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ワレ

そうか。

自分とは「我」、すなわち「割れ」だ。
「自己」という己を割ったものが「自分」であろう。
他者の中にも自己の中にも存在する中間的な概念体。
しかし確実に「自己」の一部である「自分」。

「ワタシ」とは「自己」と「自分」の「渡し」であるのか?

己とは「ミ」であり「コ」である。
つまり「身」であり「観」であり「実」であろう。
「個」であり「児」であり「呼」でもあろう。

自己とはそれら分かたれたものの集約だ。

「己」が「ミ」と「コ」であるということは、
「己」=「ミコ」という二重の意味制をとれるかもしれない。
「ミコ」に「神子」という文字を当てられるとすれば、
「神子」とは「ミ」であり「コ」である性質の特化を言うのだろうか。

つまり「身」であり「観」であり「実」であろう。
「個」であり「児」であり「呼」でもあろう。

ともすれば「未」であり「去」でもあろう。

そして「Call Me」もまた「コーミー」で、
「私を呼んで」という「ミ」と「コ」に近い言語感覚かもしれないと思える。
そして「私を見て」という風に解釈できなくもない言葉でもある。

当然、言葉とは他者が存在しなければ生まれることないものだ。
しかしそれにしても言語間を飛躍した
重複した意味を持つ言葉が世界中には多すぎる。

言語を飛躍した音韻による意味制の重複は、
言語や民族はもともと一つに統一されていたかもしれない、
という可能性を感じさせる一致である。

そして今現在「我々」が「我割れ」という群体として、
新たな社会構造体を形成する役目を背負わされているとするのならば。
恐らくそれは言語統一という文明を持ってしても、
理念や思想統一は果たされなかったということだ。
少なくとも過去には。

だが未来には。
「ミコ」にはまだ可能性が秘められている。
己とは「自己」であり、
おそらく自己とは「時己」であろう。

「未」と「去」を「時己」に。

散らばり拡散する意思を、
編みあわせて穏やかな自己を獲得することは難しいことだろうか。

「互」という自が示すようにお互いが不均衡にでも、
支え合って認め合える形を探ろうとすれば、
それは「字」となり「地」となる。

「字呼」を「地児」を、
「自古」を「自凝」を「自児」を「自呼」を。
「自故」を。

認めていければ「自分」は「自己」へと統一させられる。
それは簡単ではないかもしれないが、
決して難しいことではない。

他者がいてこそ己がいる。
自らの名を呼んでくれる人がいて、
初めて人は人になれる。

過去は多くのことを教えてくれるし、
未来は多くのことを思わせてくれる。

今という一瞬が無限につながっているという確信がある。

吾が悟りに至るまで。
「吾」の「五」と「口」とは「五感」と「言葉」であろう。
「五」はそのまま「五感」と捉え、
「口」はおそらく仏教用語的に「言葉」と捉えたい。

「言葉」は「言の葉」であり「事の端」だ。

「五感」は「互換」となり「語感」によって伝えられる。

「口」は伝え合い、分かり合う重要な器官でもある。
「伝える」とは「人」が「云う」ことであるし、
「分かる」とは「理解」する、
つまり「理(ことわり)」を解くということだろう。

「我」という字を割っていくと、
「丸」という字に似たような字が現れるなと思った。
俺の「円山」の「マル」は本来「丸」なのだが、
あまりマルっぽくないので好きじゃなかったのだ。

しかし「我」の中に「丸」があるなら、
なんとなく納得はできる気がする。
丸っていう字にあれやこれやと一杯付け足して、
身動きが取りづらそうだ。
不自然な気がする。

当面はやっぱり円山っていう表記でいきますよ。
下の名前は親がくれたもんなのでそのままにしておきますが。

やっぱり「ワレ」とは、「吾」って感じがするな。
今のところ。シンプルで身軽で在るが儘って感じがする。
相手に対して「ワレ」や「オノレ」や「ジブン」というのは
本能的に他者が自己と同質の存在なのであると認識しているからではないか?

「悟り」の「吾」のよこにあるのは立心偏。
心を表す文字だ。
心とは一人では肥やすことのできないもの。
心が立つまで人は赤子のままだ。
吾とは幼きものだ。
「悟り」とは「吾々」の中から獲得しうるものなのだろう。

「話」によって「和」はなるのだと
「環」になった世界は教えている気がする。

自分の名前にマルが入ってるんでそう思うんでしょうかねぇ。
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愛って漢字は良く出来てるなぁ。

愛というものには多面性がある。

人それぞれに異なる形の愛があり、
小さな愛があちらこちらで溢れかえっている。
全てのものに愛を見出すことができる。
だからこそ愛の本質というのも、
それら全てのものの本質と大して変わらない。

はた迷惑なものから、
取るに足らないどうだっていいもの。
履き違えた愛。
ひっそりと誰かへと捧ぐ愛。
ありふれた、なんてこともない愛。
そんな小さな愛たちは
それだけでは世界を動かしたりしない。

しかし、それが集まって群れになれば、
ある方向性をもった強い流れとなり、
いつかは何かを変えることもある。

All you need is love(愛こそはすべて)。
ならば。
その全てとは。
誰かにとっては取るに足らない、
しかし誰かにとっては無くてはならないような。
そんなもののことなのだ。

難しい多面体だなー愛って奴は。
でもまあ付きまとうんだから、
付き合っていくしかないんだろうね。
愛とは自分のことであり、
自分以外の誰かのことであり、
世界全てのことである。

心を受け止めて、初めて人は「愛」を知る。

ぶつけるだけじゃ愛じゃねーんだなぁ。
つなげてようやく愛になる。

言葉以前の代物

観点の手に入れ方。

六芒星とは△と▽を合わせてできる図形のことで、
一般にはダビデの星や籠目紋などとも呼ばれる。
▽は陰を表し、△は陽を表す。
陰陽の2気が交じり合い6つの点が現れることから、
2+6で八卦を求めているとも考えることができる。
つまり太極図とよく似た思想構造であると言える。

また6は六感を表し、
陰陽が和合する中心に存在するヘキサゴンは、
六感を基礎とする人間的な観点の象徴であると考えることもできる。
ゆえにピラミッドアイは六芒星的観点の、
陽の気を表す象徴とも考えることができる。

陰陽思想を基にした易経に詳しい繋辞伝において
「仰いでは以って天文を観、伏しては以って地理を察す」
とあるように、
天から降り注ぐ陽の気は天文であり、
地から立ち上る陰の気は地理であると考えられる。

人は恐らくその中間の存在である。
中間とは陰陽思想的に捉えれば、
即ち無であり空である。
何もないからこそ観測しうる。
仏教において、
自我を無や空に至らせる修練をするのは、
恐らくは天文と地理を太極的な観点にて観測する為である。

古事を学ぶことによって浮き彫りになってくるものの多きこと。
フルコトとはもしかすると降言と記すのかもしれない。

言葉はもともと一つの物であり、
それが天文であったと考えることができる。

天へと至る塔のことをバベルの塔と呼び、
それを作ろうとした人間には天罰が下され、
言葉は分けられ、人は混乱の世を生きることとなる。
しかし、
それはキリスト教的な善悪二元論においての価値観であり、
陰陽思想的に捉えるのならば、
バベルの塔とは地から天へと向かう力のことであり、
それは陰の気の象徴でしかないだろう。

天から降り注ぐ一つの言葉は分けられ、
地には「理」が根付く。
これはすなわち「言割り」ではなかろうか。

人は天文を観、地理を察することによって観点を手に入れる。
この観点は太極である。
太極とは無極のことであり、両義を生ずる神の視点である。

言葉以前のものは今も我々を打ち抜き大地に降り注いでいる。

さて、書きながら自分でも整理できていない部分が沢山あるなと思いつつ、
これくらいでやめておかないと、頭が茹で上がってしまいそうだ。

一人

何かを背負うと覚悟を決めた時から、
人は一人になる。

一とは人が背負う覚悟の象徴のようだ。

一人になるということは大人になるということだ。
一人とはそのまま大をあらわす。

一人であることに責任を持とう。
そこから他人というものが初めて見えてくるはずだ。

神はどこにいるか?

という恐ろしいタイトルで、あえて始めてしまう。

人は古来から、様々な形で神というものを作り出してきた。
我が国を含め、世界各地には未だに様々な神がいる。

それらには実はすべて共通点がある。
そして、その共通点を知る為のヒントは既に我々に与えられていた訳だ。

神という字を、分解してみると。
「示」と「申」という字になる。

「示」という字は自分の考えや物を人に見せることを意味する。
「申」という字もまた自分の考えや物を人に話すことを意味する。

「神」とは即ち、
人々が相互に理解を深めようとする意識の中に宿るものの事だ。
場合によってはそれが宗教のような形になることもある。

相手の考えや物を理解しようとする心がなければ、
相手の「神」を理解することなど到底無理な話なのだ。
逆もまた然り。

神がどこかにいるのだとすれば、それは人の中だ。

神は、
自分を他人に伝えようとする意思の中にこそ宿る。
他人を理解しようとする心の中にこそ宿る。

そういった物なのではないのかと思うのだ。
一つの神を信ずるも、八百万の神を信ずるも、己の中の神を信ずるも。
神がいないと信ずるも自由だ。

しかし一つだけ言えることは、
それらは他人がいなければ、生まれることすら無かった意識に違いないのだということ。

初めに言葉ありき
言葉は神と共にあった、言葉は神であった、
この言葉に命があった、そしてこの命は人の光であった


聖書の中に書かれている、
真理の一端を捉えているであろう一文だ。

言葉などというものがなければ、人は相互に理解を深めようとはしなかっただろう。
逆に言えば、人同士が相互理解を深めようと思うことがなければ、
言葉などというものは湧き出てはこなかった。

相手に自分のことを伝えよう、相手を知ろう、
という意思があって初めて、言葉は意味を持つ。
「言葉に命があった」とはそういうことだろう。

「そしてこの命は人の光であった」
人の光、という言葉をどう理解するかにもよるが、
命は即ち人の光である訳だから、
人の光とは、そのまま言葉の命である「示」「申」の意思であろうと思う。

言葉に命を宿すのは人と人であり、
その言葉は「神と共にあった」とある。
そして「言葉は神であった」と続く。
言葉=神ではなく、言葉≒神なのである。

    示
人 言 葉 人
    申

感覚的に伝えようとするなら、こうなる気がする。

人と人が互いに言葉や自分の身体を使って、
何かを示したり、申したりしていく中で、
知らず知らずの間に神というものは生まれる。

互いが互いの意思を伝えあうだけで、
相手を理解しようとしなければ言葉はぶつかりあい、神は半身をもがれる。

相手を理解することと、自分の意思を曲げることは全く違う。

他者の考えに思いを馳せずに、
自分の意思だけを撒き散らすのでは言葉に命はない。

「それは違う」という表面的な答えが同じであっても、
相手を理解しようとした上で生まれた答えと、
自分の意見だけを押し通そうとする答えとでは、
まったく本質が異なるものである。

「示」と「申」。
どちらも伝えるための文字である。
だからといって押し付けがましい言葉であると理解するのは短絡的というものだ。

伝えるという物事の根幹には、
相手を理解したいという心があるという事を忘れてはならない。
理解なくして伝えることなどできず、
伝える意思なくして理解することもまたできない。
相克する理由が陰と陽のように複雑に絡み合っている。

しかし同時に、伝えることだけに捉われてしまって、
半身をもがれた神ばかりがこの世界に満ちていることも事実である。
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