あけぼのタイム、まさしく狂気が目覚める瞬間。
貧乳でもよくなってしまうような、異様な空間が支配する絶対時間。
「おい、計画は順調か?」
「じぶんそれ、しょっちゅう言うてるな」
「え?」
部下にこんなこと言われるマフィアのボス萌え。
「これは人類にとって大きな一歩だ。」
「あ、ごめん最後のほう聴こえにくかった、もっかい言うて。」
「…いや、もうええわ」
管制官にこんなこと言われるアポロ宇宙生中継萌え。
「ゾ、ゾンビ、だーーー!」
「いや、なんで語尾の音があがんねん、ゾンビや!」
「ふーん( ̄ε ̄)」
スポンサーサイト
今日はアルバイトですた。
4時間労働です。
前半と後半にわかれてて、後半の場合は4時間。
深夜手当てのようなものはありません。
俺のバイト先はその立地条件のせいから、
かなり多くの異星生物から侵略されている。
今日だけでも俺はかなりの数を葬った。
オズ・ルベゥラィ(日本語に変換するとコオロギ)2匹。
ゼジョジョジョ(ゴキブリ)2匹。
オトン(バッタ)1匹。
スプルギルモ・セドリカーナ・エスシセサソテオドラ(蚊)約15匹。
客のいない孤独なコスチュームプレイジャングルを、
大量殺戮兵器ゴキジェットを持ち、
勇猛果敢に駆け回る俺の姿はカッコイイの一言。
気が付けば店の床が
そのゴキジェットの霧噴射のせいでテカテカに輝いていた…
しかし俺はえも言われぬ達成感に包まれていた。
心地よい疲れに包まれ俺は額を濡らす汗を拭いながら天井を仰いだ。
そこには…
ガ(蛾)が一匹!
どうやら俺の戦争はまだまだ続きそうな按配だぜ!
言霊とはどういったものなのだろうか。
神話を原典とする例をとれば、
神が知恵の実を禁断の果実としたのは、
人が言葉から世界の真理を見てしまう可能性があったからかもしれない。
なぜなら真理とは真の理(ことわり)なのだから。
そして真理とは、まさしく神へと至る道「神理」であろう。
理とは「ことわり」。
すなわち「言割」である。
言を割ることで、真理の一端が見えるということを、
すでに言葉の方から教えているのである。
それは日本語だけに限ったことではないだろう。
世界中の言葉は、
共通の源泉から言葉というものを汲み上げている。
それをこの大地からだという人もいるだろう。
海からだという人もいるだろう。
宇宙からだと、銀河からだと、遺伝子からだと言う人もいるだろう。
それらはすべて、その混沌とでも呼ぶべき源のことである。
そして考えつづけることができる。
永遠の欲求の対象がそこに存在している。
言葉と共に生きる我々が、言を割り続ければ、
いつか真理という存在、混沌のような、神のような、
そういった存在の理解への糸口になるかもしれないのだ。
科学ではたどり着くことが出来ないかもしれない。
少なくとも科学という見解から、
言霊を解明できるようになるにはあと数千年、
ヘタをすると数億年規模で時間が足りない。
しかし言葉なら、真理の一端にたどり着ける可能性があるということ。
トンボはお盆になると、
人の魂を乗せて帰ってくるという考え方が日本にはある。
そして「とんぼ」は漢字で「蜻蛉」と書く。
虫に?(青の旧字)と、虫に令と書く。
?と令、音読みをすればセイとレイ。
「セイレイ」つまり「精霊」。
俺はこの漢字が、いつごろトンボに当てられたのかは知らない。
けれど言葉にはそういう不思議な偶然というものが存在する。
それは言葉というものが、目には見えない源泉から
掬い上げられるからこそ、生まれる偶然なのではないだろうか。
名前、というものは往々にして、
何らかの真理を内包しているものなのだ。
決して自分でつけたわけでもない、
自分の名字や名前にも、
自分自身を表すような心理が隠れているのだ。
それは間違いなく。
単純に性格をあらわしているだけかもしれない、
その人が辿る未来を挿しているかもしれない、
他人に与える影響を表しているかもしれない、
なにかはわからないが、名前というものが、
この世界に具象してしまった時点で、
それにはもう命とでも言うべき魂が乗っている。
人間とはどういった存在なのだろうか。
最初に浮んだ疑問である。
それらを言葉で考え、言葉を忘れ、
言葉を割って、
言葉の中から、言葉の外から、
理解に至る糸を手繰り寄せれば。
人間とは決して言葉を使役しているのではなく、
言葉と共に、生きることを選んだ存在なのだということ。
それをまず理解しなければならないんだと気付いた。
人生にレールなど存在しない。
だけど自分と異なる経験を持つ他人ならそれを錯覚させてくれるのだ。
親や、レールを示す役割を持った人生の経験者達は、
曖昧模糊たるこの世界の乗り越え方のいくつかを知っている。
だから。その経験を知ること、それ自体は大切なことではある。
しかし、世界はどうしたって、同じ時間を与えてはくれない。
例えば、幼少の頃から全く同じ育て方をして、
奇跡的に全く同じ能力で全く同じ性格の人間が2人できたとしても、
社会においては、天と地ほどの差が生まれることがある。
もちろん大抵はそうならず、似たような境遇に落ち着く。
まったく違う能力を持つ人間同士でも。である。
それは努力や狡猾さや頭の良さや才能で選定されない。
すごく茫漠とした言い方をするなら、
それは運命とか因果とか、そういう類の言い方が正しい。
より多くの経験を持つ人の言葉というのは、
真実を告げていることが多い。
けれどそれは、その人が経験した世界においてのみの真実だ。
まったく同じルートを辿ったとしても、
その人と同じ人間になることはできない。
そんなことは皆わかっている。
だから皆、自分独自の頑張り方や生き方を探す。
それが他人の模倣であることもあるし、あってもいい。
けれど、
そうした所で成功する人間と成功しない人間を、
努力とか才能とは無縁のところで世界は選定している。
成功した人間に努力家や才能がある人間が多いのは、
成功できるレベルまで到達すること事体に
努力や才能が必要となるからだ。
一切努力せず、才能もない人間が成功するというのは
実際、本当に希なことである。
それでもそれだけ努力や才能があっても、
ほんの一握りの中に選ばれなければ、
社会的な視点の中ではその他大勢の中に埋もれてしまうのだ。
社会とはそういう所だと理解しているのに、
人生の先輩や、成功者の意見などを聞くにつれ、
その人の言うとおりにすれば、
自分も同じレールの上に乗れるのではないか。
と錯覚してしまうことが往々にしてある。
そうして成功すれば、
「やっぱりレールを存在する。」という意見に変わり
失敗すれば、
「人生にレールなんか存在しない。」という意見に変わる。
二元論である。
結局、事象の結果如何によってのみ、
価値観が決まるということはよくある。
もちろん、少し考え方の違う人なら
成功した過程での経験で「レールはなかった。」と感じる場合もある。
結局そういう曖昧模糊な世界で生きているのだ。
ただそこにどんな価値観が存在しようとも
人生にレールは存在しないのだ。
あるのは運命という、やはり曖昧模糊なものでしかない。
その一握りの運命を手にする為に、
努力し才能を磨けば、そうしない人間よりはるかに、
その可能性に近づくことができるというだけ。
それが限界なのである。
ある人はそのことをレールと呼ぶかもしれない。
しかしそれは違う。
それは人生のレールではなく、社会のレールである。
人生とは社会のみに属することではないと俺は信じる。
それではあまりに人間の価値は希薄ではないか。
社会で生きるだけが人間であると決め付けるには、
人間という種はまだ若いはずである。
それでも仮想世界である社会にどっぷりになってしまっている。
この現状は、人間という種の限界であるのかもしれない。
矛盾したことを言っているようだが、そういうことである。
大人のおもちゃショップのアルバイトを始めてから
すでに半年以上が経過した。
当時は知らなかったような事もいろいろと覚えた。
お金を貰ってやるからには、多少のプロ意識も必要だ。
と、そんなことを考えていたら、
ふと自分の将来のことが気になった。
通常大卒の平均月収は約18?20といった所。
例えば間をとって19万として、手取りは恐らく16くらいか。
これを週休2日の労働時間8時間で計算してみた。
時給1000円なり。
多少の増減はあれど大概の大卒の人間でもこんなもん。
年をとったり業績をあげれば多少増えて、
月収が30ほどになれば、
時給1875円なり
馬鹿にしてんのか。
でも現実。これ現実。
人より多少才能があろうが、努力しようが、
大抵こうなる。
たかが金持ちが何故、他人よりも偉いような気持ちになるのか、
少しだけわかるでしょ。
奴らは金、という一点において
その他大勢から突出している。
そしてその一点こそが人間社会では絶大な効果を発揮する。
ライオンが聞いたらさぞびっくりするだろうね。
紙屑とメダルが価値を持つ世界。
強さより、美しさより、巧さより、賢さより。
逃げられないよ。
絶対ね。
その世界で生きていく為に、
守るべきものが存在している。
子供、嫁、親。
そんな存在がいれば人は無敵になれるんだろう。
そんなものがなくても生きていく力があるなら、
それは本当にこの世界で生きる為に生まれた人間だろう。
金が全ての世界で、
金が全てだというのは簡単だ。
それでも俺は金なんて付随物だと言いたい。
彼との最初の出会いは、モストデンジャラスコンビだった。
俺が中学生の頃だったよな。
すんげーベスト10が関西圏で猛威をふるい、
千原兄弟をはじめとする、2丁目劇場の芸人たちがブームとなっていた。
それは関西にとっては本当の意味でのお笑いブームだった。
今の作られたお笑いブームじゃなく、
皆が笑うということを貪欲に求め、芸人がそれに応える。
そういう生の笑いがそこにはあった気がする。
もちろん、本当のお笑いが好きな人間にとって、
そのブームは過剰に加熱しすぎて、鼻につく部分も大いにあっただろう。
しかし、それをねじ伏せるほど面白い笑いがあったからこそ、
現在のお笑いブームのような作られた感が無かったのだ。
今のお笑いブームとは、
芸人の実力半分。テレビ関係者の先走った思惑半分だと思う。
無論、芸人たちにとって今回のお笑いブームは、
多少のステップにはなったであろう。
しかし、本当に全国で活躍できるレベルの、
高いクオリティで漫才やコントを作る芸人たちが、
全国区のテレビで活躍できていないのは、
俺にとってはすごく退屈な現状である。
その代表とも言えるのがケンドーコバヤシ、その人である。
ただ訂正しなければならないのは、
彼のネタは特筆するほどクオリティの高いものでは決してない。
ピン芸人というのは数多く存在するが、
彼はそれらの中で最も実力のある芸人だと言ってもいい。
発想、言葉のチョイス、勢いの演出、空気を掴むセンス。
どれをとっても超一級品だ。
それなのにも関わらず、ネタのクオリティの低いこと!
彼のネタの多くに共通する特徴は、
大枠の設定と気持ちよいフレーズ、決めのセリフをいくつか作り、
あとは場の空気に任せたアドリブというパターンが比較的多いこと。
伝説の一つとして、彼は持ち時間5分のネタを3分で作る。
というものがある。
これは、普通の人が聞くと楽をしすぎや!
と思うかもしれないが、
はっきり言って、こんなことできる芸人はめったにお目にかかれない。
不確定要素が多いネタで舞台に上がるというのは
自分の実力に自信がないとできないことである。
そして実際に、彼にはその実力が備わっているのである。
彼のネタには作品性がない。
これは残念ながら事実である。
だが、これはケンドーコバヤシという人間の気質に通じるものがある。
虚言癖、ふざけ気質なところがある為、
いまさらマジな感じでネタを作れなくなってしまった。
という所も大いにある。
血液型もO型であり、本来の自分を見せたがらない。
つまり真剣勝負、ガチンコをさせるのが難しいのだ。
だが、いい感じでお膳立てが出来上がっていて、
そこに彼の入り込む余地を与えさえすれば
彼はまず間違いなく、自分色の空気でしっかり笑いをさらう。
そこに作品性は必要なくなってしまうのだ。
記憶に残るネタ、記憶に残る笑い、記憶に残るフレーズ。
そういうものを彼は多く排出している。
そこに作品性が介在していなくても、である。
これはとても素晴らしいことだ。
下ネタ・プロレス・ガンダム。
ケンドーコバヤシで連想できる3つの言葉といえば、
この3つである。
だが、彼はマニアックなだけじゃない。
したたかな、誰もがニヤっとするような
巧さも持っているのだ。
それは確か、若手芸人にスポットをあて、
インタビュー形式で質疑応答を繰り返すタイプの番組だった。
その質問の中に「Q:ダウンタウンについて」
というものがあった。
彼はそれに対し「待ってろよ。」
と書いた上から二重線でそれを消し、
その隣に「ファンでした」と書いてみせた。
これには、ニヤっとする以外ない。
非常に巧いのである。
例えば他にも、
それがいつの特番で、誰が出ていたかもイマイチ思い出せないが、
かなり芸人に対する要求が無茶苦茶な生放送の番組があった。
関西特有の年末年始の特番内でのことだ。
『ここにあるメロンパンでボケろ』
というような内容だったと思う。
はっきり言ってムリである。
これに挑戦して多くの若手がスベリ倒した。
しかし、誰がそれを責めようか!
当たり前だ。そんなフリで面白くできるはずがない。
しかしその中で唯一コバヤシだけが、
確かメロンパンを彼女に見立てて泣き叫ぶ。
といったようなことをやったのだ。
「なんでだーー!」(号泣)
何年も前のことで、うろ覚えだし、
他のネタと混ざってしまっている可能性も大いにあるが、
こんな感じだったと記憶している。
前のことすぎて、彼以外の芸人も、そのボケも、
本当にまったく思い出せないのに、
そのコバヤシのボケだけはおぼろげにでも頭に残っている。
実際に面白く、そして彼だけがウケたのである。
まさに記憶に残る芸。
それは彼自身が意図しているわけじゃなく、
単純に面白いことをしたい、という欲求から生まれた、
そこにあるべき笑いだったから、
こうして何年も経た今でも、
その欠片を俺の頭の中に残すことができたのだ。
現在、彼の全国区のレギュラー番組に、
『考えるヒトコマ』がある。
ダウンタウンが好きで、ケンドーコバヤシが好きな俺は、
この番組の存在がどれだけ嬉しいことか。
そして彼はその中において、
松本人志のボケを圧迫することなく、
完全な独自の色で笑いを製造しているのである。
決して強引に奪うのではなく、
正当な場所で、正当に笑いを作っている。
決して前に出すぎず、下がりすぎず。
絶妙なポジションどりで、大事な所を持っていく。
NSCの11期生、中川家、陣内、元LaLaLaのたむらけんじなど、
全国区へのデビューは少々後発組となってしまったが、
ここしばらく、目を離せないことになりそうだ。
来月の『人志松本のすべらない話3』にも登場するようである。
個人的にはコバが最近NSC10期のメッセンジャーや
元シェイクダウンの後藤秀樹なんかと、
同期みたいなイメージに見られようとするために、
ところどころタメ口を使っていってるのが面白い。
この前はその都度メッセンジャーの黒田にしばかれてたw
俺の中でケンドーコバヤシの名を確固たるものにした番組
『見参!アルチュン』
DVD化されたら絶対買うなぁ…
というかMBSから個人的にでもいいから
VTRをまとめたDVDを作ってもらいたいくらいだ…
ってゴメン…
書きすぎた!
ここまで読んだ人は絶対に一人もいないはずw
ここだけ読んだ人はいるかもしれんが。
呪詛さながらの詩のようなものを書いてみました。
ああいった詩の内容だけが、俺の本質じゃないので誤解しないようにw
とはいえ、もちろんああいった詩を書いてしまうような
どす黒い一面を内包しているのも事実。
俺が犯罪なんかを犯すと、ああいうのだけが抜粋されて
マスコミに利用されたりするんだろうw
人間というのはそうして他人にレッテルを貼るのだ。
レッテルというのは、
本来は非常に難しいはずの人間関係の構築や
人間性の理解を物凄く簡単にしてくれる。
言い換えるなら、人間の記号化だ。
そういったことを、人間が当たり前に行えるようになったのは、
恐らく案外に最近のことではない。
文化というものが生まれ、社会というものが形成されてしまっては
もう人間という脆弱な存在は、
他人を記号化することで認識したいと思うのだろう。
「最近の若いもんは」
などはその一番良い例である。
ピラミッド内の壁画にまで、
そのような意味の言葉が書かれていたというようなことを聴いた。
自分を人間1号として捉えてしまったなら、
他人はすでに人間○○号なのである。
それが最初のレッテルとなり、
その上にどんなレッテルを貼ろうが、
レッテルの上にレッテルを貼ることに罪悪感を感じる人など
ほとんどいなくなってしまう。
俺は自分にレッテルを貼らない。
いや、むしろ自分自身を自分自身のレッテルで固めて
他人に張られるレッテルから自分を守ろうとしている。
それが社会に対する俺のせめてもの反骨精神、
ロックなのかもしれない。
腐っていく。
毎日と共に、自分が。
自分の気分が落ち込んでいる時は
こんなにも世界は忌むべき、消し去りたい存在であることに気付く。
そうして、この今日と言う日は、
自分の中で腐っていき、いつしか壊疽となる。
その腐敗の中から芽を出した、
この世界への絶望が、
いつの日か自分自身を、
この世界自体を消し去ってしまいたいと
望むことを。
一体誰が止められるというのだろう…
そうして
腐っていく。
毎日と共に、自分が。
購入、読了。
やっとこ終着点のひとつがぼんやり見えてきた感じか…?
ブギーポップは物語を完結させる明確な力にはなり得ないから、
凪という本当の主役がいるわけで。
ロストメビウス、本作と続いて凪に関して重要な展開が見られた。
のはいいけど、作品ごとの年表のようなものを作って頂かないと、
はっきり言って全然把握できないっす…
ってか、このビートシリーズは物語の核になりそうな人物をいっぱい出しすぎ…
凪、柊、アルケスティス、リキ・ティキ・タビ…
朱巳やら仁やら、朝子やらビートやら、リィ君やらイナズマやら…
ブギーポップなんか全然いらない存在だってことが露呈してしまった。
ただ、ブギーポップの天敵という存在でいえば最もヤバイのは
水乃星透子(イマジネーター)だろうが、こいつを消す方法は想像できない。
というか遼か遠い未来の世界にまで幻想として存在するイマジネーターと、
どうやって決着をつけれるというのだろうか…
手のつけようがない、と思う。
けど、ブギーポップとはまさにVSイマジネーターな存在な訳で…
ブギーポップという作品の終結は、
イマジネーターと何らかの形で決着をつけないと、迎えられないだろね。
物語の終結、という意味では凪系の話が
しっくりくる終り方を向かえるだけでも充分かな。
終わらせる気があれば、の話し。

うぉおおおお、キッチ・キッチンーーー!
バッフクランめ?????!!
なぜだぁああああああああああああ!!
パワーは上がっている!
くらえ、イデオンガンッ!!
と、キッチンに関係のないザコやボスやらを落としまくるイデオンに助けられ。
スパロボ2週目も順調に進んでいるわけでございます。
それにしても今回のスパロボ、
どうやらイデオンエンドなる最終話が存在するらしい。
イデエンド、ということは劇場版イデオンの発動篇をやるってことだろう…
これは絶対に見なければならんな。
スペーーーーーース ラナウェイ!!
スパロボ1週目クリア。
既に2週目の15話に突入中。
セレーナ(アイビス)は中々おもしろかったけど、
どうしてもエクセレンの2番煎じ感が否めないかな…
アイビスのほうが主人公っぽいってのもあるし。
2週目はトウマくんでプレイ中。
やはりゼンガー親分は第2次αでの主人公あつかい。
セレーナシナリオでは親分少々無理やり登場してきたからなぁ。
トウマシナリオは中々よさそう。
全主人公プレイするために最低4週。
もっかいアイビスみるために5週。
あとは暇つぶしで6週くらいはする可能性あり。
死体が動いてゲームする。
今日の俺。
12:30頃、起床
後約6時間ほどスパロボ。
途中食事休憩約一時間含む
バイト前に一曲作曲
で、現在バイト中。