この心の中にはどんな世界があるのだろう。
幸せな感覚だけが満ちて、誰も幸せになんかならない。
不幸な感覚しかなくて、誰もが幸せで。
心を置いておく場所を決めようか?
心の形も知らないのに。
置き場所なんて決められない。
レイアウトに迷う。
この部屋は広すぎる。
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ふと、ブレンパワードの事を考えていると、
あることに気づいたので、そのまま考えを纏めている。
書き留めておくと、後々の読解につながるかもしれないので、
ここに記しておくことにした。
まず大前提として、これはブレンパワードを褒めるものでも、
けなすものでも、ましてや富野作品を賛美するものでもない。
ただブレンパワードという作品を考える、
一人の人間の一考察だということである。
加えて、ブレンパワードを知らない人間にとっては、
まったく面白みのない考察であるということもご理解をば。
さらに加えて、これは現時点で私本人が、まだ思考途中であり、
まったく頭のなかで全てを整理できていない状態で記すものであるので、
後々、自分の意見を自分で叩き潰すという可能性があることも、
ご理解の上でお読みください。
●ブレンパワードとキリスト教の関係について。
○用語から読み取る。
・ノヴィスノア
これは恐らくNovice Noahと記すのが正しいであろう。
Noviceとは未熟なカトリック教徒のことであり、
Noahとは言うまでもなく大洪水を乗り越えた、人類の始祖ノアである。
「未熟なノア」という意味を取ることができるだろう。
ノヴィスノアが海に浮かぶ艦であることも踏まえて、
「ノアの方舟」をモチーフにして
建造されたものだと考えて間違いないだろう。
オルファンに対抗するノヴィスノアが「未熟なノア」であるならば、
本来オルファンの対として存在するはずの、
ビープレートとは「ノアの方舟」そのものを指している可能性がある。
・リクレイマー
表記は恐らくreclaimer。
reclaimとは教化するという意味。
リクレイマーの本質が、
「オルファンに属するものは救われる」という
(オルファンが浮上する際に起こる、
地上全ての生物のオーガニックエナジーが奪われる現象から救われ、
オルファンと共に宇宙へと旅立てるという)ものであることから、
まさに最後の審判のような
カトリック的な思想に似通っていることも分かる。
・オルファン
表記はorphan、意味は孤児。
この存在が一番厄介である。
聖書をみても、ノアの方舟と対になるようなものの記述など、
まったく出てはこない。
ブレンパワード内ではビープレートが「あるはずのもの」
と仮定されて概念づけられている。
では逆説的に考えて「オルファン」を「あるはずのもの」として、
神話世界を捉えることはできないだろうか?
「ノアの方舟」とはノアの家族と多種多様な動物を乗せた、
現在の世界の起源となるものが詰まった船であると伝えられる。
怒った神は従僕であったノアとその家族のみを残し、
愚かな者達を大洪水で根絶やしにした。
ならば、オルファンとは
その神に見捨てられた者たちを乗せた船であったのではないだろうか?
故に「孤児」
しかしオルファンは大洪水を乗り切ることはできず、
海底深く沈んだ。
「ノアの方舟」は沈むことなくアララト山に漂着したのである。
そう考えるとブレンやグランチャーと人間の関係性が見えてこないだろうか?
ブレンやグランチャーにも意思がある。
ということはまず間違いなく、彼らは生命体である。
それも神話時代からの。
ブレンもグランチャーも人体でいえば子宮部分にコクピットを備えている。
これは、人間がブレンやグランチャーから生まれた
存在であるかもしれないことを示唆している。
勇がブレンに乗ると落ち着くといったのは、
人という種がブレンから生まれたことを意味してはいないか?
神話時代の住人はネフィルと呼ばれ、それは巨人と訳される。
ノアもまたネフィルであったのではないか?
それはブレンのような存在ではなかったか?
さて、今回はこれくらいにしておきたいと思う。
そろそろ私の頭も回らなくなってきた。
だが、結構おもしろい考えに至れたのではないかと思っている。
ブレンパワードが富野によって、
エヴァンゲリオンへのアンチテーゼとして作られたものであるという噂も、
キリスト教というきっかけを得て、
よりリアリティを増している気がする。
まだまだ謎は多く残っており、
キャラクター群像劇の中にも隠されているものは多くありそうだ。
いやはや最近、全然更新できとらん訳で、
たまには近況報告をかねて、更新でも、と思い至ったわけに候。
ご飯を二杯食べました。
おなかが一杯になりました。
なんとおかしな日本語かな。
最近よく、日本語は「言葉が足りない」などという、
発言を耳に致しますが、私に言わせれば言語道断。
言葉など作って行けば、永遠に捏造しつづけれるものであります。
それよりも、言葉というのは数を減らす方が、
文化であると思う訳であります。
さきほど使った「言語道断」という言葉にしてもそう。
これは本来、言葉で説明する道が断たれるという言葉であります。
つまり事象の多くは、言葉で説明できないことであるということ。
言葉など足りなくて当たり前。
だからこそ、日本の言葉というのは言葉で説明するべきでない言葉の多くを、
淘汰し、日常で知らぬうちに最も汎用性の高い、
使い勝手のいい言葉を使っているのであります。
よく言いますが、
日本語というのは、とても感情を表現するのに乏しい。
英語に代表される多くの言語では、感情表現の言葉を細分化し、
自分の今得ている感情をより明確に表現することを得意とします。
これは相手にすごくストレートに感情が伝わるといういい利点を持っていますが、
反対に、思考回路が短絡的になりすぎるという部分も持っています。
言葉の裏側、言葉の隙間にある感情を救い上げるという作業が苦手になります。
疑心暗鬼がいいことかどうかは置いておいて。
私は日本語が今日まで、多くの言語文化に触れてきてもなお、
残り続けている理由には、この日本語という文化が
世界で最も深い言語であからではないかと考えています。
日本語において、「足りない言葉」があるなどというのは、
まず日本語を使いこなしてから言うべき言葉でありましょう。
「面白い」という言葉。
これは目の前がパァッと明るくなるような感覚を言語化した言葉であります。
だから興味深い話に対しても、笑ってしまうような話に対しても、
突拍子もない話に対しても、不思議な話に対しても、
「面白い」という言葉は汎用性を発揮するのです。
つまり自分が今までにあまりであったことのない感覚。
感情に突き刺さった出来事すべてに対して使うことのできる言葉である訳です。
感情を言葉で埋めてしまうのは、
人格形成上、私にはいい事ではないように思う。
我々が普段、何気なく使っている言葉の多くは、
歴史によって深い意味を複数も持つに至った言葉ばかり。
言葉は間違いなく歴史や文化を吸い込んでいる。
ひとつの言葉に、血なまぐささがあったり、
生々しい歴史があったり、宗教的な作為があったり、
思いもよらぬ価値観への糸口となったりするものである。
凝り固まらぬこと。
言葉が足りぬと思ったなら、自分で作ればいい。
しかし、探せば存外に、
そういった感情や事象を表す為の言葉というものはある。
知らぬ間に使っている言葉には違う使い方もあるということだ。
以上。
近況報告でありますわけが御座いませんでした。
書いているうちに、話題がどんどん外れていく癖は
なおさねばいかんなぁ・・・
快楽はすべてを狂ったように変えてしまう。
一瞬の火花のような快楽。
その一瞬の快楽のために、すべてが壊れても構わないと、
本当に思えるほどの狂った風が自分自身の中に吹き荒れる。
快楽とは一体なんなのだろう?
理性では歯止めが利かない。
しかし、理性がなければ、
脳を突きぬけ、混沌にアクセスするかのような、
あの説明のつかない異常な快楽を得ることなど不可能だろう。
理性という箍が外れた瞬間、
弓のように、抑えていた分だけ力が増し、
欲望の波が快楽という深遠へと人を飲み込んでいく。
本能と理性の関係。
これは種の保存や、生殖活動のみに利用される為にできた機能ではない。
もっと何か隠された秘密があるはずだ。
それはシャーマニックなものかもしれないし、
もっと違う何か、たとえば業と呼ばれるようなものかもしれない。
人間に課せられた何か、なのか。
それとも人間のみに与えられた、どこかへと至る為の道なのか?
人の心の動き。
その様相はグロテスクで目を覆いたくなる。
蝕まれていく。
快楽と本能。
箍と理性。
精神と肉体の同期。
その同期を超えた、精神と肉体の両方が、
そのどちらをも凌駕し、違う次元へと到達するような感覚。
すべてのものは淘汰され、飽和していく。
そうして快楽により、全てが引き剥がされたなら、
我々は、さらに大きなステップに差し掛かることになる。
全地球を快楽で埋め尽くせ。
壊せ、狂わせ、無上の喜びで満たせ。
全快連 会長の快連だより号外。。