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考える

うちのバンドでベースを弾いている上谷くん。
彼が自分のブログで「考えない」宣言をした。

それで「考える」ということを考えてみた。
考えるとは何だろう?
俺は色んなことを考えるが、考えようと思って考えているわけではない。
考えようと思って考えることもあるが、
基本的には、出来事に対して自分が感じたことを、
書いたり、話したりするうちに、考えが自然にまとまっていく。
という感じだ。

出来事に対して、何を思うか、何を感じるか、
これが既に考えるということに直結していると思う。
上谷は自分に身近なことしか考えられない、と言っていた。
それは俺に言わせれば、ただ単に想像力が足りないだけだと思うが、
凄く正直な意見だとも思う。

どこかの国の戦争。
どこかの国の貧困。
この国のどこかで起こった殺人。
この国のどこかで起こる事件。
この国の政治。

そんなことを考えたところで、確かに何も変わらない。
誰かがどこかの国の貧困を嘆いたところで、
その国で死ぬ人の数など変わるはずもなく、
おかずを一品減らしても、その国の人が助かるわけでもない。
なら考えたってしょうがない。
正直な意見だ。

けど、俺はそうは思わないというだけのこと。
俺にとっては、その毎日餓死していく人たちを思うと、
そんな不条理にムカムカしてくるだけのこと。
だからといって、自分が食べないでおこうなんて思わないし、
テレビで芸人が食べ物を粗末にしていても、
面白ければOKとも思う。
だって、それは多分、貧困の国の人々だって、満腹だったら、
笑ってくれたろうから。
それを笑わないのは違うと思う。
そして、そんなことを考えていたら、
こんな風に食べ物を粗末にすることで、生まれる笑いを知ることができない世界に、
不条理に死んでいくしかない人たちがいることに腹が立つのだ。

ようはどれだけ、自分と程遠いと思っているものを、
自分という等身大に近づけることができるか、だと思う。
自分という物差しを広げる。ということが重要なんだろう。
こと考える、ということにおいては。

上谷は自分の友人なんかが、自分のことをどう思っているかが気になる。
と書いていたが、俺は、実はそんなことにはほとんど興味はない。
そりゃ多少は気にならないこともない。
できることなら、気にしていてほしいし、好きでいてほしい。
けれどそれよりも重要なのは、俺が、その人たちのことをどう思っているかだと思う。
それ以外は、どれだけ気にしたところで願望にすぎない。
気にする必要がないのじゃない、それは考えるのではなく願望だと思う。

そして、俺が人間に餓死しないで欲しいと思うこともまた、
それとまったく同じラインにある願望だろう。

「考える」とは、考えようと思ってする行為ではなく、
自分という物差しで見た世界そのものの結果だと思う。
「何も感じない」
そんな人間など俺はこの世界にはいないと思いたい。
何も感じないのではなく、「感じたことを表現できない」だけだ。
そして、それは努力することによって簡単に改善できる。
自分が感じたことを、どうすれば他人に上手く伝えられるだろうと、
試行錯誤すること。
それこそが「考える」ということだろう。

「考えない」ということは、
これから先、多くの出来事に対して何も感じません、ということだ。
人間なら、そんなことは絶対にできない。
しかし「感じたことを他人に説明することをしない」ということなら、
それは凄く簡単なことだ。
それをもって「考えない」と宣言することもできるだろう。

しかし他者に対して、何かを言うということは、
案外自分に対して言っているのと同じである。
頭でどれだけ考えていても、意識せず他人に言いもしなければ、
簡単に風化してしまう。
それを書いたり、話たりすることで、
自分自身で、それを意識することができる。
自分で、自分が、「あ、俺ってこんなこと考えてたんや」と思い至ることはよくある。
無意識と意識、というやつは、そんなにはっきり自分の中では分かれていないのだ。

考えない、という結論に達するには、
上谷は幾らなんでも若すぎる。
それで気が楽だ、と言っているということは、
要するに、彼は多分、他人に自分を説明するのが億劫なのだろうと思う。
だから、多分、自分に対して自分を説明することも得意じゃないだろう。

あえて言わせてもらう。
そんなことしてたら、自分が消えるぞ。
自分が自分にとって何よりも意味のない存在になったら、
あとは他人にしか世界の意味を求めることができなくなる。
でも、その他人を見ている自分が、
自分にすら曖昧な存在だったら、その時点で世界に意味がなくなってしまう。
宗教や他人の価値観にすがるしかなくなってしまう。
それじゃ面白くないと思う。

色んな出来事に対して、自分の感想を持ってるか?
持ってるなら誰でもいい。
他人に対して、その感想を告げることが重要やと思う。
時には否定されたり、時には肯定されたり、色々あるやろう。
でも絶対、その方が面白い!
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円環

生きれば、生きるほど摩擦を伴い。
ズレが生じ、磨耗していく。

毎日とは、繰り返す羅列ではなく、
円環状に影響を与え合っていく。
昨日を受けて今日に至り、
今日を経て、明日を呼ぶ。
その過程の中で、自己形成が繰り返され、
なくしてしまったものに気付かないまま、
新たに手に入れた世界の価値観を信じるしかなくなる。

昨日の自分を否定して、前に進む。
そして明日にも、否定される今の自分。
それでもそうすることでしか、前に進めないのなら、
躊躇いはない。
けれど、そうして無くしていった自分の欠片が、
いつか自分にとって本当に大切な一部だったと、
気付いても手遅れになっているのだろう。

その感覚を、その落し物を取り戻そうとするのなら、
多分、今の自分は、今の価値観と、明日への原動力という、
二つのものを落としていかなければならないだろう。

それでも、ひとつの落し物を望むのは、
明日が見えなくなろうとも、過去を失う怖さを知ったから。
いつか信じた輝きを、無に等しいと思うのは、
乾いた明日を望むのに等しいから。

今は、どちらが大切かは
わからない。

M-1優勝…?

そういえば、M-1を見ていて、怖いなと思ったことがひとつ。
M-1で優勝した奴は、何が何でもおもしろい奴だ。
というような認識である。
もちろん、M-1で優勝するということは本当に凄いことだし、
尋常じゃなく難しいことだ。

ただ、だからといってテレビでも活きるかどうかは別問題である。
テレビ芸と、ネタは全然違う種目である。
セックスとオナニーくらいには違うと思って頂いて結構である。
たとえネタが面白くなくても、テレビ芸で活きる芸人は多くいる。
逆にテレビ芸がそれほどうまくなくても、漫才が突出しているコンビも多くいる。

M-1に優勝したからといって、総合で一番面白いかどうかは全然はかれない。
テレビにも、企画や、素人とのからみや、コントや、司会や、ガヤなど
ほんとうに様々なポジションというものが存在する。
M-1で優勝するということは、
漫才が上手く、面白いということであって、
決して、一番面白いかどうかではない。
世の中の人の多くはそれを勘違いしていることが多い。

テレビではフットボールアワーより、
南海キャンディーズが活きる瞬間もあるし、
ますだおかだよりも、品川庄司が面白い瞬間もある。
だが、だからといって、ますだおかだより品川庄司が面白いとも限らず、
フットボールより南海の方が面白いとも限らない、ということだ。
ケースバイケースという単純なことではなく、
まったく土壌が違うということである。

テレビでふと見た芸人が面白くなかったからといって、
その芸人のネタまで面白くなくなるとは限らない。
まあ大抵、面白い芸人はどちらも上手くこなすものだが。
例外もいるにはいる。
なるべくなら、浅いところから見ないほうがいいと思う。

テレビを見ながら。
「こいつら、こんなことしてお金もらえんのはええなぁ」
と思ったりしているのなら、大きな間違いである。
そのたかが30分や1時間のテレビの枠を、
なんとか面白くしようと、眉間に皺をよせた大人が、
何時間も会議を繰り広げているのだ。

批判することは悪いことじゃない。
しかし、批判するにせよ、しっかりと考え、
どうすれば良くなるのかを考えてから、批判して欲しいと思う。
面白くないものを、面白いと言う必要などない。
しかし、何故面白くないかくらいは、
考えてみてもいいではないかと思う。
与えられることが当たり前になるのは問題だということだ。

M-1グランプリ。

今年のM-1はよかった。
特に決勝2回戦のネタはすべて凄かった。
笑い飯がトップにも関わらず最後まで残ったのも快挙だった。
なによりブラックマヨネーズが優勝してくれたのが本当に嬉しかった。
ブサイク、ハゲネタをストイックなまでに押さえ込み、
本来の実力のみで優勝をさらっていった。凄かった!
麒麟の2回戦の掴みは良い試みだったと思う。
そこからの展開がやっぱり、ちょっとテンポを失ってしまうのが難点だけど。

残念なのがチュートリアル。
かなり面白いネタを見せれたとは思うけど、
ブラックマヨネーズには1歩およばずだった。
でも運次第ではブラックマヨネーズよりも爆発力のあるネタができるコンビだから、
これからにも充分期待できる!
やっぱりチュートリアルは漫才を諦めるべきじゃない!

南海キャンディーズは漫才のレベルを上げきれなかったのが明らかな敗因。
あの多忙なテレビスケジュールの中で、
漫才に磨きをかけるというのは非常に難しいと思っていたが、
去年よりも掛け合いのテンポが悪くなっているのは怖いと思った。

千鳥が敗者復活であがってきたのは嬉しかったが、
あのネタでは、流石にムリだろうというのが正直な意見。
千鳥も去年からの進化が見られなかったコンビのひとつ。

品川庄司も思っていた以上に面白かったが、
完成度でさらに上回るブラックマヨネーズが出てきたのが敗因だろう。

タイムマシーン3号とアジアンは、自分らしさを意識しようとして、
本質を見失ってしまったパターンのネタだったと思う。
キャラクターで自分らしさをだそうとしすぎていて、
ネタの独創性にかけてしまった。

今年は、間違いなくブラックマヨネーズが優勝コンビだった。
俺が懸念していたハゲ、ブサイクネタもネタ中にはほとんど使わず、
本当の自分たちらしさをネタで表現できていたと思う。
いやはや、今年も感動をありがとう!

テ文ラ盲ワ丸ロ出スし

携帯で読み返してみたら、
昨日書いた記事が物凄い面白い文章になっていたので、
そこをピックアップ

>研究を発表したわけでもなければ、
>現在旅先にいるのだが、
>こんな場所に来て羽根を伸ばせるなぁ、
>などと湯船に浸かりながら思っても、
>あれやこれや云々と考えてしまう。

まさに支離滅裂!
ニポンゴむつかしよ!

終わるわけでもなければ、
現在やめようと思っているのだが、
こんな時間になって羽根を伸ばせるなぁ、
などと夜に浸りながら思っても、
あれやこれや云々とテラワロス

旅先にて。

考えることを運動だとするのなら、
俺は多分、結構なアスリートだ。
練習量はなかなかのものだと思う。
でも、それの証明というのは凄く難しいし、
凄く不毛なものだ。

研究を発表したわけでもなければ、
現在旅先にいるのだが、
こんな場所に来て羽根を伸ばせるなぁ、
などと湯船に浸かりながら思っても、
あれやこれや云々と考えてしまう。

運動というのは、どれだけやっても
「暇やなぁ」とか「楽そうでいいなぁ」なんて言われない。
それに結果として筋肉がついたり、
前よりも上手く何かをこなせるようになったり、
すぐに結果が自分にフィードバックされる。
物質的なものへの評価ばかりが先に立つ。
それは仕方のないことだろうと思う。
何かが表面に出てこなければ、
評価なんぞ出来るはずもない。

しかし、それにしても評価に繋がるものが薄っぺら過ぎると思う。
もう少し、どんなことでも、
大きく広く深く、見て欲しいと思う次第である。

光 と 影

過ぎて行く。
うーん過ぎて行くなぁ。
色々なことが、俺に興味がないように
通り過ぎていく。
俺はその激しかったり、ゆるやかだったりする、
流れを眺めているだけだ。
時に戯れに、その流れに乗ってみようとするけど、
そこは俺の居場所じゃないように俺をはじきだしたり、
自分から飛び出たり。
そんな俺でも、流れに飛び込めば、
しぶきをあげるし、波紋を作る。
そのことに嬉しくなったり、自己嫌悪したり。
そうして、世界との関係を作ってきた。
これからもそうするのかもしれない。
だから孤独だ。
孤独だから、自分を大切にしなければならない。
世界から浮き上がってしまったものは、
自分自身で守るしかない。
奥井亜紀は幸せは思い込みと勘違いで出来ていると言った。
そのとおりだろう。
岡本建太郎は幸せは死を意識した先にあると言った。
そのとおりだろう。
ひたすらに孤独な世界に、光を落とす。
当たり前に、
光と、その俺を照らして生まれた影ができた。
愛するべきものは全てだと気付いた。

B'z / THE CIRCLE

いや、何故か知らないが、最近B'zのTHE CIRCLEを改めて聴いている。
65点?70点くらいのアルバムだなぁと思っていた。
いや、その評価は今でもあまり変わってはいないし、
最初に思った歌詞が凄いというのも、その通りなのだが、
思っていた以上に歌詞が凄かった、ということなのだ。

このアルバム、充分にコンセプトアルバムとして成立しているのだ。
B'z両名がインタビュー等では「コンセプトって何?」なんていう、
アホ丸出しコメントを言い放ちまくったのは、
このアルバムに難解なイメージをつけたくなかったということだと考えていいだろう。

まず単純構造として、輪廻というものを根幹に据えた、
THE CIRCLEの歌詞の「破滅と再生の技」を求める精神過程がある。
そしてXの歌詞「来世はない 今だけが どこまでも続く」
という部分からもわかるように、
現世から死して来世に移る「死と新生」ではないということである。
「破滅と再生」であり、
それは生きながらに人が、多くの実感を伴い経験していることだ。

そしてFly The Flagの
「一生懸命生きている 名もない旗をかかげろ」や
「ぶっこわれそうでも やぶれてしまいそうでも 名もない旗をかかげろ」
という歌詞からは、一生懸命に我武者羅に生きることで、
掲げた旗が崩壊し、新たな価値観を知らない間に構築していくという、
無意識の成長過程が描かれている。
これこそ、「破滅と再生の技」へと連なる第一歩といっても良い。
「小さなこぶしを握りしめ 歩き出せ」というラストのフレーズは、
出発点という印象を与えるに充分なフレーズだ。

さらに睡蓮では、
「時は流れ流れ すべての色は変わり
艶やかな花びら いつかは散る運命」
一生懸命生きた、証しに全ての色が変わったと、
再生した自らを表現する分かり易いフレーズがある。
そしてだからこそ、その艶やかな花びらですら、
いつかは散る運命であると分かっているのだ。
そうして崩壊し、また再生されていく。
このたった2行に破滅と再生がわかり易く描かれている。
そして、3回あるサビの最初のフレーズ
「ひそかに 静かに 雲が出て」
「ひそかに 静かに 夜は更け」
「ひそかに 静かに 月が出て」
という歌詞の流れは、情景描写と共に時間の経過、
そして感情の揺らめきすら表現して見せている。
雲が出て、心を影で覆う。
そして夜は更け、寂しさがしのびよる。
けれど月が出れば、隣にいる君の優しい微笑が見える。
「そして、僕たちは歩き出す、ここじゃない何処か遠くへ」
再び、価値観を崩壊させ、ここではない場所へと、躊躇いなく歩く。
それは「いいんだ 戻る場所は この胸にしまおう」と言える、
主人公だからこそ、進める道である。
破滅を迎え入れる覚悟があるのだ。

だからこそ、睡蓮の次の曲、
破滅を迎え入れた先にこそSanctuaryが待っているということだ。
「雲が割れ 光がもれて
血は流れ 体はふるえる
Come On 声が聞こえる
Come On 今動き出せと
Hello まばゆいサンクチュアリ Hello Hello
Come On ぶちこわせるかい
Come On 全部なくせるかい
Hello 僕だけのサンクチュアリ Hello Hello
I will be there」
雲が出て、影で覆われた心も
雲が割れ、光がもれることで動きはじめる。
熱く滾りはじめる。
声が聞こえるのは、暗い闇を知ったからであり、
そして破滅を求めたからだ。
「ぶちこわせるかい」「全部なくせるかい」
その問い掛けこそが、サンクチュアリへ至るためには重要なのだ。
それを求めれば「I will be there」「たどり着けるよ」である。

そして、ラストのBrighterDaysの閉塞的で終息的な歌詞に至り飛翔する。
「君がいなくなってから
すべての明かりは消え
ときどき息さえできなくなる
まわりの何もかもが変わってゆき
僕は自分の一部を失くしていくようだよ」

さて睡蓮で共に歩き出した二人にも別れが来たのだろうか?
とにかく、君はいなくなってしまった。
だからすべての明かりは消え、ときどき息さえもできなくなる。
ズタボロになって、崩壊している。
「一生懸命生きて」「すべての色は変わり」「全部なくせる」自分が
得たのは「まわりの何もかもが変わってゆき 僕は自分の一部をなくしていく」
そんな感覚だった。
この崩壊は、このアルバム内において最も決定的な崩壊のひとつである。
そこから再生できる人間は、正直な話、本当に限られているだろう。

「あのろうそくにもう一度 灯をともしてくれ
いったいいつになったら前に進めるのか
この魂をもう一度 はばたかせてくれ
輝ける日へと続く道を見つけたいんだ」

サビのこのフレーズは恐ろしいほど、切ない。
ズタボロになった心ですら、なお、
灯をともしてくれ、と。前に進めるのか、と。
魂の飛翔を求めている。
しかし、その再生を望むことは、
彼にとって、新たな破滅がまつ世界への輪廻を意味する。
それでも彼は「あのろうそくにもう一度 灯をともしてくれ」と叫ぶ。

「愛というものについて 考えてみるよ
君が与えてくれたものについて
それはいつだってこの心に残ってるし
過去は僕に生きろと教えてくれたはずだ
今こそ自分自身が変わる時なんだよ」

この歌詞からも稲葉氏は「死と新生」の輪廻を批判しているように感じる。
「過去は僕に生きろと教えてくれたはずだ」という言葉は、
再生を死に求める人間への批判に他ならない。
現実から逃げるな。というメッセージはXの「邯鄲の夢からその身を起こしなさい」
というフレーズからも読み取ることができる。
現実という価値基準が絶対の世界で生きている限り、
生命の中に起こる輪廻こそが、本当の輪廻である。という意思が見える。

「ああ この魂が飛び立とうとしている
すべてが終わろうとしていたけれど
感じるんだ あのろうそくがまた燃えようとしている
今僕は 輝ける日々へと続く道を見つけたよ」

それを思い出したからこそ、あのろうそくがまた燃えようとする。
そして再びTHE CIRCLEへと輪廻し
「ゆらめく太陽が姿を現して
森羅万象をくまなく照らして
萎えた心 焦がしてゆく

大いなる輝きに
おそれをなし 祈る

破滅と再生の技を
今こそ未知の力を
われらに与えておくれ
あなたの前に立って
灼熱の風をあびよう」

と更なる飛翔を得て全てが輪廻し、同じ世界を回らず、
螺旋のように破滅と再生を繰り返していくのだ。

異端児ムジューン

俺は何度、このブログで「死」について書いたか分からない。
自分の死、他人の死、多くの死について書いた。

それを『死を簡単に見るな!』とか
『死ぬ死ぬなどと気安く言うな!』とか思っているのなら、
本当に大間違いだ。

バカにするな。
命の重さを知ろうとしない愚か者が。
死を想像過程でも、事実としても経験せずに、何が命の尊さだ。
反吐を撒き散らしたあと掃除させてやる。

死から、これほど遠ざかっている世界の中で、
命の尊さの一体何がわかるというのだろう?
犬の死体も、猫の死体も、狸の死体も、人間の死体も、
知らない間に誰かが片付けている。

過保護に育った生命は、
偏りが激しい。
生を極端に大事にしたがるか、
生に対して極端に無頓着になるかだ。
どちらも歪んでいる。

生とは、死を最終過程として迎えるからこそ存在しているものであり、
その生に意味を見出せるとしたら、それは「死」を迎えてからである。
だからこそ、どちらもないがしろにするべきではない。
その過程を通り越してこそ、自分の「命」である。

俺が自殺に対して、異常なほど執着するのは、
自らで命を閉ざすという行為が、俺の生命に最も重要な意味を与える行為だからだ。
生まれたことには意味なんかない。
生に意味を与えられるとしたら、それは生きた人間の最終過程でしかあり得ない。
それは、その人間の長さに左右されず、厳然たる意味としてこの世に生まれる。

これと全くの正反対の生の表現は、
「死んでたまるか」である。
これは、本当に意味のある言葉だ。
そこには無念さがある。
この世界に対する未練や、死を意識した先にある、本当の生への渇望がある。
その末に、無念なまま死んでしまうこともあるだろうけど、
それはその人が本当に最期を迎えるまで分からないことだ。
不確実だが、自分の証明をそちらに求めるのなら、仕方のないことだろう。

表裏一体だと思う。
俺の死への憧憬は、生への渇望に他ならない。
書けば書くほど矛盾を生むが、どちらも本当の気持ちだ。

死は無残で、残された人間にとっては、悲惨なものでしかない。
誰も死を嫌がらず、死を怖がらず、死を待ち望むようになったら、
その世界は存在する意味なんかなくなってしまうだろう。
それでも、いつの時代でも、異端な存在というものは生れ落ちてしまう。
切ないが、それが俺だったということだろう。

世界は美しい。

暗闇の向こうに光があるから、光は光としての価値を持つ。
その逆も然りである。

価値とはそうして生まれるものだろう。
真に美しいという感覚は、
汚ない、という感覚を抜けた先に待っているものだと思う。
「私は美しいものしか愛さない」

それは自らの汚れや、世界の汚いものから目を背けているだけだ。
本当の美しさとは、おそらく、
奇麗なものも汚いものも、全てひっくるめた世界のことだ。

世界は本当に美しいのだ。
輝ける。輝いている。
どうしようもない醜悪さを、
醜いと言える間は、まだまだ大丈夫なんだ。
それは表裏で、醜くない存在が
まだそこにあるかもしれない、という提示なのだから。

電子怪奇読物 巻之参 「逆手」

「あんた、あそこに行ったのか!?」

その村の人は、俺が村はずれの小屋を訪れたことを知ると、
憤慨したように、突然話を終えて歩き去ってしまった。

「まいったな、そんなにまずい場所だったのか、あそこ…」

俺はフリーのルポライター、と言えばカッコもつくが、
全国各地を歩きまわり、かって気ままに思ったことを書き連ねるだけの、自由人だ。

俺がたまたま見つけた村はずれの小屋は、
立ち入り禁止の看板がたててあった。
俺は興味をそそられて、中を覗いてみた。
しかし、そこには本当に何もなく、
心霊スポットだろうか、なんて期待した自分が恥ずかしくなるくらい、
普通の廃れた小屋だった。

中の雰囲気から、そこは納屋のような場所だと推測できた。
窓もなく、小さな換気穴があるだけで、出入り口はひとつしかない。
だが、その周辺を散策しても人が住んでいたような家は、影も形もなかった。
それにさらに、探究心を刺激された俺は、
村の人から、あの小屋の話を聞こうと、話し掛けたところで、
村の禁忌に触れたことを知った。

誰一人として、答えようとしない。
この現代社会において、不自然なほどに、
村人があの小屋をタブー視していることが、
さらに俺の興味をそそった。

機械や科学に支配されようとする現代で、
未だに、伝統やタブーなんてものが存在する。
それは、本が一冊かけるほど面白いネタだ。
これを逃す手は無い。

俺は夜になってから、
もう一度村はずれの小屋を訪れることを決めた。

◇  ◇  ◇

そして、夜。
俺は小屋の前に立っていた。
しん、と静まり返った、藪の中にひっそりと立つ納屋のような小屋。
なるべく大きな音を立てないように、俺は戸を開ける。

ぴしゃり。
戸を閉めると、懐中電灯で部屋の中を照らす。
「何か、この納屋の正体を知る、手がかりになるようなものは…っと」
何かが足下に転がっている。

ゆっくりと照らす。
そこには縦長の太い棒状のものがゴロン、と転がっている。
確かに昼間は、こんなものは無かった。
俺は、何か嫌な予感に苛まれ、
小屋を出ようと戸に手をかけた。

ガタガタ ガタガタ!

「あ、開かない!?」

戸は、何かの力で押さえつけられているように、
硬く閉ざされていた。
俺はますます、恐怖に取り付かれて、
小屋の中に、他に出口になるような場所はなかったか、思い出そうとした。
しかし、俺が昼間に確認した通り、この小屋には間違いなくほかの出口はない。
この家には、出入り口は、このひとつしかないのだ。

「おい、誰だ!変ないたずらは止めてくれ!」

俺はついに、声をあげた。

「ああ、あんたかい」
すると、小屋の中から聞き覚えのある声がした。
懐中電灯で照らすと、
その人は、昼間にこの小屋のことを聴いた村人の一人だった。
先ほど、見つけた地面の影もこの人だったのだろう。
私は、ほっとすると、脅えていた自分が恥ずかしくなった。

「あ、あなたでしたか…どうして、こんな所に?」

「そら、きまっとろうが、罠を張っておったんじゃ」

「罠?なにか動物でも捕まえるんですか?」

「そうじゃ」

その村人は一息ついて、視線を小屋の奥へと送った
それについていくように、灯りをそちらに向けると、
数人の村の人と、床には縦長の棒状のものがいくつか転がっている。

「あんたらのような、人間を捕まえる為のな…」

一気に腰が抜ける。
床に転がっていた棒状のものは、
おそらく「人だったもの」だ。
そして気が遠くなりそうな中、村人の声が響く。

「機械や科学に支配された中に、こうして異分子を置いておくだけで、
向こうから飛び込んできてくれる。いい時代になったもんじゃ」

電子怪奇読物 巻之弐 「通話」

その日は、寒い冬の日でした。
年が明けてからは、数日ほど経っていました。
私は人ごみという所が苦手で、初詣には毎年少し日をずらして行ってたんです。
その日も例年どおり、人が少なくなった頃に、
一人で初詣に行くことを決めました。

私の住む町は、あまり雪の積もらない街でした。
降るには降るのですが、それもたまのこと。
けれど、その日は違っていました。
今年は記録的な寒波ということもあって、
私が生まれてからは、初めてと言っていいほどの豪雪が降ったんです。

何故、私が初詣に行こうとする日に限ってこんなに雪が。
と思いましたが、これなら絶対に人はいないだろうとも思い、
雪が降りしきる中、家の近くの神社へと向かいました。

毎年のことなので、いい加減神社の人も私の顔を覚えてくれました。
それにしたってわざわざこんな日に、と笑われましたが。
アルバイトの巫女さんたちも、その日に限ってはお休みでした。
それでも私は、例年のようにおみくじを引いて、
まだその中身を見ずにポケットに入れて、今年一年の祈願へと向かいます。

ガラガラと音を立てて、祈りを世界に届けます。
目を閉じて、その時は、肩に積もった雪や、
記録的な寒波のことなど忘れて、一心に祈ります。
祈り終わると、そっと目を開けて、社に頭を下げます。

普段は神様なんかに祈らないのに、こんな時だけ、
と思われるかもしれませんが、
私は、こんな時だけだからこそ、一年分の想いをこめて、
本当の祈りというものをした気分になれます。

祈りも終り、おみくじを開こうとポケットを探ると、
携帯が振動していることに気付きました。
手袋を外すと、寒気が沁みます。
急いで通話ボタンを押し、電話に出ると、
しばらく無言が続きました。

そして数秒間のノイズの後、
忘れることのない聴きなれた、
優しい「母」の声が私の名を呼び

「おうちに、お雑煮ぬくめておいてあるから、
 早く帰ってぬくもりなさい」

と、聴こえ電話はすぐ切れました。

私は 涙が とまりませんでした。
私の祈りは、届いたんでしょうか?

家に帰ると、誰もいないはずの台所から、
甘い匂いが漂ってきました。
間違いようがありません、いつか母が私につくってくれた、あの味でした。
母は天国から、私のために温もりを届けてくれました。

その日から、私の部屋には、母の写真と、あの日に引いたおみくじ
『末吉』「待ち人:再会できる」と素っ気無く書かれただけの、
なんとも言えない最高の日の証が飾られることになりました。

私の町に、記録的な寒波が押し寄せた日に、
私はこの世界で最も欲しかった本当の暖かさを貰いました。
あの日、携帯から聴こえた母の声のぬくもりを、
私は一生忘れることはないでしょう。

電子怪奇読物 巻之壱 「扉」

ひたっ ひたっ
   ズズ
 ひたっ  ひたっ 
 ズズ  
ひたっ   ひたっ   ひた…
    ズズズ      ズ…

履物を履いていないような、足音。
二本の足で歩いているような、規則正しい足音じゃない。
その音の後ろで、身体を引きずるような音。
音が部屋の前で止まる。

私は無意識に息を潜めた。
まちがいなく、そこには  なにかが  いる。

ぎぃ がたっ
  ザザ… ガサガサ

ドアが軋む。何かがノブを握って上手くいかなかったような音。
扉にはカギが掛かっている。
開くはずは  無い。
もう一度…

ぎぃ がたっ
  ザザ… ガサガサ
ぎぎぃ がたがたっ ギ ギ ギ ギ
 ザ! ザ! ガサガサガサガサ

間違いない。
この部屋を なにかが 開けようとしている。
私は本能的に、部屋の明かりをつけ、
テレビのスイッチを入れた。

深夜2時。
ブラウン管からは笑い声が漏れ、少しの安心感を得る。

突然テレビから人影が
「そのほうが はいりやすいんだよ!」

夜、人を呼ぶ

寝なければいけない。
そう思えば思うほど、睡眠からは遠ざかる。
頭の中に呪詛のように渦巻く言葉を紡ぐことで、
少しは落ち着くかもしれない。

目を閉じると、
まだ意味を持たない言葉たちが、頭の中でぐるぐると回っている。
その中から、俺は意味を掬い上げて、知っている言葉を描く。
知らない間に、あちらこちらから、
文字とも、声ともつかぬ、言葉以前のものが唸り声をあげてくる。

たまにそんな状況に放り込まれることがある。
怖いやら、心地よいやら。。。

静寂の中に、本当の静寂はない。
むしろ喧騒の中にこそ静寂はあるのではないかと思ってしまう。
大衆の中に自分という無意味な存在を沈めるほうが、
自分は何も考えず、ただ眠れるかもしれない。
静寂の中にあれば、言葉は渦巻き、呪詛のように祈りのように、
駆け巡っては消え、意味も無意味も霧散していく。
捕まえるように手を伸ばしても、つかめるものなど何もないから、
ただ夜の暗さと深さを知るだけ。

寄り添う相手を本当に求める夜とは、
こういう夜のことを言うのだろう。
孤独の先には、本当の孤独があって、
その先には、求めるべきものがあるのかもしれない。
でもその先には多分、また孤独も待っているのだろう。
ぐるぐる。

ローグギャラクシー クリア

バイトから帰ってきて、ローグギャラクシーを全クリした。
最後くらいは、面白いかなぁ、と期待していたが、
キャラクターに感情移入できるようなイベントはほとんどなく、
それぞれの言動や性格に統一性がない。
喋り言葉や、外見の造形だけで区別を作っているだけである。

それぞれには信念や、信じたいもの、認めたくないものや、
そういった人間性が欠落しており、
彼らが口にする言葉はすべて上辺で完結する。
キャラクターに本当に深みがない。
だからシナリオにも深みがでない。
どこかで見た設定やシナリオだろうが、
キャラが立ってさえいれば、それは純粋なエンターテイメントとなる。
なぜなら、人間が紡ぐストーリーは、人間そのものだからだ。

しかし、このRPGは人間をゲームとしての記号としてしか捉えていない。
だから、彼らの心の動きは安っぽく、本当じゃない。
そこに人間がいないから、多くの設定が水泡となり、
無意味な記号としての産物となる。

さらに無理やりなシナリオ運びには度肝を抜かれた。
後半の人間の魂が作り出すドラゴンボール的なものを集めるイベントでは、
偶然仲間に入ったはずの奴等が必要なんですと。
なんでたまたま同じ海賊船に乗り合わせた奴等が、
世界の運命を救うために必要な魂の数とまったく同じなんですか?
まったく意味がわからない。
もっと大きな仕掛けがあるのかと思ったが、皆無。
え?
誰かが運命を調整した、とか、そういうRPG的な仕掛け人みたいな人は?

ザ・ご都合主義。
小学生にも指摘されるであろう、酷さ。

これまで俺は、この作品は買う価値くらいはあるだろうと、
本当にそう思っていた。
しかし、あえて言おう
カスであると!

買うな。これは買うな。
なんとも酷いRPGだった。
日本人が書いたシナリオとは思えないほどの支離滅裂なRPGだった。
ラストの重要なセリフのところで玉木くんが滑舌グズグズやったし。
たぶん安いギャラで長時間拘束されて、やる気を失ったんだろう。

こうなってくると、悪いのは声優云々じゃない。
ゲームを製作した側に完全に問題があるとしか思えない。
最初からラストまで、一度たりとも心を打つシーンはなく。
戦闘は作業となり。
ダンジョンは苦痛でしかなくなり、
ムダに強いザコや、
普段使わない奴をむちゃくちゃ強いボス的な奴等と無理やり1対1。
正直、ラストに近づけば近づくほどやる気を失う、
前代未聞の脱力系RPGでした。

なによりシナリオと、キャラクターが悪いってのが、
本当になんの価値もないようにしてしまってる。
一応、面白いか、面白くないかは最後までやってから明言せにゃならんと思ってたので、
最後に言えてよかったよ。

バイトに噛み付く!

さて、これからバイトだ。
突然の緊急交代要請。
他に誰もいてないから、どうしても。
と、やけに切実に頼まれてしまった。

年末年始は丸ごと休みを貰ってしまったので、
無下に断るわけにもいかず、出陣。
軽鬱モードに突入気味なので、少々しんどいが仕方ない。

今日も今日とて、変態にバイブをおすすめする毎日だ。

苦労なんてしてまへん。

本日、母親に
「お前は何も考えずのほほんと暮らせて楽そうやなぁ」
と言われた。

ふむ。
おそらく、俺は多くの人からそんな風に見られているのだろう。
俺は他人との会話を笑顔で乗り越えることが多い。
それに、他人から見れば「どうでもいい」ようなことを考え、
それに対し腹を立てたり、眉間に皺をよせたりしている。
よほどヒマに見えることだろう。

常にヘラヘラとヒマにまかせて、どうでもいいことを考えている奴。
恐らく、これが多くの人から見た俺の記号だ。
それを間違っているとは言わないが、なるべくならそんな浅い見方はやめて欲しい。
俺を浅く見るな、といってる訳じゃない。
どんなことがらも、そんな風に浅くとらえ、
せっかくの世界を狭く観てしまわないで欲しい。

他人の前でも常に眉間に皺を寄せて物事を考えている人間は、
利口に見えるかもしれない。
東京大学を出た人間の「うーん…」と考えている様子と、
ひきこもりが部屋の中で「うーん…」と考えている様子なら、
ひきこもりは何も考えていないように見えるかもしれない。

でも違うよね。
俺なら、部屋の中では眉間に皺を寄せて物を考えていても、
他人との会話では、眉間の皺をほどき、微笑みを称えれるほうが、
はるかに優しく、賢く、苦悩を知っている人間だと思う。
苦労とは、人に見せるものでも、
ましてや自慢するようなものではない。

「君は苦労がなさそうでいいね?」

他人からそう言われれば、俺は喜んで、はい。と答える。
そう見てもらえるということは喜ばしいことだ。

「苦労してそうな顔やな」

と言われるより100倍も1000倍もいい。
でも、両親くらいには、わかっていて欲しかったと思うこともある。
まあうちの両親はあまり頭が良い方じゃないから、
そんなことを理解できる人間じゃないと分かってはいるが、
それでも少し寂しかったのは事実だ。

苦労なんてものは、人間がこの世に存在した時からついて回るものだ。
誰だって苦労するし、誰だって苦悩する。
苦労自慢や、苦悩自慢。
競いあったら、人が引いてしまうくらいの経験も、
探せばそこらじゅうに転がっている。
だが、だから何だって言うんだろう?

苦労したり、苦悩した人間が偉いのだろうか?
もしそうなら、誰もが他人に苦労や苦悩をひけらかすだろう。
そんな世界に誰が住みたいの?

そんなクソみたいな、世界だったら、
クソみたいな理由で世界から逃げて死んだ人間が一番偉くなってしまうんだ。
苦労や苦悩を他人に労って欲しいのなら、
はじめから苦労や苦悩などしなければいい。

本当の輝きは、そのすぐ側にあるのに。

強い人。

最近、だんだんバンドのメンバーと一緒にいる時間が増えてきたのだが、
これがすごくいい。

そりゃ、知り合いたての頃はシャイボーイだった、
もとい、今でも
(輝く)シャイニング(ボーイ(ing)なのだが、
それにしたって知り合った当初よりは、
一緒にいても気を使うことが少なくなった。

会話において、ストレスを感じることが、まあない。
いや、腹たつことはあるが、それは腹痛いのと同時炸裂なので、相殺され気味だ。
面白いだけじゃなく、多くのことを考え、
さらに自分という基準を置いて物事を見る人間たちなので、
それが俺は非常に嬉しい。

高校の頃でも、面白い人間はいたし、今でも付き合いはある。
その頃の彼らは、俺から見ても、多くのことを考え、
自分という基準で世界を見ていたと思う。
しかし、大学や、専門学校、社会という場所に飛び出し、
新たな価値観や、自分という基準がないがしろにされる場所に出会い、
少しずつ成長を止めていった。
それはもう間違いがない。かなしいことだが。

ただ自分という存在を持続させているだけ。
毎日を過ごせば、考えるべきことに多く出会う。
それについて、考えようとしなければ、
もうそれは昨日までの自分でしかなくなり、
果てには自分という存在が自分にとって何であったかなど、
本当に些末な問題になってしまうのだ。
それはだめだ!
絶対だ。

社会と自分との関係が当たり前になり、自分という存在が、
そこに存在するのが当たり前になる。
そうして、それまでの自分という価値基準で、
様々なものごとを、当たり前のように判断し、
考えるという作業工程を省いてしまうと、
それまでの自分にすがりすぎて、その自分が当たり前になった時、
その人の成長はそこで止まるのだ。

新たな価値観を得るということではなく、
その物事を、自分という基準で、しっかりと考えるという事が必要だ、ということだ。
すっとばして、物事を捉えてはいかん。

「そんなん考えて何の得があんねん」

自分に、世界に、対し代価を求めるのは本当に馬鹿げている。
あなたがその歳になるまで、それは当たり前の作業工程だったはずだ。
なぜなら、そうしなければ毎日は乗り越えられないものだったからだ。

自分が何もしなくても、世界は廻るし、
自分が何もしなくても、誰からも馬鹿にされない。
そんな世界に浸ってしまったから、彼らは成長を止めてしまったのかもしれない。
最近、ほんとうにそう思う。

だから、俺は、毎日に緊張感を持ち、それゆえに弛緩し、
自らの世界を持ったこのバンドメンバーが好きだ。
そして、彼らの中の世界も、彼らと同じように、
様々な出来事や、毎日を経て、変質していく。
徐々に、時に急速に。

もちろん、趣味趣向が違ったり、細かく考えていることは結構違ったりする。
しかし、人間としての骨格が似通っている。
言うなれば、姿勢だ。
世界や社会や自分に対する姿勢が、似ている。

俺はこういうのを仲間というのだろうと思っていたりする。
仲のいい知り合いや、友人とかとはまた違う。
たとえば自分が友人と呼べる人間だと思っている人間でも、
俺と姿勢が似ているとは言い難い。
俺にとって、好きという感情はそれとはまた別の所にあるのだと思う。
まあ最低限のレベルをクリアしているからだとは思うが。
でも、その友人も、仲のよい知り合いも、
仲間や家族がいてこそなのかもしれないと思う。

落ち着き、安心できる場所として、彼らが居てくれる。
それはすごく嬉しいことだ。

木と道

睡眠という混沌とした現在の集合を抜け、
今日という日は根となり、振り返る道となり、遠大な昨日へと繋がっていく。

明日という不明瞭で、真っ暗な光に満ちた場所は、
目覚めたときに今日になる。
今日という木に水をやり、今日という道を明日へと繋げてくれる。

明日は永遠に明日でありつづけ故に、真っ暗で、光に満ちている。

アニソンきいちゃいな!part5

はいアニソン5です。ジャクソン5みたいな感じで言ってみました。

鈴木結女 / それでも明日はやってくる
忍空のEDの曲。
ハスキーで深いトーンの彼女の声は、中性的な印象を与える。
このあたりの曲っていうのは、俺くらいの年代には懐メロ的感覚もあるので、
聴いていて非常に心地よい。
なんといってもアニソンに重要なのは、作品と合っているかどうかであり、
この曲はそういう意味でも、すごく良かった。
特に忍空は漫画版とは全く異なるアニメだったので、
さわやかなイメージを付け加えることに成功したのは、
こういった楽曲のおかげであったと思う。

高橋ひろ / 太陽がまた輝くとき
幽遊白書のED曲。
面白い雰囲気の曲で、俺は毎週アニメ本編とこの曲を楽しみにしていた。
高橋ひろの歌い方は相変わらずムカツクが、曲はやっぱり良い。
カラオケに行くと歌いたくなってくる曲のひとつ。
先日、高橋ひろ氏が亡くなられたらしい。しょこたんブログで知った。
ご冥福をお祈りする。

吉幾三 / ゲゲゲの鬼太郎
リメイク版ゲゲゲの鬼太郎のOP曲である。
ゲゲゲの鬼太郎は何度もリメイクされているが、
俺はこのOP曲のバージョンが最も好きだ。
「お前の背中に…ほら、よく見てみろ。おばけが… あっ!!!」
というセリフまで入れて、子供をビビらせるサービス付き。
アレンジがカッコイイなぁ。

ああ、早く風呂に入りたい。

文章書くのが調子いい日っていうのがあるんですが、
どうやら今日がまさにそれのようなのです。

風呂の湯沸しボタンを押したのが、3時半頃。
沸かしている間に、ブログでも更新するかと、
パソコンの前に座ったのが運の尽き。
ひっきりなしにタイピングが進み、時計を見たら5時前。

ちょっと焦った。
まあ卒論も終わって、時間に追われるということがなくなったので、
ちょっとくらいの無茶は全然問題ないけどね。

まあそれに書くほうがどれだけ調子よくても、
読む人にしてみたら、案外読みにくいっていうことも良くあること。
俺は読みやすいものを提供しようと思ってこのブログを始めたわけでもなし、
それはそれで全然いいと思っていますが。
たまには、読みやすくて、わかりやすい文章も書きたいと思うこともある訳です。

なぜなら、本当に伝えたいことは、
わかりやすくしてでも、相手に伝わって欲しいと思うからです。
自己表現の場合は、複雑怪奇にして、誰も理解できないような、
小技やら、遠まわしな言い方やらを使って、やってもいいんだけど、
本当に伝えたいことは、分かり易い言葉の方がいいかな、と思うこともあります。

まあそれは日によってかわりますけどね。
理解しようとしない奴には、どれだけ簡単な言葉で伝えても、
本当に伝わって欲しい肝の部分なんか伝わるはずがない。
と思う日だってある訳ですから。

ああ、また知らない間にタイピングが進んで、結構書いてしまった。
風呂に入らなければならないのに…

今日はバブを投入して、心地よい香のなか読書を楽しむという、
田園調布ばりの優雅な一時を演出しようと思っているのに。
あ、バブちゃうわ、バスクリンや。
今日はバスクリンを投入して、心地よい香のなか読書を楽しむという、
田園調布ばりの優雅な一時を演出しようと思っているのに。
あ、田園調布ちゃうわ、奈良やから学園前や。
今日はバスクリンを投入して、心地よい香のなか読書を楽しむという、
学園前ばりの優雅な一時を演出しようと思っているのに。
あ、読書ちゃうわ、コサックダンスや…

笑い好きになった理由。

最初、お笑いが好きなった理由は単純明快。
自分が関西の人間だったからだ。
学校から帰ってテレビをつければ、よくお笑い番組がやっていた。
漫才、新喜劇、落語、コント、企画、本当に色々やっていた。
子供ながらに、世間では関西はお笑い大国だという評価に自信を持っていた。
だから小学校の頃から、本当に色んなお笑い番組を見た。
小学校の頃は、遅くても12時くらいまでしかテレビを見ている時間はなかった。
とんねるずの生ダラを見おわったら、眠くなり始めていた。

中学校になると、深夜の番組にも手を出し始めた。
ちょうど、関西ローカルのすんげーベスト10が全盛期になり、
千原兄弟が筆頭となり2丁目劇場に大旋風を巻き起こしていた時期だ。
すんげーは必ず毎週見たし、若手が集まってやっている番組は網羅した。
思えば、この頃から、俺は本当にお笑いが好きになっていたのだと思う。

ずーっとそういう番組を見ていた、ということも原因のひとつだが、
小学校の頃、自分が何の気なしに発言したことで、
教室が爆笑になったことがあった。
本当に、お笑いが気持ちいいことだと実感したのは、それからだった。

そして中学校で、確実にお笑いに目覚めた。
面白いことを言いたいと思った。
でも、その頃になると周りにもそういう人間が増え始めていることに気付く。
俺は、みんなが面白いことを言いたいとボケあうだけでは、
絶対に面白くならないと知っていたから、必死にツッコミを練習した。
なるべく切れ味のある、ツッコミがいいと、
子供ながら試行錯誤して、色々と試した。

高校に入った頃にはお笑いにどっぷりだった。
見事に自分の一部になっていたのだから、驚きだ。
自分は自分の望むまま、色んなことを吸収し、練習した。
そうして、今の笑い好きの自分がある。

こうして思い返してみると、俺のお笑い好き元年は小6か中1くらいだった。
今は大学の4回生。
小6から数えても、お笑い好き歴10年ほどである。
まだまだ、全然お笑い好きとは言えない。
21年分の10年。だから、今の段階で約半分。
歳をとればとるほど、比率が高まっていくという最高クオリティ。
いい事だ。

ちなみに、子供の頃は、関西がお笑い大国であるという評価に自信を持っていたが、
今ではクソ喰らえだと思っているので悪しからず。
まあ「ダイナマイト関西」や「M?1」や「オールザッツ漫才」のお客さんは、
いいお客さん多いけどね。
笑うために貪欲な人間は最近は意外と減ってる気がする。

こわいもの

あなたのこわいものを教えてください。
さて、この質問でいくつかこわいものを頭に思い浮かべてください。
思い浮かべましたか?

実はこれを聞くだけで、
日本という国がどれだけ幸せなレベルにいるかが分かるのです。

地震、火事、おばけ、ジェットコースター、親父、ヤクザ、ヤンキー、
津波、台風、クマ、殺人鬼etc

まあ大体このへんでしょうかね。
これは、まだまだ日本が平和であるという証であると同時に、
危機感のない国だということの露呈であると思っていただきたい。

世界には「こわいものはなに?」と問われて
「地雷」と答える国がいくつもあります。
日常の傍らに、「死」が埋まっています。
友人が、カチという音に足をとめ、助けを懇願するように自分を見つめます。
何もしてやることができません。大人を呼びにいきます。
再び戻った時には、立っていることができなくなった友人が、
爆風で肉片と化しています。
埋めてやろうにも、彼の痕跡はありません。
肉片の回収にだって、地雷の危険は伴います。

「飢餓、貧困」と答える国がいくつもあります。
明日を望むことすらできない、時が止まってほしいと切実に願う現状があります。
明日の訪れは、すなわち、愛する者の死が近づくことです。
冷たい空の下、ぬくもりもなく、餓えて愛する人が息絶えます。
忌むべき毎日を、それでも生きる為に、乗り越えなければならない。

俺たちは「当たり前の毎日」という価値基準に甘えすぎている。
俺の友人は、飢餓の国は甘えている。と言った。
日本は敗戦しても頑張った、だから今の日本がある。と。
それはそうかもしれない。
けれど、それは頑張った人々が言う言葉であって、
我々が口にして良い言葉ではない。
「あいつらが頑張らへんのが悪い」と言ってのけた。
では、問おう。
自分の父が、母が、兄が、妹が、姉が、弟が、
明日死ぬかもしれない。自分自身、明日死ぬかもしれない。
それで一体、何を頑張れというのだ?
勉強をするのか、明日死ぬかもしれないのに?
田を耕すのか、死んだ大地で?
飢餓や貧困が当たり前の国では、頑張ることができる人間ですら、
選ばれた一部の少数の人間でしかありえない、ということだ。
そんな現状の国の人間が、頑張るチャンスを与えられ、
頑張らないわけが無い。
それでも変えることのできない現状が、続いているのだ。

地雷もなくならず、飢餓も貧困もなくならない。
それどころか、戦争は続き、さらなる地雷と飢餓を生む。
それでも肥えた国は、さらに富を求めるのだ。
醜悪そのものだ。

俺は、この「世界」がこわい。

不安

自分が追いかけているものが、見えそうで見えなくて、
結局歩いているだけになっている。
時折姿を見せる、夢のかけらは、昔とは姿を変えてしまった。
身の程を知ったのか、新しい夢に魅力を感じたのか、
最初の夢に魅力を感じなくなったのか、なんなのかわからない。
それは本当にわからない。

夢とはなんだろう?
淡く滲んで消えていくものだろうか。
決して消える事無く、輝きを放つものだろうか。
おそらくそのどちらでもあり、どちらでもない。

歳をとればとるほど、「成る」ということに重要性を感じなくなってくる。
漫才師になる、落語家になる、ミュージシャンになる、小説家になる、
作詞家になる、旅人になる、宇宙飛行士になる、教師になる。
全て一度は意識したことがある。
けど、俺はこう思う。
どれになったところで、俺という人間が最終的に辿り付く場所は同じだ。
過程が違うだけだ。
社会的になせることは変わってくるし、外からの評価も変わる。
けれど、本当に重要なのはそういう外的部分ではない。

自分が何になり、何を成すかよりも、
俺が何を考え、何を思い、何を愛し、何処へ至るのかが、
俺にとっては今、最も重要なことなんじゃないかと感じている。

そういう意味では、フリーターであろうが、総理大臣であろうが、
殺人鬼であろうが、テロリストであろうが、僧侶であろうが、
俺にとっての答えは、変わらず、変質しつづけ、どこにでも存在する。

追いかけているものは見えなくてもいい。
歩いているだけでもいい。
何処にたどり着いたとしても、自分が自分自身として、
あるがままにそこにたどり着いたのなら、
そこが、目も当てられないような世界だったとしても、
俺は俺に満足できるだろうと思っている。

「なんとかなるだろう」という言葉には、
不安と安心が入り込んでいて面白い。
そしてその可能性の出発点なら、自分を限定しなくていい。

だから俺は、なんとかなる世界に生きていられる幸運を噛み締めている。
今はそれだけで充分。

ローグギャラクシー。

ローグギャラクシーはね。普通。
操作性はね、あんまりよくない。
シナリオはね、どっかで見たことあるのばっか。
システムはね、どっかで見たことあるのばっか。
キャラクターはね、どのキャラも立ってない。どっかでみたことあるキャラばっか。
壮大さはね、皆無。宇宙って狭いんだね。
戦闘はね、まあまあ。
ダンジョンはね、ムダに長い。
映像はね、すごいキレイ。でもドラクエ8の方が世界は広かった。
声優はね、やっぱり声優じゃないとダメだった。
上戸彩はね、上戸彩がしゃべってるだけ。
玉木広くんはね、滑舌わるくて、声の演技はブリ大根ぶり。
おもしろさはね、60点くらい。
コスト面ではね、我慢できるレベル。
悪いところをね、修正して、もっと良いシナリオライターと宇宙の広さを表現すれば、
限りなく100点に近づくの。
戦闘はアクション性をもう少し高くして、
キャラクターの魅力を出すには、何かの真似をするのじゃなく、
独自の色を持ったキャラを作る。
例えばベタと思われる、勇者みたいなキャラクターでも、
性格や、バックボーンを上手く設定に組み込むだけで、かなり新鮮になる。
あと、戦闘中に装備変更を簡単にできるようにしないと、
折角快適に戦闘に突入するのに、まったくテンポが良くないと感じてしまう。

要するに、この作品の良いところは、映像。ってことだね。
悪いところは、その他ほとんど。ってことだね。
なんというか、どの部門においても詰めが甘い。
詰め甘RPGと認定してあげよう。
面白くないことはないが、特別おもしろい作品でもない。
映像の悪いスーファミ時代にまったく同じシナリオで発売したら、
誰もが見向きもしない恐るべき作品になったであろうことは間違いない。

もっと良い監督、シナリオライターを使わないと、
物語の骨格や、キャラクターの行動理念の設定があまりにも弱くて、
はっきり言って、かなり冷めてしまう。

如何にも会議で、紙の上で作り上げましたって感じの作品。
金もかかってるし安全にコスト回収できる作品を作ろうとした感が強い。

ローグが「俺は宇宙に行く!」と某めざせ海賊王よろしく、情感たっぷりに言っているから、
さぞかし宇宙を舞台にした、壮大なスペクタクルを見せてくれるのかと思いきや、
でてくる惑星は少ないわ、惑星一個につき街は1?2個で
ダンジョン1個くらいの、なんとも閉塞的な惑星ですこと。
と泣きたくなるほど、グランディアエクストリーム感丸出し。

ひとつのダンジョン攻略にようする時間は、3時間から5時間。
・・・な          が           い
そして、同じ風景ばかり、同じ行動の繰り返し。
ダンジョンの謎解き考えるのがそんなに鬱陶しかったのか!?
と聞きたくなるほどダンジョンの楽しみがない。
結局ダンジョンにしたって、これまでのRPGと違うところは、
美しい映像と、複雑怪奇な形くらいである。
そして複雑な形のダンジョンは、最初は新鮮だが、
進めど進めど、同じ風景で、自分の位置が曖昧になり、
慣れれば慣れるほどストレスを感じる仕様になっている。

文句をあげだすとキリがないほど、詰め甘RPGです。
でも6000オーバーくらいの価値はなくもない。

歌詞鑑賞 スピッツ / チェリー

昨日の夜、大学の友人と酒を飲みながらあれこれと話す。
その時に、俺がBUMP OF CHICKENのロストマンの歌詞は、
高村光太郎の道程に通じるものがあると主張。
高村光太郎の道程、という作品は、
私という現在があり、その私が未来という道なき道を切り開くことで、
私が歩いたあとにできる過去という道との途方もない道程を歌った詩である。

それがロストマンでは、現在の象徴である主人公は過去をロストすることで、
未来へと進み、現在と未来の関係だけを道だと捉えていた。
過去を捨て前に進む、しかし前とは未来の象徴、道なき道である。
振り替えろうにも過去はない。自分の現在地がわからない。コンパスは動かない。
しかしロストマンの主人公は過去をとりもどし、現在地を知る。
そうして高村光太郎の道程へと繋がっていく、という歌詞である。
言うなれば、道程への道程だったという訳だ。

と、そんな話をしていて面白いなぁと盛り上がっていた。
それで、他にも何か歌詞を読んでみようという話になって、
なぜかスピッツのチェリーを読んでみることに決まった。

「君を忘れない まがりくねった道をいく」
君を忘れない、という歌詞から「君」は過去の象徴であると読める。
まがりくねった道、とは定まりのない道のこと、
つまり現在から未来への道である、と読めないだろうか。

何行か進んで、
「二度と戻れない くすぐりあって転げた日
きっと想像した以上に騒がしい未来が僕を待ってる」

もうここまで読むと疑い様もなく、過去、現在、未来構造が浮き彫りとなってくる。
「二度と戻れない?」の部分はまさしく過去の象徴としての歌詞。
想像した以上に騒がしい未来は、そのもの未来。
僕とは過去から未来へ向かう、現在の象徴である。


さらに進んで
「どんなに歩いても たどりつけない
心の雪で濡れた頬
悪魔のフリして 切り裂いた歌を
春の風にまう花びらに変えて」
どんなに歩いても たどりつけない、という歌詞は、ゴールのない未来への道。
途方もない遠さのことを言っている。

「心の雪」とは、冬の象徴、覆い隠すものの象徴、冷えた心と言ってもいい。
しかし同時に雪とは、溶けるものの象徴でもある。
冷え切ったと思っていた心も、いつしか溶けて、雫となる。
雫が頬を濡らす、すなわち涙である。
過去(君)を凍らせて、その凍らせてしまった心を冷えきってしまったと感じていても、
いつしか雪はとけ、再び雫となり頬を濡らす。
このたった一行の中に、過去から現在への主人公の感情の動きが詰め込まれていて、
さらには、季節を時間の流れを表す分かり易い表現として使っている。
恐るべき作詞能力である。

そんな背景を持つからこそ、サビの「君を忘れない」という部分の説得力が倍増する。
単純な安っぽい文句ではなく、本気の言葉にする為の重要な流れだ。
悪魔のフリして、切り裂いた歌とは
そういった「君を忘れない」という、
凍らせてしまった過去への安っぽい文句を歌う自分の自己批判であろう。
まがりくねった道を越えて、現在に立っている自分は、
もう過去との因果は断ち切られてしまった存在であると、
チェリーの主人公は思ってしまったのかもしれない。
だからこそ「君を忘れない」というフレーズが彼にとって、
重みの無い言葉に化けてしまった。自分の歌を切り裂きたいほどに。
しかし、彼の中の雪はとけたのだ。過去を覆っていた雪は溶け、
「春の風に舞う花びらに」変わるのだ。
時間の流れの中で、未来で、過去に出会ったのだ。

現在に立つものの、途方もないもどかしさが、
辛さを知り、そして再び過去と現在と未来という因果関係を取り戻すことで、
その一連の流れの本当の深い意味を知ることとなる訳である。

そうした中で歌われる「君を忘れない」というフレーズはもはや、
安っぽい文句になど成るはずがない。
「いつかまたこの場所で 君とめぐり会いたい」
いつか(未来)また、この(現在としての自分)場所で、君(過去)とめぐり会いたい。
そうして過去と現在と未来のなかで、すでにこの主人公は何度も過去に会っている。
雪がとけ、春になる。
過去と未来を結ぶ現在に立ついつだってウブな自分の重要性は、この歌詞の中で浮き彫りになっている。
そのウブな主人公のことを、草野正宗は
俗的な言葉でチェリーと呼んでいるのかもしれない。

そして
その俗的なチェリーという呼称は、正確に言うならば「童貞」のことである。
これ即ち「道程」とも掛かっている言葉であると考えない訳にはいかなくなった訳だ。

深夜、ここまで考え至った時。
二人で発狂しそうなほど興奮を覚えた。
読み解けた自分たちの達成感とあわせて、
草野正宗の描く歌詞世界の奥深さとタイトルをつけるセンスの冴えにである。
この鑑賞が正しいとは思わないが、
この歌詞がもつ本質の一端は捉えることができたのではないかと考えている。

チェリー → 童貞 → どうてい → 道程

M-1 出場コンビが決定。

M-1の出場コンビが決定した。
出場八組は以下のとおり。

・笑い飯
・アジアン
・南海キャンディーズ
・チュートリアル
・ブラックマヨネーズ
・品川庄司
・タイムマシーン3号
・麒麟

頑張って欲しいと思っていた
チュートリアルとブラックマヨネーズが決勝に来てくれたのは無茶苦茶うれしかった。
特にチュートリアルは漫才を諦めた感さえあったので、
ここで本当の底力を見せて欲しいと思う。
客を諦めないで、自分の笑いを信じてやってほしいコンビやなぁ。

優勝候補は麒麟かな…
トリ手前ってのが結構キツイネタ順なので、インパクト重視の漫才か、
自分たち本来の漫才か、どちらでも勝負をかけ難い辛いところ。
しかし、実力に関しては折り紙つき。充分優勝できる実力があると思う。
アジアンは当たり外れは激しいが、面白い漫才のできるコンビなので、
実力を発揮して欲しいところ。
ブラックマヨネーズは掴み以外でハゲ、ブサイクネタを多用するのが怖いか。
ネタだけで勝負して欲しいところなんだが、
如何せん空気作りを優先しがちなコンビなので、そこが弱みかも。
品川庄司とタイムマシーン3号に関しては、
あまり漫才のデータがないのでなんとも言えないが、頑張って欲しい。
南海キャンディーズは今年はテレビの仕事は順調だったけど、
漫才の進歩が心配されるところ。
今年のM-1は去年と同じじゃない所を如何に上手く見せられるかが勝負かな。
まあ大丈夫だろうと思わせる底力はあるコンビだと思う。
そして、笑い飯。
今年も優勝を逃しそうなネタ順である。
毎年出場というのは尋常じゃないが、期待値が上がりすぎるのも困りものである。
そういう意味では去年のネタの大失敗は良い効果を及ぼすか?

という訳で、年末は「考えるヒト」の特番がなくなってしまったので、
M-1では感動したいと思っています。
正直、毎年M-1だけは見てて泣きそうになってしまいます。

ネタだけが笑いを表現する全てではない。
漫才だけが面白さを決める基準ではない。

だからこそ、そのネタに、漫才に、全身全霊で挑み、
笑いを表現しようと、面白さを競おうとすることは、
感動を生むではないか。

そこには消耗品じゃない貴重な笑いがある。

音声ブログ更新情報。

オフィシャル : [Ghost Notes Official Site]
ボイスブログ : [徒然THE談会]

昨日ボイスブログを録音しましたとさ。
2個更新しましたとさ。

RED 19巻

村枝賢一のREDが完結した。
恐らく、彼の漫画の中でも最も異端で、最も彼らしく、
最も壮大な漫画だったと言いたい。
漫画は、フィクションを作るものであり、
我々はそのフィクションを楽しむという前提で成立している。

しかし、REDが取り上げたテーマは重く、
わが国とも関係の深いアメリカの侵略の歴史を描いている。
そして偽りの正義が必要になった経緯を彼なりの視点で描ききり、
アメリカという国に息吹を与えた。
アメリカの根底には、罪があり、贖罪があり、
そして嘘があり、それでも祖国を愛し、より良くしたいと願う、
どの国とも変わらない、人間たちが過ちを繰り返しながら、
紡いでいく歴史がある。
わが国も変わらず、どの国もそうである。
巨大か、そうでないかこの際問題ではない。
どの歴史でも、必要なのは人の心だ。

国を愛さない国民はいないし、
大地を愛さない民族もいない。
侵略の歴史は、彼の国だけが背負った業ではない。
人の世が紡がれてより今日。
どの土地にも、どの民族にも、どの国にも、
目を覆いたくなるような、愚かな歴史は存在する。
そしてそれを良しとしない、者もしかりである。
大地なくして人は無く、人なくして民族は無い。
民族なくして、国などありえるはずがない。

愚かでも前に進まなければならないのは、
そこに人がいるからだ。

願わくば、微笑みによって紡がれる世界を。

GhostNotes音声ブログ

ついに、我等がバンドGhostNotesの音声ブログが始動いたしました。
結構ながいですが、序盤だけでも是非きいてみてやってくださいまし。

http://www.voiceblog.jp/ghostnote/
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