チンコが見える。
黒い肉の下、白濁の雨が降る。
血の雨が降る。
生理のときにやるからや。
いつか逝き果てる。
アクメの向こうには何もない。
真っ白な液体。
喉に排出されたドロドロのおたまじゃくしが絡んでくる。
心と声と肉を。
女子高生を追いかけて俺が西署へと連行されるなんて。
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峠が見える。
黒い月の下、鉄屑の雨が降る。
血の星が流れる。
天が地平に落ちていく。
いつか尽き果てる。
峠の向こうには何もない。
真っ白な世界。
喉に突き立てられた硬い棘が蝕んでいく。
心と声と肉を。
太陽を追いかけて月が西へと向かう夜明け。
穏やかな毎日です。
苦悩しながら、笑いながら、悲しいことにも少し目を瞑りながら、
もっと幸せを感じて、探して生きています。
人間が毎日を過ごすために、もっとも効果的なことは、
目を瞑ることなんじゃないかなぁと思います。
目を開けば辛いことなんて嫌になるほど転がっているし、
自分が存在していることにすら嫌悪して全てを否定したくなってしまう。
幸せは作り出せるのだから、
心がけるようにしなければ。
でもいつも心がそれを邪魔します。
沈んだ感情は厄介だから、痛みを求めたりします。
それでも平穏な毎日です。
こんなにも醜い世界を、楽園と呼ぶために生まれた。
どうしようもなく、醜悪な世界なら、
今、ここでこの命を終えたとしても、逃げたことにしかならない。
俺の命は、そんな証明をするために使わない。
俺のわがままだ。
汚れきった世界を、汚れきった自分を。
美しかったと、楽園だったと、大切だったと。
そう思いながら死ぬ為に生きている。
泥水のなかを泳ぐようにもがいて、届きもしない光に手を伸ばす。
いつか小さな光の欠片を、
世界に満たす為に。
この醜く、暗く、醜悪な暗黒郷で生きる全ての生物を、
等しく照らす、等しく美しいと呼ぶために。
この身体を汚して、醜くく、無様にでも光を求めてみる。
汚れきった自分すら愛せるように。
どこにいるのだろう。
曖昧だ。
ふんわりとした闇のヴェールに包まれて。
僕の身体は八つ裂きになっている。
広がるように。
消え去るように。
滲むように。
痛みが明確なものじゃないと知ったのはいつだっただろう。
自らの骨を砕き、肉を裂き、皮膚をめくっても、
その痛みすら自分の曖昧さを消し去ることが叶わないと知ったのは。
この闇は何よりも安らぎを与えてくれる。
混沌に溶けて全てが掻き消える。
孤独が広がって隣には死が座る。
危うさを危うさとも感じない時間が穏やかに流れ。
知らずに心を身体の外に零していく。
この暗い闇からは何も見えない。
何も見たくない。
だけど。
手を伸ばす。
光の中に。
そうすれば届くと信じて。
暗い闇から見える世界は真っ白で。
凄く怖い。
暖かい光は不安にさせる。
でも。
光を浴びた僕から、ぼんやり影が伸びるから。
僕は僕を知った。
闇は何よりも優しい故郷だけど。
そこに僕はいない。
光の中にいれば。
自分の位置が見えるから。
曖昧な優しさはないけど。
明確な厳しさがあるから。
真っ白で何も知らない世界の中を。
手探りで、ひたすらに歩いていく。
隠れる場所がないから。
影を手がかりに自分を探して。
一歩一歩、足を前に踏み出していく。
血液のうねりが痛みを明確にしていく。
少しずつ後悔できる。
痛みを思い出して、ぐちゃぐちゃの自分をかき回しつづける。
もう少しだけ。もう少しだけ。
声がきこえない。
誰の声もきこえない。
安定した自分を求めるように言葉で縁取って。
はみ出した自分を自分だと認められなくなってしまう。
ガレキのように。
遠く見える、あの雲の向こう。
大切な言葉が舞っている。
降り注ぐ言葉の雨にまみれる人がいる。
この声のない世界で。
静かな湖の水の音の中で。
僕は無意味な言葉を紡いでいる。
降り注いだ言葉の何分の一かを
自分にもう一度きかせている。
言葉のいらない世界にいけたら。
強く願うままに全てはかたちを変えていく。
自分が願うから世界が変わるのか、
世界の変化と同調しているから自分がそう願うのか。
そんな順番すら曖昧になって、
ただひたすら必然の海が広がっていく。
すべてが当たり前に流れる。
僕は言葉のいらない世界でそれを知った。
雨が降り、川ができ、海になる。
そんな当たり前に、つながっている必然。自然。
大地が重い。
空が濃い。
広がりを知った。
遠く見えた雨雲が、知らない間にここまで来ている。
息を吸い込んだからだ。
ひとしきり言葉の雨を浴び、息と共に吐き出した。
雨雲はまたねと手を振って、僕の吐いた息に押されて遠くなった。
輝く世界が顔を出した。
陽の光で咲いた花を本当の太陽と呼んでみた。
僕も花だと教えられた。
僕も太陽だと信じられた。
みんな同じ雨を浴びている。
みんな同じ川になる。
みんな同じ海へと集う。
当たり前に。必然に。自然に。
みんな違う光を浴びている。
みんな違う花になる。
みんな違う太陽となる。
当たり前に。必然に。自然に。
声のない世界も。
言葉のいらない世界も。
輝く世界も。
全て繋がった。
僕が繋がった。
世界と繋がった。
不思議と、心が穏やかだ。
澄み渡った湖のように、静かだ。
風もなく。脳を穿つ言葉の雨も無い。
中身の無い輪郭のように身体が、そこにある。
命をどこかに置き忘れた入れ物が、
世界を見つめる物差しを無くした。
けれど無くなった命でも、この縁取りだけの身体でも。
等身大の世界を計ることができる。
もう一度そこから始めてみよう。
命のない体をすり抜ける風を感じて。
揺らがない空っぽの身体で。
言葉が本当に怖いんだ。
自分が何気なく書いた、発した言葉には、
それ以上の意味が生じることもあるし。
自分の考えが足りないことだってもちろんある。
だから言葉を紡ぐ時は慎重になるし、
何度も消したり書いたりを繰り返したりする。
それでも言葉を紡ぎたいと思うのは、
自分のエゴ以外の何者でもないのだろうと思う。
誰が見るかわからない。
だから言葉を怖がったのに。
言葉を紡ぐ決意をさせるのは自分自身のエゴなのだから、
もはや何がしたいのかすらわからなくなる。
それでもこうして、意味もなく、
意味深いフリをして言葉を紡ぎたいのは、
自分と自分との対話のためなんだろうと思う。
誰かの目を意識して、自分の言葉を紡げば、
自分は自分の言葉に対して真剣にならざるを得なくなる。
その経験は人を育てると信じたいし、
自分にとっても思わぬ意味を生じさせることもあると思う。
軽はずみな一言で。
ふとした言葉で。
失いたくないものがある。
でも。
だから言葉より大切なものがあると。
意味もなく信じれるんだ。
おまえらもっとうんこしろ!
へもしろ!
そういうもんなんです!
†GhostNotes Official Site†やっとこさ、我がバンドの曲が公開と相成りました。
バンドのページにて聴くことができるので、ぜひ聴いてやってください。
今回は俺が作詞と作曲を担当しています。
これからも自分たちのペースで、楽曲を公開していけらなぁと思っておりますので、
長い目で見守ってやってください。
ではでは、失礼いたします。
酔っ払いより。
さっき体外離脱の記事かいてる時に思ったことですがね。
この物質至上主義世界じゃオカルティックな話は通じ難いだろうなぁと思ったんです。
体外離脱の説明をするときに、実は夢だとか、脳波だとか、
あんまりそういった言葉は使いたくなかった。
なぜなら、そんなこと分からなくても
感覚がそこにあればそれでいいと思うからです。
よく分かりませんか?
つまり、説明のつかないことでも、別にいいじゃないか。
っていうことですよ。
昔シャーマニック的な方へと流れた人間の多くは、
今で言うジャンキーばかりだった。
見えないものを見、聴こえないものを聴いた。
それは幻覚や幻聴であれ、この世ならぬものの姿であり、声だ。
そこには肯定も否定も必要ない。
それだけが答えでいいじゃないかと思う。
指先を動かすだけで部屋を温くしたり冷たくしたり、
文字を浮かび上がらせたり、他人と声を通じ合わせたり。
テレパシーや魔法まがいのことを毎日やっているのに、
すべて科学だという説明がついてしまうと、あまりにもチープになってしまう。
大昔の人が見たら大魔術だと騒ぎ立てるに違いないことを、日常の一部にしている。
オカルティックなことは、日常からさほど遠くない場所にある。
それだけは間違いない事実だと思うんだ。
ワタクシ、趣味として体外離脱の訓練をしております。
頻度的にはそれほど多くはないのですが、
暇で何もする事がない日などはやったりします。
さて「体外離脱」という言葉になじみのない方は、
一体なんのことだ?と思われるかもしれませんが、
一般的な感覚でいうと、幽体離脱というのが一番近いでしょう。
実際に霊体が体外に離脱するのではなく、
意識が身体という殻の外で自立する。という感覚が正しいと思います。
脳波をコントロールして、いわゆる好きな夢を見る訳なのですね。
明晰夢などと呼ばれたりします。
ただ、それはシラフの状態で如何に頑張ったところで素人には難しい。
ということで「おべぱるす」というものを使います。
気になる人はGoogleで検索してみてください。
このおべぱるす、かなり凄い効果を発揮します。
上手くリラックスできれば、身体の感覚を無くすくらいまでは一気に行けます。
俺は初期の段階で全身に振動を感じる所まで行きました。
ただそれで怖くなってしまって一気に意識が覚醒してしまいましたが…
その時に落ち着いてリラックスしたまま、意識を立ち上がらせたり、
寝返りを打とうとしたりすると、意識が身体の外に出ます。
と、偉そうに言っていますが、
今まで明確に身体の外に出た、と実感できたのは2回だけ。
そのどちらも不安感から、結構はやく目覚めてしまいます。
当面の目標は、その状態まで安定して到達できることです。
その次の仮題は、夢から覚めずに夢を操ること。
夢の中では全てがかなりリアルに表現されているのに、
自分は空中に浮いたり、テレポートしたり、かなり自由が利きます。
その分、不安感や意識の覚醒度合いが高まってすぐ目覚めてしまいますが…
それにこのおべぱるすの凄いところは、
実は明晰夢を見れることだけに留まりません。
このおべぱるすは脳波をコントロールするためのパルスです。
つまり、興奮度合いを高める場合にも非常に効果を発揮するということです。
俺は最近、オナニーの時にはこれを使用しています。
昔は合法ドラッグなども使ったりしていたのですが、
正直ああいったものは合法でもなんでもなく、
しかも身体への負担も半端ではないので、使用はおすすめできません。
俺も最近は全く使っておりません。ほとんど違法に指定されちゃったしねw
しかし、このおべぱるすならちょっとした訓練で
普段のオナニーの数倍から数十倍の快楽を得られることができます。
ただしAVを見ながらとか、エロゲーをやりながらなどのオナニーには不向きです。
なぜなら脳波をコントロールするパルス音ですので、
他のノイズが入ってしまうと脳波を上手くコントロールできません。
想像かエロ本、または官能小説などとの併用をおすすめ致します。
もちろんオナニーだけじゃなく、瞑想にも非常に良い効果を発揮するでしょう。
訓練が必要だというのが、多少手軽ではありませんが、
とはいえある程度までなら結構すぐコントロールできるようになるので、
一度ものは試しにやってみるのもいいかもしれません。
どうせタダだし、細かいやり方なんかも説明されてますから、
俺なんかよりずっと早く離脱に慣れてしまう人もいるかもしれませんよ♪
?:0758237777
これはワン切り業者の電話番号。さっきかかってきた。
知らない電話番号なので速攻Googleで検索。
案の定ワン切り業者の番号だと発覚。情報化社会の良い使い方だね。
京都の市外局番なのでかけなおしてしまいそうになるが、
知らない電話番号からの電話は基本的にシカトしましょうね。
最近この手の架空請求が多いようなので、ちょっくら書いてみた。
俺は基本的に闇金側の意見に賛成の人間だ。
例え利率が法律から逸脱していようが、借りる側はそれに納得して借りる。
この時点で契約は成立しているのだから、
その金は臓器を売ってでも返さなければならない。絶対だ。
他人から金を借りるというのはそういうことだ。
ただ架空請求は、小学生並みの頭の悪さだ。
貸してもいない金を返せ、と脅して金を儲けようとする。
もう…なんというか、ため息しかでない。
やるならもっと上手く、法律の間を抜けて欲しい。
頭が悪すぎて怒る気にすらならない。
こんなのは相手にするだけ時間のムダ。当然シカトを決め込みましょう。
はぁ…
精神と概念の外堀を埋めるように言葉を紡ぐ。
溶け出て行く失われた価値観の海のなかで新たな命が芽吹く。
曖昧な言葉を紡ぐことで見えてくる世界。
屈折した光が歪曲し彩色の多重奏となる。
虹色の太陽を平らげる地の果ては永遠に届かない楽園。
普段からメガネをかけている人ならわかるかもしれないが、
裸眼で沢山の光を受け止めると脳がゾワゾワする。
天気の良い昼間なんかに緑の多い場所でメガネを外すと、
普段つかっていない部分の脳を使うのか、かなりゾワゾワする。
血が巡るとでもいうのか、そういう感覚は非常に面白い。
夜ならば、他人の運転している車の中でメガネを外して、
ネオンなど外の景色を眺めていればゾワゾワしてくる。
俺は裸眼の視力が、左が0.1で右が0.05なので、
あまり参考にならないかもしれない。
字にしてみると分かるが0.05は、もうそれはすなわち0やね。
[GhostNotes OffisialSite]バンドのホームページを更新。
大学がもう終了なので、これから細かいところを色々修正していきたいと思ってます。
骨格構造はそのままに見えるが、CSSをまとめたのでソースは見やすくなった。
まさにメモ帳美。
静寂に色がつく。
もう一度、求められたままの世界へと還る。
はじめて、真新しい彩色の世界へと孵る。
無音の旋律に生命が呼応する。
停止した心音に色がつく。
呼吸しない肉塊が色付く。
息づく森から離れていく。
美しい無音の宇宙へと。
新たな音色を探して。
刹那的であることが悪いように言われている。
でも、俺は実はまったくそうは思わない。
もともと多くの文化や文明というのは
刹那的な感覚から生まれているような気がしてならない。
持続しているのは、そういった文化が他のことより魅力的であったからだろう。
それを紡ぎたいと思うのは、後の人間であって、
最初の人間は、ただ面白いものを、ただ便利なものを、という風に、
自然な流れに任せて作ったのではないだろうか。
結果的に持続していくものが強い。
過去のものを守ろう守ろうとすることは、やはり滑稽だ。
守られなければならない過去の遺産があることは事実だ。
しかし生活に根付くものは変化しつづけるからこそ意味があると思う。
刹那的であればあるほどに、意味深くなると思うのだ。
世代を重ねることで、人は刹那的に生きていける。
むしろ、人が不老不死だったなら、過去からの慣習や、
過去の記憶というものは守られなければならないかもしれない。
けれど、人は世代を重ねるのだ。
たかだか生きて50年や100年。
だからこそ、その間は刹那的に生きればいいと思う。
後に残るかどうかは、後の人間が決めることだ。
そうした刹那的な輝きによって生み出された光が、
1000年先まで射程に収める文化になることだってありうる。
刹那に生きろ。
一秒前の自分の価値観など切り捨てて、新たな境地を切り開け。
自分が自分を置き去りにしていくしかない。
知らない間に自分に歩幅を合わせるようになったら終りだ。