている、
真理の一端を捉えているであろう一文だ。
言葉などというものがなければ、人は相互に理解を深めようとはしなかっただろう。
逆に言えば、人同士が相互理解を深めようと思うことがなければ、
言葉などというものは湧き出てはこなかった。
相手に自分のことを伝えよう、相手を知ろう、
という意思があって初めて、言葉は意味を持つ。
「言葉に命があった」とはそういうことだろう。
「そしてこの命は人の光であった」
人の光、という言葉をどう理解するかにもよるが、
命は即ち人の光である訳だから、
人の光とは、そのまま言葉の命である「示」「申」の意思であろうと思う。
言葉に命を宿すのは人と人であり、
その言葉は「神と共にあった」とある。
そして「言葉は神であった」と続く。
言葉=神ではなく、言葉≒神なのである。
示
人 言 葉 人
申
感覚的に伝えようとするなら、こうなる気がする。
人と人が互いに言葉や自分の身体を使って、
何かを示したり、申したりしていく中で、
知らず知らずの間に神というものは生まれる。
互いが互いの意思を伝えあうだけで、
相手を理解しようとしなければ言葉はぶつかりあい、神は半身をもがれる。
相手を理解することと、自分の意思を曲げることは全く違う。
他者の考えに思いを馳せずに、
自分の意思だけを撒き散らすのでは言葉に命はない。
「それは違う」という表面的な答えが同じであっても、
相手を理解しようとした上で生まれた答えと、
自分の意見だけを押し通そうとする答えとでは、
まったく本質が異なるものである。
「示」と「申」。
どちらも伝えるための文字である。
だからといって押し付けがましい言葉であると理解するのは短絡的というものだ。
伝えるという物事の根幹には、
相手を理解したいという心があるという事を忘れてはならない。
理解なくして伝えることなどできず、
伝える意思なくして理解することもまたできない。
相克する理由が陰と陽のように複雑に絡み合っている。
しかし同時に、伝えることだけに捉われてしまって、
半身をもがれた神ばかりがこの世界に満ちていることも事実である。
我が県から出た議員、高市早苗が主導となって「青少年インターネット規制法案」という、
もはや脳髄が腐っているとしか思えない法案が提出されようとしている。
詳細なことは各自で調べて理解してほしいが、
ごくごく簡単に言うと、企業のHPから個人のブログに至るまで、
有害とみなされたものには「6ヶ月以下の懲役又は100万円以下の罰金」を与える。
というもので、何をもって青少年とやらにとって有害とみなすかは、
奴らが勝手に決められるという無法状態。
マイクロソフトやヤフーも必死こいて、この法案に反対している。
日本はただでさえ人口が少なく、生産量の面で世界に遅れを取っている。
この上、ITという武器さえ失われてしまったら、日本は確実に終わる。
言葉狩り、様々な規制。
それらが本来の目的で実を結んだことなど、俺は一度も見たことがない。
ここ何年かで、我が国は目に見えて急速に変化を遂げている。
俺はずいぶん昔から、この国が持つ末期性について考えてきた。
テレビひとつとってもそうである。
規制、そして転ばぬ先の杖のような自主規制、これらグルグルと悪循環の螺旋を生み、
突き抜けたテレビ番組は生まれることがなくなった。
規制とは何ぞや?
その規制をすることで守られるものとは一体なんだ?
子供の目から有害なものを遠ざけて、一体どうしたいのだ?
遠ざけたからといって、この世から有害なものは消えるのか?
否。
清濁併せ持つのが世界である。
有害なものは有害なまま、子供には見せなければならない。
俺は中学生の頃、インターネットを通してスナッフビデオ、いわゆる殺人ビデオを見た。
好奇心半分、半分は義務感だった。
思春期の頃にありがちな、自分の中にある黒いものへの羨望と畏怖。
その正体を知るために、そういったビデオが世の中にあると知って、
俺は見ておいた方がいいのだろうと思った。
だから見た。
吐き気がした。
それ以来、俺はスナッフビデオは見ていない。
この過程がとても大切で、これこそが有機的な人格形成を促すのである。
世の中には想像を絶するような有害なものが溢れている。
そこから自分に必要なものだけを取り上げていくには、何が有害で何が有益か。
それを自分で判断できるようにする為の力は、
自分自身が手に入れなければならないのである。
規制によって生まれるものなど、ありはしない。
自らの責任から逃れようとする大人が、規制などという愚かなものを振りかざす。
理想的な青少年像などというものを勝手に作り上げて、
その通りに育つことが本当に理想的だと信じている大人こそ、
是正されなくてはならないこの世の癌であるということだ。
「こうあるべきだ」などという愚かしい言葉を、
己の無知蒙昧さを恥じることもなく吐ける人間こそ頭がおかしい。
そして規制というのは、そういった人間の中からしか生まれない。
ごく近しい人間のブログで極刑についての是非を問う記事が書いてあった。
それを見て、何も考えず、
何も書かないのは逃げているような気がしたので、俺も書くことにした。
もちろんこの事で俺が彼の中に入り込むつもりはないし、
俺の意見がよしんば彼と違ったからといって、その考え方を否定するものではない。
ただ俺なりに、彼の言葉から、彼の思いを感じようとしたかったし、
それをしたならば、それに対して、何か言葉を返すべきだと思ったから書くことにした。
彼の意見は、
人を殺した者に死という結果を与えることは、
ベクトルの性質上、極刑たりえない。
ということなのだろうと、俺は思った。
彼の言葉を引用させてもらうと、
「殺された人たちの元へ犯人を送り込む事になる気がする。」
死後の世界のことを、俺達がどれだけ推し量ろうとしたところで、結局のところ分からない。
しかし分からないからといって、そこに対して無責任でいて良いという訳ではない。
だからこそ「死」を利用した「極刑」という言葉に、
彼は憤りを感じているのではないのだろうかと俺は邪推する。
「きっと死んでなお持ち越せる罪など無いように思うから。」
この言葉から彼にとっての「死」観は解放に近いのではないかと思う。
もしそれが合っているのだとすれば、
それは俺にとっても分かる事ができる感覚に近いもののように思う。
ここからはさらに邪推の域をでないし、
それで彼に不快感を与えてしまうことになるかもしれないが。
それを恐れて何も書かぬのでは、
彼が誤解を恐れずに記事を書いた心に対しても反する気がするので、あえて書く。
彼は罪人に「死」などという解放を与えてやることが、
我慢できないのではないかと俺は思うのだ。
自分は自分のまま罪や苦悩を抱えて、この地獄のような所で生きているのに、
先に抜けさせてやることが許せないのではないだろうか。
罪は死後にまで持ち越すことはできない。
死を与えるということは、罪から解放することである。
殺された人も本人が望む望まざるとは別にして、
ある意味では罪や苦しみから解放された。
それと同じ結果を与えてどうするのだ。
という思いが彼の中にあるのではないだろうか。
これが、俺が彼の言葉から理解しようとしたことだ。
そしてここからは俺の意見になる。
俺自身、これまで自分自身が死なずに生きてきたのは、
母という存在があったからだと思う。
生きることが嫌になったことは何度もあったし、
その準備をしたことも何度もあったし、
どうでもよくなって睡眠薬を大量に飲んで昏倒したこともあった。
しかし、結果として俺は生きている。
俺が生き続ける理由だったはずの母を失った世界でも、
俺はまだなんとなく生きている。
何故生きているのかは、未だに良く分からない。
ただ母の死をきっかけに生きると決めたことだけは分かる。
そこにある感情や思いを言葉で説明することは、今の俺には少し難しい。
ある部分だけを切り取って言うのなら、
俺のこれからの人生における「苦しみ」の大半が既に失われたと思った。
生きながらにして、死んだようなものだった。
俺は。
だから生きると決めたというよりは、
ただ物理的に生きることを継続すると決めた。
ということだろう。
そのような精神的な変化が訪れたということを前提にした上で、
俺の死刑に対する考えを書くならば。
俺はやはり死刑には賛成の人間だ。
「遺族の望む無惨な死は、怒りの矛先を消し去るだけの作業になるだろう。」
例えそうであったとしても、俺は構わない。
人間は自分の許容量を越えた怒りを
抱え続けることができるほどの深さを持っていない。
例えば、俺の母がもし誰かに殺されていたとしよう。
母を殺した奴が罪の意識を感じ、
その罪の意識を一生抱えたまま、生きつづけることになったとしたら。
俺はそんな人間がずっと生きているのだということを、
知ったままこの世に残らなければならない。
これほど不快なことはない。
俺はその罪悪感を与えていることを楽しむことができるほどには壊れていない。
罪は、どのような形であれ、償うことなどできない。
罪の形を決めるのは、各々の人という中でしかない。
罪に対して相応しい罰などというものは、
この世界には存在し得るはずがないのだ。
もし人がもっと己を理解することができて、
嘘をつくことができない生物だったなら、
問えば良い、「貴方に相応しい罰は何か?」と。
しかし、それは机上の空論でしかない。
死によって何かが贖える訳ではない。
結局「死刑」というのは私刑にしか過ぎないのだ。
遺されたもの達に残された手段のひとつ。
そして俺はそれでいいと思う。
狭量であるかもしれないし、エゴイスティックかもしれない。
しかし本来、人間なんてものは狭量でエゴで醜い。
自覚があるかないかだけの差だと俺は思う。
さて、彼の意見に対して答えにはやはりなっていないかもしれないな、
と思いつつも、ここら辺で終わりにさせてもらおうと思う。
歌詞を書こうとするとき、昔は「見る人にわかりやすいように」とか考えていた。
物にもよるけど、俺は自分の曲を作るとき、
自分の中にある何だかよく分からないものをすくい上げようとする。
つまり良く分からないものは「わかりにくい」ものなのだから、
分かりやすくしようとすることで本質を歪めていることになる。
「わかりにくい」ものは「わかりにくい」まま伝えたほうが、
恐らくは伝わる。
自分でも良く分かっていないものを、
自分が整理して分かりやすく組み替えてしまう。
そうすると、その本質が持っていた多様性は失われ、
イメージや概念が固定化されてしまう。
それは勿体ないんじゃないのかと思う。
もちろん、そうすることで表面的な「分かりやすさ」は失われてしまうだろうし、
一度聴いたくらいでは良いとは思ってもらえないものになるだろう。
それでも聴く人によって、
答えの違うものが出来上がるほうが凄い気がする。
今目指しているのは、極端な話、色やイメージや風景。
そういったものに心地よい言葉を乗せただけの曲が作りたいと思う。
もちろん、全部そんな曲にしてしまうつもりはないし、
これまでにも、それに似たタイプの曲は作ったことはあるつもりだけど。
もうすこし極端なものを目指してみたい。
聴く人の中に、心地よいイメージだけが残って、
他の部分は自分の心や状況をはめ込んで埋めることができるような音楽。
できるかどうかは、わからないが、やってみたい。
新しいビジョンが自分の中に何となく見えたことを嬉しく思う。
よし、音と言葉よ、溶けろ。
音と言葉の融解点を俺は探すのだ。
私が送ってきたのは激動の人生だった。
物心がついてから初めて知ったのは、
他人を殺さなければ自分の着る服さえ手に入らない現実だった。
殺されないように身を潜める方法を必死で学ばなければ、
ただ死んでいくだけだ。
私が運が良かったのは、
兄弟や両親が殺される所を目撃できたことだった。
やらなければ、やられるのだ。そう学んだ。
そういう世界なのだと、4歳の時には悟っていた。
だから私はナイフを取り、手始めに近隣の住民を殺してまわった。
これから私が生きていく為にはーーーーーgふぁおぎじゃごいあjgbヴぁ
気が狂うほど飽きたし、もともとこんな記事を書くつもりじゃなかった。
谷間に顔をうずめたい。
誰かセックスさせてください、きがくるています。逮捕してくだちゃおたがkgじゃ0いgら。
ファあっがあがgらうにょおおおおおおんn
ああ かつて
こんなにも業深く尿意が私の中に満ちたことがあったろうか
抑圧の中に見出すリビドー
解放の中に見るデストルドー
始原にて終焉
私と不浄なる器を紡ぐ黄金の糸よ
透明な水へと溶けて神聖なる和音を奏でよ
終焉は新たなる始原
次に黄金の糸が透明な水へと溶ける頃
世界と私を繋ぐ神聖なる和音は
再び不浄の部屋に満ちるだろう
それにしてもアクエリオンを見ていて思ったのだが、
ロボットアニメというジャンルの難しさは、ちょっと尋常ではない。
作ることの難しさ、という意味だ。
ロボットアニメというのは人によって本当に捉えられ方が違う作品で、
単純にヒーローとしてのロボットを求める人もいれば、
SF物としての品質を求める人もいるし、
ロボットを通して描かれるヒューマンドラマを求める人もいる、
ロボットを使った新しい何かを探し続ける人もいる。
ただ言えるのは、どれもやはり娯楽としての素晴らしさを求めているのだ。
単純にロボットが出てきて敵を倒して、はい、おしまい。
ではもはや誰も満足しなくなってしまった。
その極点はマジンガーZがやってしまった。
そこに人間ドラマを足すとどうなる、コンバトラーVだ。
濃度の濃いSF要素や大河的要素を入れるとガンダムに。
そんな風にロボットアニメのヒット作というのは、
常に大衆を裏切り続けてきたようなものである。
その新しい衝撃にカッコ良さを感じてきた。
だからこそ、世代や知識によってロボットアニメに対して求めるものは違う。
そしてそうした様々なニーズに応えるべく、
様々なロボットアニメが生まれ、消えていった。
要素だけで、恒久的な物語性というものを持たない、
いわゆるガワだけのお話が増えたのは残念ながら事実である。
例えば俺のような人間は、ロボットアニメが大好きなくせに、
ロボットの格好良さに関してはあまり興味がなくなってしまった。
というよりも、カッコイイと感じるポイントがフォルムだけではなくなってしまった。
それはキングゲイナーのようなものが、
たまらなく新鮮でカッコ良く見えてしまった瞬間に変わったのかもしれないし、
ZOEのドロレスのようなのが可愛く見えてしまったことによる弊害かもしれない。
つまり重要なのは、その作品においてロボットが良く見えるかどうか。
作品の力によって、良く見せられてしまったのなら、それはやはり良いのだ。
イデオンのようなヒーローらしからぬフォルムに、
畏敬の念すら抱いてしまう己の精神構造を疑いたくもなる。
作品が持つ力というのは、人が持つ価値観すら簡単に変えてしまえるのだ。
そして時代に残るロボットアニメというのは大なり小なり、
やはりその新しい価値観への挑戦をしているということなのだと思う。
今の時代に関して言えばDVDのセールスや視聴率だけでは、
作品の良し悪しを図ることはできないと思うが。
媒体の増加と視聴方法の多様化、さらにはニーズの多様化のせいで、
人知れず埋もれていくアニメのなんと多いことか。
重要なのは絶対視聴者数に対する満足度にあると思う。
特にロボットアニメはそのジャンルの性質のせいで絶対視聴者数が少ないのが痛い。
絢爛舞踏祭やZ.O.E doroles.iのような佳作も、
存在を知ることがなければ見ることすらできない。
やはり本当にロボットアニメは難しいと思う。
オタクな俺としては、そりゃヒットするだろう。
みたいなロボットアニメがヒットしているのを見ているより、
これがヒットするのか!?という感覚を体験したいものだ。
機動戦士ガンダムがヒットした時代があった。
それはやはりとんでもなく凄いことなんだと思う。
スパロボにアクエリオンが出る!
ということで予習もかねて全話みてやりました。
以前、一話だけ見て続きを見るのをやめたことがあるのですが、
今回は最後まで見ました。
んで、感想はというと。
良くも悪くも60点といった所か。
酷くなりすぎずに良く耐えたという印象はある。
結局、広げた風呂敷をたためずに終わってしまったなぁ。
デビルマンと同じことをしても仕方ない、
エヴァと同じことをしても仕方ない、
イデオンと同じことをしても仕方ない。
だから恋愛。
それに河森お得意の三角関係。
だったんじゃないのか、と思うんだけどなぁ。
群像劇をやろうとしてキャラを沢山つくるのはいいんだけど、
後半になればなるほど自分のキャラが劇の邪魔をしはじめるっていうのは、
ゼーガペインでも同じようなことが起こっていたなぁという感じ。
というよりもこの場合はそのキャラすべてに意味を持たせようとしすぎて、
余りもので作った小料理を沢山たべさせられたなぁ、といった感じか。
熱血も燃えきらず、恋愛も煮えきらず、設定も消化しきれない。
配役の意味が作劇に与える衝撃というのがない。
それと主題歌や前情報なんかで、ある程度の期待値があったことも否めないが。
差し引いたとしても、やはり物足りない感が残る。
おいしい素材を結構スッパリなくして、そんな素材でずっと頑張るか!?
みたいな所も感じたりはした。
具体的な名前を出すならバロンである。
中盤でなんとも勿体のない使われ方をしてしまうのだが、
バロンで何か伏線を残しておいて、ラスト付近で使えば、
展開の平坦さを何とかできたかもしれないのに、と思ってしまう。
たたみ方や、素材の面白さなどから考えて、
もう少しなんとかなっただろう、と思ってしまう作品でありました。
五十嵐大介の「海獣の子供」の1巻を買ったが、
絵が上手すぎて漫画に集中できなかったくらいインパクトがあった。
隅々にまで行き届いた絵の集中力。
線と空白の使い方の着想が信じられない。
イラストレーターが描くような整理された線の一枚絵の凄さではなく、
引かれた線自体が特別な魅力を持つ凄さ。
諸星大二郎とは似ても似つかないのに、
比べられてしまうような理由というのは、そこにあるのではないかと思う。
そんな魅力的な線が織り成されて像ができ、コマができ、
それらを繋いで漫画ができる。
絵が上手いだけで漫画は成立しない。
しかし五十嵐大介はコマの繋ぎ方、話と絵の整合性、
間合いの取り方、カット割りなど、すべての水準が異常に高い。
このレベルで漫画を作られたら、誉めざるを得ないではないか。
という恐ろしい漫画家だった。
特に驚いたのは90P~91Pにかけての雨のシーン。
素人目にもはっきりと分かるほどの凄まじい表現力。
90Pの下3コマで描かれた、
風で木が揺れるカット、
地面に一瞬の間に落ちたと思われる多数の雨粒のカット、
黒雲に雷の光が走るカット。
このたった3コマで大きめの夕立が来ると分からせる文法力。
さらにここから主人公の少女から視点を外し、雨のシーンのカットが入る。
4コマの雨のカットが入るのだが、その全てが異常なくらいにすごい。
雨の質感をこんな風に絵で表現できるのか、と。
ストーリー的には丁度、導入が終わって変化が訪れようとする前兆の部分であり、
雨は場面転換の重要な要素である。
シーンの流れ的には、勢いに任せて読み進めたいが、
ここで一端これらのカットによって「間」をとられる。
その狙い通りに手が止まる止まる。
まるで時間がピッタリと止まったように、雨のシーンを見つめてしまう。
この90Pの下3コマと91Pの4コマの雨の「間」のおかげで、
92Pでの主人公の少女が自転車で向かい風の雨を受けるシーンにおいて、
通常の漫画ではありえないような「雨の重さ」を表現している。
「風」と「雨」を丁寧に描いたことによって、
一枚の絵自体が持つ力以上の感覚を見る者に与える。
これが漫画の凄さというものである。
そうして丁寧に作られた「雨の重み」が95Pの夕立の終わりのシーンで一気に解放され、
自転車は「風」に押されて「軽さ」を手に入れる。
この間に主人公の少女の内面のベクトルが変化していく描写をし、
「重みからの解放」をシナリオ流れとリンクさせてしまうのだから、
もはやお手上げ状態である。
小手先で手法を使っているのではなく、必要だからこそ使っており、
それがとんでもないレベルで結実しているということが、すごいということなのだろう。
とにかく何度読んでも発見がある。
とにかくねもう言いたくて仕方が無いので。
俺が待ちに待ったスパロボの新作の情報がきました!!!
スーパーロボット大戦Z
機種PS2 発売日未定 価格未定
新規参戦作品
超重神グラヴィオン
超重神グラヴィオン・ツヴァイ
創聖のアクエリオン
オーバーマン・キングゲイナー
交響詩篇エウレカセブン
宇宙戦士バルディオス
超時空世紀オーガス
参戦作品
マジンガーZ
グレートマジンガー
劇場版Ζガンダム
機動戦士ガンダムSEED DESTNY
これにまだ未確定の参戦作品有り(このうち一作品は新規)
という2ちゃん情報ですが。
はい、来ました。ついに来ました。来てしまいました!!
キンゲとエウレカが本家スパロボに!
キンゲのグラフィックが素晴らしすぎて、俺の興奮は絶頂に。
ああ、俺は今日とても興奮している。
この新規参戦の多さは異常だぜ。
これに加えてさらにもう一作品古めの新規参戦があるとか。
ボトムズかしら?
今は予習でアクエリオンを見るかどうかで悩んでいるところだ。
前に一度見ようとしてノリがしんどくて途中でやめてしまったしなぁ。
しかしこの新規参戦群から予測するに、
∀やビッグオーやザブングルといった作品の復活も期待したい。
今月の19日には恐らくすべての参戦作品が明らかになっていることだろう。
ああ~~~~~!
楽しみすぎて死にそう。
茫洋とした頭の中がカーテンの隙間から覗く。
夢は終わる。
身体が吸い付いたように剥がれない。
だから剥離する。
乖離する。
ふたつ。
瞳が四つ。
うぞうぞと蠢く。
夢を観るのは二つの目。
その目を観るのはもう二つ。
見えてはいけない。
見えてはいけない。
見えてはいけない。
拡散して、乖離して、霧散して。
散った。
狂い咲いた自意識が散った。
瞳が散った。
思考が散った。
届かない。
どうしても、届かない。
わからないから。
カーテンはただ揺れている。
覗くのは互いの目。
冷たい音が聞こえる。
月の上から響いている。
地の底から這い上がってくる。
冷たい音。
のぞまれなかったから。
のぞまなかったから。
たぶん、その両方だから。
だから冷たい音が聞こえる。
耳と脳を冷たい音だけが繋いでる。
凍えるのは耳?
凍えるのは心?
わからない。
わからないことだけが暖かい。
さて、書くことがあまりねぇな。
という訳にもいかんので、一応。
奥井亜紀たんのライブチケットが届きました。
6月14日(土) ESAKA MUSEです。
んで大槻ケンヂのライブは6月26日(木)心斎橋CLUB QUATTROですなぁ。
最近はとにかく筋肉少女帯、特撮、オーケンソロ物と色々聴いてます。
がっつりハマってしまった。
久しぶりにギターがギュインギュイン鳴る音楽を聴いてるねw
たまにはGhostNotesの活動についても書かないとね。
今日は中村くんの家で既存曲をバンド用にアレンジしてもらって、
デモ的に録音してました。
タイトルは『新しい世界の種』と言います。
雰囲気的にはバラードになるかと思いますが、
メロディラインとコードが変な感じの曲です。
その前の時は『エアプレーン』という曲を作って、
その日のうちにデモを録音しました。
これで現時点で、
楽曲的にはバンドで出来そうなのが7曲くらいにはなりましたか。
俺の曲のストック的にはもうちょっとあるんですが、
バンドでやれそうかどうかはアレンジ次第、みたいなのも結構あるので。
作曲のスランプからも、ようやく少しだけ抜け出せたよう。
相変わらずマイペースも甚だしいですが、
今後ともGhostNotesをよろしくお願いします。
GhostNotes Web Site[曲とか聴けるので、もしよければ]
「ああっ、あつ…あっ、つい!」
身体中の毛穴という毛穴から淫らな汗を滴らせながら、
彼女は髪を振りしだき、匂いたつ湯気と汗を撒き散らした。
淫蕩な気配が空間を支配する。
「もう、我慢できないわ」
それは彼女の方だけではなかった。
他の者達とて、このまま辛抱できるほどの自制心を持ちあわせてはいなかった。
燃え滾る、熱くて硬いソレを、
男達は両手で支え、誇示するようにしてみせた。
「ああんっ、素敵ぃいいい!、なんて良い匂いなのぉ」
気分に浸るように彼女は大声をあげた。
熱く、燃え滾るソレから香る特有の匂いを楽しむかのように、
鼻を近づけ、すんすんと吸い込む。
それはまるで麻薬を鼻から吸引する時のような、
危うい禁忌的な行為であった。
「らめええええ、食べちゃうぅうん!もう食べちゃうんだからぁあああん!!」
彼女は遂に辛抱たまらなくなったのか、
一気にソレを口元へと持ってゆき、すすり上げた。
じゅぼっ、じゅぼぼぼぼ!
ぐぐぅ、ごぶん!じゅぼ!!ずずずずずずず!!!
ごっくん!
彼女の喉が口内に溜まった白いものを飲み込む。
喉越しを楽しむように、目を閉じて余韻に浸る。
嚥下する喉の動きに導かれるように、
一粒の汗が彼女の喉仏を愛撫するように流れる。
その頃には彼女の口内にはもはや何も残ってはいなかった。
「ああんっ!もう終わりぃ!?早すぎるぅうう!!!もっと!もっとおおおお!!」
そうして彼女は一瞬にして、
自分だけが鍋パーティーの最後のうどんを平らげてしまったのだ。
他の者達も、鍋を持ち上げてまで盛り上げるほどに
最後のうどんを待ち焦がれていたというのに!
なんということでしょう!!!
まあほんで色々あって、
その責任とって彼女は男達に輪姦させてあげましたとさ。
めでたしめでたし。
今日AmazonからZABADAKのCDが届いた。
買ったのは、
空ノ色
回転劇場
宇宙のラジヲ
の三枚。
それに加えて、空色勾玉という小説が一冊。
もともと空ノ色というアルバムは、
吉良が上記の小説をもとにした
劇団ひまわりのミュージカル『空色勾玉』の為に作られたものらしい。
では、原作を知っているのと知らないのでは、
きっと感じ方が違うだろう!
ということで、小説もあわせて一緒に購入してしまった。
最初は小説を読まずに聴いて楽しみ、
小説を読んでからも楽しめるという二重構造。
うむうむ。良いねぇ。
音楽は良いねぇ。
今は宇宙のラジヲを聴きながら記事を書いている。
新曲に加え過去の楽曲をセルフカバーしている本作。
単純なセルフカバーではなく、しっかりコンセプトアルバムとしてまとまっている
吉良が歌う「遠い音楽」はとても不思議だったが、
小峰公子のコーラスもあってとても心地よかった。
回転劇場や空ノ色も楽しみでしかたない。
なんや最近芸能人のブログが原因でよく荒れて炎上したり、
取り沙汰されたりすることがあるが。
失言やら、言葉尻をとりあげて、
祭り気分で盛り上がったりしているのを見ると、
もう本当にこの国の人間の民度の低さに辟易する。
バカバカしいね。
影響力のある人間は発言には気をつけて欲しいだの、なんだの。
芸能人だって、ある種ファンサービスの意味もこめて、
ブログなんてもんをやってるんだろう。
単純に本音を書いたりしたいなら、一般人のフリしてブログやればいいんだから。
ブログ書いてる本人は特定されるのに、
それに対して好き勝手に文句垂れる奴は本名も明かさなくていいんだから気楽なもんだ。
芸人さんとか、やりづらくなるだろうなぁ。
もともとポンコツ、変態、異常者が集まってるようなもんなのに、
そこに「お前らは変だ!」と文句を言っても仕方がないだろう。
変だから面白いって側面だってある。
むしろ、そこが良いって言ってたんじゃないのか、とも思うけど。
これからポンコツはどこで生きていけばいいのかねぇ。
いずれニコニコ動画のようなものがテレビと同等の市民権を得た時、
調子に乗ってタレントのような扱いをされる一般人が現れて、
同じような目に合わないとも限らんぜ。
神だなんだと気軽にあがめたてるような風潮、怖いと思わんのか。
結局、形態が変化してるだけで根底にあるものは一緒。
俗っぽい感情の正当化。
理論武装してりゃ何言ってもいいと思ってやがる。
法律にさえ従ってりゃ何やってもいいと思ってやがる。
阿呆だろ、それじゃ。
読みたい本。
聴きたい音楽。
見たいアニメ。
やりたいゲーム。
上手くなりたいギター、歌。
覚えたいPHP、MYSQL、FLASH。
良くなりたい頭。
面白くなりたい。
痩せたい。
そして太りたい。
書きたい小説。
作りたい曲。
見せたい世界。
見たい景色。
やまほど。
俺の人生にはまだ多くのものが山ほど。
こんなことくらい、ぜんぶ出来ても多分まだまだ。
この手に掴むぜ。
この未来全部。
全部できるぜ。
全部出来たら俺ちょっと凄い。
でもまだまだ。
まだ足りない。
まだまだ足りない。
次のその次のそのまた次のさらに次。
見えなくなるほど遠い先。
ひとつもできなきゃ俺はクズ。
自然にできなきゃ意味ないぜ。
不自然な自分なんて大嫌い。
やりたいからやるんだ。
全部欲しい未来だ。
掴みたい未来だ。
こんなもんくらい。
全部つかんでも、大して変わらない。
今の俺と何が違うんだ。
だから今の俺と、未来の俺は同じくらい凄い。
筋少にハマったのでライブに行きたい!
ということでライブやってないかなぁ、と『ぴあ』で検索。
すると、筋少ライブやってました。
でも…
ライブの日取りが今月。
もう予定枚数はすべて売り切れて購入できませんでした。
オークションで落札してやろうかとも思ったが、
これは縁がなかったと諦めるのも手かなとも思っていました。
筋少や特撮にハマったのはつい先週か先々週くらいのことで、
この2週くらいでびっくりするくらいのヘビーリスニング。
これほどの勢いで色んな曲を覚えて好きになったのは、
もしかすると初めてかもしれない。
だが縁が無かったのだ。
そうだ。
諦めよう。
でもまあ一応試しに大槻ケンヂでも検索してみよう。
ポチっとな。
ウヒョーーー!!
やってんじゃん!
ヒャホーーーイ!
というかむしろ筋少だけじゃなく、
特撮やらオーケンソロの曲とかもやる可能性のある、
こっちのライブのほうが俺向きかもしれんぜ!?
と思ってオフィシャル見てたら、
デビュー20周年記念大祭
人として軸がぶれている!
筋肉少女帯!、特撮!、UGS!、電車!
大槻ケンヂと絶望少女達!他
デビュー20周年の総決算!
全部やってやるぜライブ!!
とあるじゃありませんか。
「人として軸がぶれている」や「空想ルンバ」も期待できる上に、
UGSとかまでやってくれるのか。
空手バカボンとかは流石にないだろうけど。
ゲストには筋少からサイドギターの本城聡章!
ピアノにはちゃんと天才ピアニスト三柴理もしっかりといるしぃ~!
ウヒヒ、なんというお得感。
このライブ。行くぜ!!
同じ月に奥井亜紀のライブがあったりするが、気にするか!
どっちも楽しむ~♪
一般発売開始は4月27日。
非常に楽しみである。
昨日からTBSで始まった月1の松本見聞録。
これが街に何気なくある変なものにツッコんで、
視点で笑いに変えてしまおうというものなのだが。
1時間あるのでかなり間延びしてしまっている。
松本自身が実際に現地に行って歩くパートと。
スタッフがVTRを撮ってきたものを、
松本がスタジオで見ながら突っ込むというパートに分かれている。
確かに悪くないアイデアだし、
視点ひとつで何気ないものが面白くなる、というのは素晴らしいことなのだが。
しかし。
このやり方だと目的地であるいわゆる「オチ」は一つしかなく、
そのオチまでの時間のひっぱりが画面上部の「~~まで○○m」という表記のみになる。
たっぷりと間をとって、最後に落とすということなのだろうが、
どうしても、そのオチまでの間にも芸人がいじれば面白くなるものは、
もっとあるはずなんじゃないかと思ってしまうのだ。
というのも。
昔、関西ローカルながら、
このアイデアで番組が作られていたことがあった。
その名も『見参!アルチュン』
ケンドーコバヤシがコンビを解消し、
ピン芸人としても非凡な才能を見せつけた出世作の一つでもあります。
そのケンドーコバヤシと、俳優の山内圭哉、女優の藤谷文子の3人と、
毎回のエンディング曲を作ってくれるミュージシャン(街ごとに変わる)が、
街を歩いて、時に妄想し、時に突っ込み、
何気ないものを笑いへと変えていくバラエティでありました。
俺はどうしても松本見聞録を見ると、そのアルチュンを思いだしてしまいます。
もちろん番組自体の空気の作り方も違うので、
一概に比較することはできないのだが、
オリエンテーリング感、視聴者からの投稿、視点の笑い、
などなどテーマとしては、まったく同じ。
その上で、やはりアルチュンの方が素直に面白かったと感じる。
アルチュンには上記の要素に加えてフリートークの楽しみがあったし、
自分も一緒にオリエンテーリングしているような感覚を味わえた。
しかし松本見聞録では、視聴者との間に溝が生まれてしまっているように感じる。
どうなるか分からない、という楽しさがない。
オチが決まってしまっているのが辛いのだ。
息苦しさを感じる。
松本人志ほどの人間なら、オチを決めずに街を歩いても、
もっと面白くできるはずなのである。
まあそれだとアルチュンになってしまうのでダメなんだけど。
これから回を重ねれば変化もあるかもしれないが、
現時点ではオチが決まっていることで、少し手狭な印象を受けた番組だった。
最近は筋肉少女帯、特撮といった大槻ケンヂがらみの曲をやたらと聴いている。
特撮の音楽性の豊富さには驚かされるし、
筋少の個性の強い音楽にも中毒性を感じる。
とにかく筋少と特撮を聞いていると、
バラエティに富んでいて飽きることがない。
自分ベストのプレイリストを作ってヘビーローテーションを組んでいる。
特撮でハマったのは、
アベルカイン
子供じゃないんだ赤ちゃんなんだ
ケテルビー
水天宮と多摩センター
ヨギナクサレ
ジェロニモ
身代わりマリー
文豪ボースカ
アザナエル
うさぎ
揉み鞠
絶望先生のOPテーマになった
人として軸がぶれている
空想ルンバ
などなど、数えだしたらキリがない。
ケテルビーとか、本気やばいっす。
『猫かと思ってよく見りゃパン。しかも一斤!』
コミックソングかと思えば、びっくりするほど哲学的で名曲というスタンス。
学びたい。
アベルカインとかヨギナクサレのかっこよさは筆舌に尽くしがたい。
特にアベルカインなんて、
最初聴いたときはただの轟音メタルだとしか感じなかったのに、
聴けば聴くほどに味わい深くなっていきやがる。
筋少もかなりやばいぜ。
カーネーション・リインカーネーション
機械
トリフィドの日が来ても二人だけは生き抜く
僕の宗教へようこそ
戦え!何を!?人生を!
愛のためいき
サンフランシスコ
僕の歌を全て君にやる
サボテンとバントライン
釈迦
トゥルー・ロマンス
他にもコミックソング的なのも入れたら膨大な量になる。
とにかく、ごめんなさい筋少。
舐めていたのですよ。
こんなにかっこいいと思っていなかったんです。
ライブDVD見たせいもあって、余計に感動したってのもある。
曲が曲以上の力を持つ瞬間を見たのかもしれない。
最初聴いた時、サボテンとバントラインがいい曲だなんて思わなかったもんなぁ。
でも今や震えるんだよ~、これが凄い。
無駄なオーケストラ使いやがって!と思ってたのに~。
迫力やばすぎ。
筋少と特撮は、試しに聴いておいて良かった。
バンド、頑張るぜ!
4月1日は色んな企業が遊び心満載で遊ぶらしいですなぁ。
円谷プロはカネゴンの48ちゃんねるまとめブログを捏造したり。
(↑これは今日中に見れるなら一度みてほしい。めちゃくちゃ面白かったww)
ヤフーはインベーダーに占領されたり。
TYPE-MOONではFAKE /states nightが読めるようになってたり。
Keyでは本日という議論が過熱しそうなタイミングで新作発表。
天皇陛下ブログでは天皇陛下バイバイのやり方をYOSHIKIに教える天皇陛下を、
皇太子が生暖かい目で見守るアイコラが捏造されたり。
タイトルも天皇ブログ陛下になっていたりと芸が細かい。
うんこ食べよう会では、なんと小便を飲み干してしまった会員がいたという、
シャレにならない大法螺をでっち上げ、みんなをビックリさせた。
ムックがガチャピンを掘った掘らないで盛り上がる鈴木蘭々のオフィシャルサイト。
なぁんか、ネットってちょっと見る場所広げるだけで、
すぐに気分悪くなれる。
人が集まってる所とかは特に最悪。
2chの悪い慣習を外にまで持ち出してるようなのとか。
他人を攻撃する時にはせめて本名で勝負しろよ、と思われて当然。
だからといってネットから匿名性がなくなってしまったら、
ネットの楽しみの半分以上は無くなってしまうだろう。
何も難しいことって言ってないはずだ。
最低限のモラルさえあれば、そんなことにはならないはずなんだ。
誰かのミスを責めたてるもの。
反撃するもの。
それを擁護するもの。
人が集まると、冷静さは無くなり、
炎上なんて寒いことに成り下がる。
糾弾すべきは糾弾すべきだろうし、
それがマスコミュニケーションというものなのだろうが、
気がつくとそこには良心というものが欠落していく。
良心とは何か?
そんな質問をしなければならないほどに、
良心とは難しいものではないはずだ。
その当たり前を学ぶために、我々は教養を深めるのではないのか。
正しいことは何だ?
間違ったことは何だ?
それを追求することは悪いことではないだろう。
だが最後には必ず答えが出るなんて思うなよ。
世の中がそんなに簡単なものなら、人はこんなにも長く時間を重ねやしない。
争いや諍いを無くしたい訳じゃないが、
見ていて気分の悪い言葉の応酬を垂れ流すのは勘弁してもらいたいものだ。