コトダマスター
心の罪という記事を書いていて、
途中で軸がぶれるのでやめたが、
いくつか言葉の持つ面白い真理性を見つけたので、
ここに書いておこうと思う。
上記の記事でも書いたが、
まずは死という字と外という字の類似性についてだ。
死とは命が外へと向かうことを言う。
何から外へと向かうのか。
当然「内」からだ。
この内という字も興味深い。
器の中に人が入っているように見える。
しかし完全には入っていない。
頭が少し出ている。
人は外に出ることを約束されているからだろう。
死なない人はいない。
「外」という文字が持つ不思議はまだある。
死んだ人間が現世に思いを残すことを「怨念」という。
この怨という字、外に心と読める。
外の心が内側に影響を及ぼす。
それを怨念というのだろう。
亡くなってしまった人の事を、
心から消せば「忘れる」ことになり、
心に刻めば「忘れない」ことになる。
だから人は誰かに心を伝えたいと願うのかもしれない。
誰だって忘れて欲しくはないから。
次に「息」という文字について。
自らの心と書いて息。
空気を吸い込み、心を乗せて吐き出す。
これが息であり、声だ。
あらゆる事柄において呼吸が大切にされる意味も、
恐らくはここにある。
呼吸とは自らと地球との対話なのだ。
地球と我々は否応なしに繋がっている。
「息」という言葉が「生き」にも通じる言葉であることも理解できる。
人は呼吸によって生きている。
親は子を呼ぶとき、
息という字を使う。
むすことむすめという言葉は、
現在では息子、娘という風に記すが、
ご息女という言葉が残っているように、
恐らくは昔は男は「息男」女は「息女」と書いて、
むすことむすめと読んでいたのではないだろうか。
人が地球と対話して、生み出した祈り。
精一杯に生きて欲しい子供ら。
「息子」らなのではないだろうか。
これらのような言葉から何かを読み取っていると、
何故言葉にはこんなにも真理の一片が隠されているのだろうと、
不思議な気持ちになる。
言の葉というくらいに、
それは生々しいものだからではないだろうか。
人は言葉を自らが生み出したと勘違いしているが、
それは多分まちがっている。
葉とは樹が育むものだ。
樹とは大地が育むものだ。
大地とは生きとし生けるもの全ての温床であり、
それらの死が育んだものだ。
恐らく言葉とは、そういった循環の中から、
人が世界から借りているものなのだろう。
そして人が言葉を割り、
何かを考える時にこそ「理」は見えてくるのだろうと思う。
途中で軸がぶれるのでやめたが、
いくつか言葉の持つ面白い真理性を見つけたので、
ここに書いておこうと思う。
上記の記事でも書いたが、
まずは死という字と外という字の類似性についてだ。
死とは命が外へと向かうことを言う。
何から外へと向かうのか。
当然「内」からだ。
この内という字も興味深い。
器の中に人が入っているように見える。
しかし完全には入っていない。
頭が少し出ている。
人は外に出ることを約束されているからだろう。
死なない人はいない。
「外」という文字が持つ不思議はまだある。
死んだ人間が現世に思いを残すことを「怨念」という。
この怨という字、外に心と読める。
外の心が内側に影響を及ぼす。
それを怨念というのだろう。
亡くなってしまった人の事を、
心から消せば「忘れる」ことになり、
心に刻めば「忘れない」ことになる。
だから人は誰かに心を伝えたいと願うのかもしれない。
誰だって忘れて欲しくはないから。
次に「息」という文字について。
自らの心と書いて息。
空気を吸い込み、心を乗せて吐き出す。
これが息であり、声だ。
あらゆる事柄において呼吸が大切にされる意味も、
恐らくはここにある。
呼吸とは自らと地球との対話なのだ。
地球と我々は否応なしに繋がっている。
「息」という言葉が「生き」にも通じる言葉であることも理解できる。
人は呼吸によって生きている。
親は子を呼ぶとき、
息という字を使う。
むすことむすめという言葉は、
現在では息子、娘という風に記すが、
ご息女という言葉が残っているように、
恐らくは昔は男は「息男」女は「息女」と書いて、
むすことむすめと読んでいたのではないだろうか。
人が地球と対話して、生み出した祈り。
精一杯に生きて欲しい子供ら。
「息子」らなのではないだろうか。
これらのような言葉から何かを読み取っていると、
何故言葉にはこんなにも真理の一片が隠されているのだろうと、
不思議な気持ちになる。
言の葉というくらいに、
それは生々しいものだからではないだろうか。
人は言葉を自らが生み出したと勘違いしているが、
それは多分まちがっている。
葉とは樹が育むものだ。
樹とは大地が育むものだ。
大地とは生きとし生けるもの全ての温床であり、
それらの死が育んだものだ。
恐らく言葉とは、そういった循環の中から、
人が世界から借りているものなのだろう。
そして人が言葉を割り、
何かを考える時にこそ「理」は見えてくるのだろうと思う。